第百章 能 吏
景虎さまの武名は思わぬところまで余波が広がっていた。これまで守護の上杉 定実とは距離を置いていた。
一度お目にかかりたいが、自分は上杉家の家臣なので、表だっての会見は主君に
景虎さまと軍師殿は守護の上杉 定実の指示と確信している。いちやく勇名をあげた弟君の品定めを命じたのだろう。こちらとしても異存が無い。衰えたとはいえ、守護の名前は越後の城主や豪族にとって権威の象徴であり犯しがたい存在だ。
栃尾城から十日町まで南へ五十キロ強ほどの距離だ。信濃川が浸食した平地にある。馬ならギャロップで時速二十キロ、三時間もあれば余裕でゆける。午の刻の指定だったので、辰の正刻(午前八時)に出立。
軍師殿とそれがし、金津 新兵衛、小島 彌太郎がお供についた。ちなみに小島 彌太郎は柿崎 景家が、武勇に惚れ込んだ男だ、ぜひお傍でつかってくれと推挙した。
景虎さまも一目見て気に入られ、身近においている。
予定の刻より半刻まえに到着した。開基は征夷大将軍の坂上田村麻呂というから
七百四十年ほどの歴史をもつ古刹だ。苔むした境内と杉林はおちついた雰囲気を醸しだしている。茅葺きの山門は二階に高欄をもつ楼門で、格式高い様式は林泉寺を思いださせる。
山門をくぐると石畳の参道があり、脇はコケが敷き詰められ重厚な佇まいに心が落ち着く。参道正面に本堂の観音堂がかなたにあった。石畳をゆっくり踏みしめて本堂へ近づく。本堂は高床式で地面より二メートルほど高く、四周を高欄で囲っている。
建物は茅葺きの入母屋で、参道の幅にあわせて二本の太い柱に支えられた千鳥破風が張り出している。横木の先端を飾る
正面階段まえに五人が並んでいた。一歩まえに立っているのが大熊殿であろう。二十八・九才くらいの年齢にみえた。この若さで人物の見極めを命ぜられるとは、相当の知略と武略をかわれての事と思われる。知性を感じさせる澄んだまなこを持っていた。
互いに名乗りをあげて二人ならんで石段をのぼる。正面に木彫りの千手観音の立像、左右に毘沙門天王と広目天王の三体が祭られている。見上げると、格天井は五・六十もの区画に分けられ彩色した天井画が描かれている。ところ狭しと飾られた極彩色の絵馬にも驚く。
会見は本堂の脇にある和室でおこなわれた。
「こたびは見事なる勝ち戦さ、祝着至極に存じます。主君もたいそう お喜びようで、越後の安穏がこの勝利で戻ったと安堵しておりまする」
「過分なるおことばを賜り、恐縮の至りでござる」
互いに畏まったことばの応答から始まった。
「若殿とうかがっておりましたが、失礼ながら これほどお若いとは。些か驚いておる始末。いかに戦さの天凜をお持ちかと称賛いたすしかござりませぬ」
「貴殿こそ ご主君の信頼があつきゆえ、その若さで遣わせられたので御座らんか」
「はっはっはっ、これは一本とられ申した」
「われは周りの者に恵まれておる。良い献策がつぎつぎと提言してまいる。本音を申すと、騎馬で敵の本陣をつく戦さをしたいのじゃが、匹夫の勇じゃと止められておる」
「三百騎の突撃をいっしゅんにして殲滅したと聞き及んでおりますぞ」
「
「如何様に変わるとお思いか?」
「われは如何にしたら戦さのない世を作れるか、それのみ み仏に念じておりまする。それを邪魔する者は、毘沙門天王に成りかわって踏みたおす覚悟でござる」
「戦さがない世の中、夢のようなお話しでござりますなあ」
感に堪えざる面持ちで ため息をついた。
「率爾ながら伺いたいが、いかなるお役目を仰せつかっておられるや」
「御公銭方を務めておりまする。下賎なことばで申さば、税金の取り立て役でござる」
「いやいや、お役目を
「過分なる評価をいただき、面目これに過ぎるものはございませぬ」
話しの受け答えを傍で聞いていたが、
史実では、景虎の擁立に動いた立役者として、直江 影綱、本庄 実乃、大熊 朝秀の三人が奉行人連署状に名を連ねている。いわば景虎の三功臣であった。家臣の所領をめぐって争論など内紛が連続し、嫌気がさした謙信が引退宣言をした。
その元凶が大熊 朝秀だと周囲から白眼視された。それを不満とし千五百五十六年に信玄と内通して挙兵した。鎮圧軍にやぶれた朝秀は武田を頼って甲斐へ落ち延びた。
エピソードして伝わるに、武田軍が上州の箕輪城を攻めたとき、城に一番乗りを果たした。城主の護衛役が、新陰流の祖と仰がれる上泉 信綱。剣豪と一騎打ちをしたが、身にかすり傷を受けなかったという剣の遣い手でもあった。この功績が信玄に認められ、足軽大将の任命をうけ、トントン拍子で出世をし一城の主となる。
信玄の上洛した折りは甲斐古府中の留守居を命じられるほど信頼された。武田家滅亡のさいは勝頼の自刃まで同行する義理堅さを見せている。
文のみならず武にも優れた人物で、恩義に報いる情熱を持っている。謀反など行わせぬよう、しっかり支えなければならない。
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