第七十一章 延 命

 千五百四十一年は武田 信玄が父の信虎を国外へ追放し、甲斐の当主となった年である。東は北条 氏康が相模・武蔵の検地をおこない領国の経営は安定し、戦国大名の道を歩みはじめていた。難敵をひかえ必然的に西へ矛先を向けるしか無かった。信濃国は大国であるが山脈が中央にひろがって南信と北信に二分している。信玄が信濃に手を延ばし始めている事を、常に頭に留めておかねばならない。


 翌年の四十二年に起きた長尾 平六の乱、晴景さまが戦いを挑んでコテンパンにやられてしまった。真田 幸隆が軍師として為景さまから派遣されていたが、晴景の自尊心からか策を取ることもなく呆気なく敗れてしまう。晴景は戦をさけて政治的な動きで事態を収拾しようとする。この経過は混迷の章で詳しくふれた。


 この時期に為景さまの消息がまるで消えてしまっている。あれだけの戦上手が、手をこまねいているのが可笑しい。史実ではこの年の十二月二十四日に病没している。謙信は三条城から林泉寺へ遺体を運ぶため鎧・甲冑姿で護送したことを後世いかりをもって書き残している。平六と揚北衆が妨害しようとしたのだろう。


 この病気の原因は不明とされているが、じつは亜希子がおおきく関わっていた。為景さまは戦争に明け暮れた生涯であったが、隠居後は三条城に引きこもって余生を過ごしていた。粗食に甘んじてきた反動か、白米を三度の食事に大食いするようになった。江戸の住民がくるしんだ「江戸わずらい」に罹ってしまった。


 この病は明治の世まで続いた。文豪で有名な森鴎外の本職は陸軍の軍医であった。海軍は合理的な思考で麦飯を給食し脚気による死亡はほとんど無かったという。

鴎外は細菌説を主張し、白米中心の食事に関心を寄せることは無かった。日清戦争では戦死者が二百九十三人に対し脚気の死亡者は三千九百四十四人。日露戦争では戦死者が四万七千人に対し二万七千八百人の脚気による死亡者が発生した。戦死者の中にも多くの脚気患者がいたという。結核とならぶ国民病といわれた。


 いわば死ななくても良い人たちが大勢なくなった事実である。鴎外も罪なことをしたものだ。大きな原因は徴兵令の目玉が一日六合の白米を食べさせるとの特典だ。多くのまずしい人たちにとって魅力的な誘いであった。白いご飯を腹いっぱい食べられる誘惑は、貧しい食生活を送ってきた人には堪えがたい魅惑であった。


 異常に気付いたのは初夏のころ軍師から為景さまの症状を聞いた亜希子だった。説明によると、全身の倦怠感から始まり食欲がなくなり次第に下半身のだるさを訴えていた。年齢による老衰かなと寝付いていたが、足のしびれや浮腫が出てきた。しだいに動悸や息切れを起こすようになって寝たきりになってしまった。ときどき心臓の発作をおこすようにまで症状が進んだ。


 亜希子が食事の内容を聞いて脚気の可能性に気付いた。こうなると往診して確かめたい、と言いだした。脚気の治療薬はビタミンB 1であるが、この時代に薬など調合できない。麦飯など雑穀を食べさせれば体質が改善し治療できるが、心臓の発作まで進行していると即効薬でないと間に合わないかもしれない、と続けた。


 亜希子が決断し、脚気を前提に薬を持参することにした。弟子たちに生の米ぬか一升と、さらしの袋、酢を一合、そして水が一升入る鉄鍋とすりこ木を用意するよう命ずる。材料がそろうと自ら台所で深めの鍋に湯をわかし始めた。煮たぎった鍋を下ろすと食酢を味見して酸味を判定してから加えて、ペーハーが四ていどになるよう注いだ、と説明した。


 その熱湯一リットルに百グラム見当の米ぬかをさらしの袋にいれて浸した。たちまち熱湯は白く濁ってきた。すりこ木でぬかをかき混ぜながら、ぬかに含まれているB 1の半分だけでも溶け出せば大出来だ、と独り言を言っている。一回目のぬかを固くしぼってから捨てた。


 おなじ作業をゆっくり時間をかけて四回くり返した。これで四合ほどの酸っぱい匂いがする白濁した液ができた。少なくとも十ミリや二十ミリのビタミンB 1の塩酸塩が含まれていると思う、と説明してくれた。


 このままでは糠の汁と病人に分かってしまうからと、ショウガを摺りおろして加えた。これを五合の瓶に詰めて三条城へ向かう。弟子たちも連れて臨床の実習を兼ねるそうだ。子どもたちはお菊に任せて、今井支店へ急ぐ。折悪しく九郎殿は不在だったが、番頭の一存でテント船を出してくれた。


 昼からの出立だったので、その日は柏崎で一泊した。久しぶりに九郎殿の本宅に顔をだした。お銀さんは九郎殿が浮気をしなくなったせいか、機嫌が良く笑顔で出迎えてくれた。九郎殿がうちの湯殿を堪能してくれと、口で嫌がる亜希子と一緒に案内してくれた。あの二人用の浴槽は自宅に据え付けたのだ。


 あれ!妻の裸を見るのは初めての経験か。うん、今度は自宅にもつけねば。もちろん子どもと一緒に入るのが原則。ただし原則は例外がつきもの。夜の宴席はお浜さんのおでんがついていた。今じゃ柏崎の名物料理として、あちこち真似をする店が出るほどの人気料理とうれしい報告があった。


 次ぎの日は寺泊へ出発。ひとあし先に出発していた軍師殿が護衛の兵士を連れて迎えにきていた。まだ乱は終息していない。しかし平六もおごり高ぶっているとしか見えない。自分の力を見せつけるだけで満足しているお調子者だ。


 無事に三条城に着き、さっそく病床へおもむく。城主の山吉氏も心配そうに同行してきた。為景さまは、ようやく出回ってきた布団に横たわっていた。顔がむくんで腫れているのが素人目にも分かった。手も腫れて膨れ上がっている。脈をとっているが亜希子の顔は曇ったままだ。腫れ上がった瞼をめくって眼球を確認している。


 上に掛けてあった上衣をめくって下半身をだす。腫れた片足をもう片足の上にかさねて膝小僧の下を叩く。反射神経でピクッと跳ね上がるものだが反応がない。

「思ったとおり脚気です。脈もしっかりしておりませんし、そうとう病状は進んでいますね。湯飲みをお借しください」


 湯飲みに持参した瓶から液体を注いだ。背中を弟子が支えて上半身をそっと起き上がらせる。湯飲みを手渡して口へ持っていった。もの憂げな仕草で一口飲んだ。意外なことに残りを一気に飲み干した。


 すぐ湯飲みを差しだした。腫れ上がった瞼のあいだの目が輝いている。

「うーむ、これこそ甘露、こんな美味しい飲み物をはじめて飲んだ。もう一杯、所望したい」

患者がうまいと感ずる薬は証が合う、といって病状に効く例がおおい。

「どうぞ、呑みたいだけ飲んでください。いくら飲んでも体に悪いことはございません」

一時間ほどで四合いれてきた瓶の半分ほど飲んでしまった。


 薬の材料はこの城でも手に入る。さっそく弟子たちが材料をあつめて台所で調合に取りかかった。それから一週間ほど城につめて経過を観察した。よくじつ腫れがひいた感じがして、昼ごろから頻繁に小便をするようになった。出るたびに体が軽くなるような感じがすると明るい声で語る。


 三日も経たぬうちに全身の浮腫は大部分が引いてしまった。四日目には何とか立てるようになるまで回復した。数日前まで身動きができなかった病人とは思えないほどだった。


 周りにいた人間には奇跡の回復と見えたに違いない。


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