第百二十五章 禅 譲
親書をわたして間もなく、守護の上杉 定実から「
景虎さまが病床にふしている晴景さまへ訪れ、あいさつを交わされたが、二人の間でどのような会話があったか全く伝わってこない。為景さまも同席したことが分かっている。
あわただしく守護代を交代する準備がはじまった。晴景さまは府中にある、長尾家の歴代の当主がつかった館へ引き移ってゆく。およそ八百三十名いる常備軍が住む家を決めなければならぬ。ほとんどが独り者なので、賄いつきの寄宿舎に割りあてる。
春日山城は謙信時代に本格的な整備がされた。今のところ、本丸と二の丸の実城郭と、これに接する東西の郭である三ノ丸が目につく程度である。まだ家臣団を呼びよせて城下町に住まわせる権力を持っていない。
山城は一旦 緩急あれば逃げこむために用いられる。ふだんの政務は平地で行うほうが合理的である。今の情勢なら早急に城を整備する必要性を感じない。徐々に手をかけてゆけば良いだろう。優先順位として下位にランクされる。
栃尾城とおなじく軍師殿と中腹にある二軒長屋に宛がわれた。限られた建物しかないので、当面は我慢するしかない。亜希子の医療所は、倉庫の改築が伴うので時間を要する。スタッフは改築が完成するまで栃尾城に残ることとなった。
嬉しいことに軍師殿が功績をみとめられて百貫文の昇給があった。僕と亜希子それぞれ新しく二百貫文の手当を支給されることが決まる。これで、永年にわたって九郎殿から顧問料を頂いていたが、晴れて常雇いの身となった。
常備軍およそ八百三十名、それに百騎ほどの荷駄をともなって栃尾城を出発したのは四月の中旬だった。千名にも達さんとなる軍列は北条城で一泊、そして柿崎城で二日目を、三つ目に春日山城に到着した。子女を伴うので、ゆったりとした歩みとなる。
割りあてられた住まいにバタバタと荷物を運びいれ、ほっと一息ついた。
「やっと苦節九年、われらが望み一歩ふみだしましたなあ。ひとしお感慨深いものでござる」
「さようですね。信州の旅がお互いの機縁となりました」
「天下人の軍師にならんか、お主の言葉がまっすぐ胸に突き刺さったのを今でも思いだすわ」
「軍師殿を口説き落とす科白はこれしか無いと思い定めておりました」
「おなごをくどく殺し文句のようなものじゃのう。あっはっはっ!われも単純な男よ」
「後悔しておりますか。『プロポーズ、あの日にかえって、ことわりたい』という川柳がございます」
「お主も人がわるい。わしがどれほど今の暮らしを楽しんでおるか、一目瞭然だろう」
「軍師殿、話しは変わりますが、ご検討していただきたい戦さがございます」
「ほう、差し迫った戦さかな?」
「とうめん最大の敵である信玄は、生涯で二度いくさに敗れております。一つは三年後におこる上田原の合戦と、五年後におこる砥石崩れという合戦です」
「そうか、信玄は死ぬまでに、二度しか合戦に敗れておらんのか。それは難敵であるのう」
「いずれも相手は信濃国の大名である村上 義清でございます」
「きやつは名うての強者じゃ。弟の矢沢 頼綱とは既に会っておるな。秘かに村上氏と手づるは付けとる」
「軍師殿のじたくで紹介いただきました」
「あの信玄が不覚をとるとは、如何なる戦さじゃ?」
「上田原の合戦では、あと一歩まで信玄を追いつめ、手傷を負わせております」
「ほう、討ち取る寸前まで行ったのか。そりゃあ村上も歯ぎしりして口惜しがるじゃろなあ」
「信玄はしばらく隠し湯で、傷の手当てをせねばならぬ羽目に陥りました」
「そのような危機一髪の戦さを教訓に、負けぬ戦いをするようになったのじゃなあ」
「たしかに信玄にも若気の至りと自省する時機があったのですね」
「もう一つも時期は近いのう。それに砥石と言ったら、わしの郷のすぐ傍じゃ」
「まさしく真田郷の川をはさんだ向かいの山城でございます。その二年後に村上氏が高梨氏と合戦を始めました。その隙に砥石城を包囲して攻撃しておりました。それを知った村上氏は和平をむすび、一気に信玄を狙います。村上氏の南下を察知した信玄は、挟み撃ちを嫌って軍を退けます」
「城から討って出た軍勢と村上軍の追撃は激しく、武田軍は千人近いの死傷者をだしました。信玄自身も影武者を身代わりに立て、辛うじて窮地を脱したといわれます。これを『砥石崩れ』と称しています」
「ほう、わしの近くでそんな合戦が起こるとは」
「検討して頂きたいのは、信玄を討ち取る戦さは、どちらを選んだら良いのか?」
「うむ、三年後と五年後か」
「守護代に就任して三年間は、しっかり内政を固めたい時期であります。しかし、信玄が手傷を負ったという事実は大きい。うまく村上氏と連携して戦えば、討ち漏らす確立は限りなく無に近づきます」
「一方、五年かけて越後の国富をたかめ、じゅうぶん訓練した精鋭部隊で武田軍を壊滅させる。どちらを選ぶべきか、頭を悩ませております。ぜひ良いお知恵を授けていただきたい」
守護代に就任したお披露目と、家臣へのお目通りは四月二十五日に執り行われた。式次第は事務方ですべて取りしきったので、こちらは気楽に出席するだけで良かった。
大広間の正面の壁には、大きな「天下布武」と刺繍された旗が広げられていた。
これで新しい守護代の決意と夢が、家臣一同に披露され共有できた。
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