第六十六章 戦 傷
ノーベル賞をとったチェインとヒートリーは培養液に肉汁を使用している。トウモロコシが日本に入ってくるのは千五百七十九年、しばらく先の出来事だ。間に合わせに米のとぎ汁と芋の煮汁を混ぜあわせた液体を尿瓶にいれて液体の培地を作る。その上に集めた青カビを移植する。一週間ほど培養する。
次ぎにペニシリンの抽出作業をおこなう。蓋つきの陶器の樽の上に綿をつめた漏斗をおく。ここで綿花の問題が発生した。五郎左から木綿の栽培法が越後に移入されたのは翌年の春だった。亜希子から綿の必要性を聞いていたので、栽培法といっしょに少なからずコットンボールを買い込んでおいた。
この漏斗に青カビの培養液を流入して濾過する。この液に菜種油をそそいで棒でかき混ぜる。これによって液体は三層に分離する。上から「油に溶ける物質」「水にも油にも溶けない物質」「水に溶ける物質」である。
栓を抜いて一番下にたまった水の層を別の容器に移す。ペニシリンは水溶性物質なので、この層の中に溶け込んでいる。この溶液から不純物を取り除くため、煮沸消毒して砕いた炭をいれた陶器の容器にペニシリン液を流しこむ。ペニシリンは炭に吸着する性質をもっている。
炭を取りだして、注ぎ口と排出口がついた容器に移し替える。煮沸消毒したきれいな水を流しこんで不純物を洗い流す。純度をあげるため、酢と蒸留水をまぜた水を注ぐ。ペニシリンは酸性物質なので、炭に吸着しているアルカリ性の不純物が除去される。
最後に容器の排出口に綿をつめた器具をとりつけてフィルター代わりにする。下に受け皿となる容器を置く。注ぎ口から重曹を溶かしアルカリ性になった蒸留水を注ぐ。これでペニシリンは炭から溶けだして純度の高いペニシリン溶液が抽出される。
ペニシリンの薬効を調べるため、扁桃腺・猩紅熱や丹毒の患者から採取した連鎖球菌をなすりつけた寒天培地を用意する。仁では梅毒の膿をつかったが、今の時代まだ梅毒は日本に入ってきていない。寒天培地にペニシリン液を少しずつ垂らす。蓋をして数日待つ。
この気の遠くなるような作業を三年間つづけた。未だこれだ!と決めつける成果は上がってこない。目に見える結果が出ず、慰める言葉しか思い浮かばなかった。しかし亜希子は有言実行だった。誓った言葉は忘れていない。わが嫁ながら感心する。
そんな中、軍師と三人で懇談する機会があった。亜希子から戦で怪我の種類を問うた。
「そうでござるなあ。まず飛んできた矢が突き刺さるのが戦の前哨戦。間合いを見計らって槍の叩き合いから突き傷が中盤戦。肉弾戦となって刀の切り傷や刺し傷が終盤戦となるかのう。騎馬武者の突入で、馬に寄せられて打撲や蹄で踏みつけられたり、馬上から槍の突き傷や刀の切り傷も多かろう」
と軍師が答えた。
「突き刺さった矢は、どうやって抜くの?」
「そのままにするわけにゆかないので、力任せに抜くしかないだろう」
「うわー、痛そう。麻酔もないのに」
「時間の余裕があるときは立木のそばに座らせ縄で立木に縛りつけて引っこ抜くこともある。気をうしなって横に倒れたら出血が激しくなのでのう」
「槍の突き傷は?」
「血を止めなければならぬので布で押さえるしか手はないだろうさ。血が止まったら
金創膏の
「落語ではガマの油が有名ですね」
思わず口をはさむ。
「口上を述べているうちに誤って自分の手を切ってしまって、見物人に血止めを持っていないかと聞く、のがオチ」
「あなた、今は真剣なお話しなんですから、傍から茶化さないで」
と睨まれた。おもわず首をすくめる。
「刀の切り傷も同じね」
「切り傷は馬の小便が良いだとか、馬糞をなすりつける者もおるな」
考えこんでいた亜希子が
「あなた、確かにペニシリンも大事だけど、前段階できちんと処理すると、もっと死傷者が減るんじゃないかしら。話しを聞いていると、おぞましいほど衛生観念に乏し過ぎるわ。これでは敗血症にならない方が不思議なくらいよ」
「衛生観念?」
「真田さまの目だけでなく誰の目にも見えない黴菌が辺り一面にウヨウヨとおります。傷口に黴菌が入りこむと、人間が持つ抵抗力に打ち克った菌が体内で繁殖し体が壊疽になり最悪のばあい死に至ります。ですから傷口に黴菌がつかぬよう菌をころす殺菌を徹底的におこなうと相当数の負傷者が回復できます」
「あなた、ナイチンゲールの功績は単に女性の看護婦を育成しただけじゃ無いのよ。
彼女がクリミア戦争で従軍したさい、病院の衛生状態の劣悪さで、いかに傷病者が悪化して死亡に至ったか、きちんと統計をとって証明したのよ。ナイチンゲールは数学と統計学が得意だったので、グラフという概念がないときに、独自の表を考案し今でも使われている程よ。なにせ四十パーセントを超える死傷者を数パーセントに激減させた事実が如実に物語ったの。これで衛生管理の大事さが軍上層部に認識されて、今日の清潔な病院につながっているわけ」
「うーん、具体的にどんな物が必要になるんだい?」
「そうね、三つほどかな。一つは消毒。簡単に手に入るとしたらアルコール消毒でしょうね。焼酎など蒸留酒が手頃とおもう。サツマイモが手に入らないから芋焼酎はまだ無理ね。泡盛は米で作っているんだから米しかないか。たしか火酒とよばれる泡盛は度数が六十度あったはずよ。これくらい度数があれば数秒で殺菌効果があるわ。これは酒造家にくわしい九郎殿に頼むしかないわね」
「つぎに傷口を縫う針と糸。現物を見た方が良いわね」
と緊急手術用のボックスを開いた。中から釣り針のような形をした細い針を取りだした。釣り針には引っかける鉤がついているが、形状はもっと緩やかなカーブを描いている。
「切り傷でも刺し傷でも、傷口についた汚れや不純物を消毒薬で洗い流したら、これで傷口を縫うと出血もしないし傷口もはやくふさがるわ。糸は絹糸しかないわね。半円状の形をしているから、皮膚を引っ張らなくとも縫える利点があるの」
「大動脈が傷ついたら圧迫だけでは出血は止まらない。心臓に近い部分を止血帯で緊結して血管を縫わなければならない。一時間以上、止血するとその先が壊疽するので時間との勝負になるわ」
「大動脈って太くて丸いよね。どうやって結ぶの?」
「三角吻合術といってね、血管の三点に糸をとおして引き合うのね。丸い血管を三角形に変えて、その一辺一辺を縫い合わせてゆく技術よ。ただ人体で三カ所は止血ができない。いわゆる急所といわれる箇所ね」
「参考までに何処でござるか」
「まず頸動脈、これが切れたら手の施しようがないわ。次ぎに脇の下、この動脈も切れたら吐血の方法がない。そして両足のつけ根辺りの内股。ここも止血のしようがないわね」
「では防御で、そこを重点的にふせぐ鎧をつけると致命傷にならんわけですね」
「そうですね、あとは心臓まわりの内臓をしっかり防御できれば、他の傷なら処置のしようもあるわね」
「良いことを教えていただいた。拙者も鎧についてじっくり思案いたそう。軽くて動きやすくて頑丈となると、どこで妥協するかだな」
「縫う針はあなたの宿題ね。この形状で大・中・小と沢山つくってほしいわ」
「釣り針に似ているから職人は見つかりやすいと思うね」
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