第六十五章 ペニシリン
亜希子が面接して採用した弟子の三人と、実験所にこもってペニシリンの抽出に挑んで五年となった。採用時の面接や、その後の教育や訓練は亜希子に丸投げで詳しいことは分からない。意欲がある弟子たちだと喜んでいる。
臨月まえのひと月と出産後のひと月半を休んだだけで、乳飲み子をかかえて実験所に通っている。労働基準法では、もっと期間が長いはずだが、認める医師が本人なので、それ以上言えない。ただ冷たい水をつかう家事は母体に障りが出ると聞いていたので、手を出さぬようキツく言い渡した。エヘン。尤もお菊がいるので、こちらから積極的に手伝わなくても良いので助かる。
じつは太平洋戦争中に日本でもペニシリンの製造に成功している。千九百四十三年の秋、ドイツから秘かに帰ってきた日本の潜水艦がペニシリンの情報をもたらしていた。軍医だった稲垣少佐は広く使われていた治療薬サルファ剤が効かない病気にペニシリンが効くとの情報に、軍部に具申したが優先順位が低いと取りあげてもらえなかった。
そこに翌年の一月、朝日新聞にチャーチル首相が肺炎にかかりペニシリンで命拾いしたとの記事が載った。刺激をうけた軍部が二月にさっそく委員会を立ちあげる。稲垣少佐が主任となって、基礎医学・化学・農芸化学・薬学・植物らの分野から権威者をあつめ研究がスタートした。
驚くべきことに、その年の十月にはペニシリンらしき粉末を青カビの培養液から採取している。十一月から森永乳業や万有製薬の工場で生産が始まった。さっそく朝日新聞が「短期間でみごとに完成、世界一「
生産されたペニシリンは純度が低かったものの、逆に体外に排出されず良く敗血症や肺炎に効いて薬剤の色から「黄色の魔術」とも呼ばれた。しかし物資不足から量産化に失敗してペニシリンは戦場へ送れなかった。
戦後GHQが被爆者の治療用にアメリカ製のペニシリンを届けた。ガラス瓶にはいったペニシリンは純度がたかく白色だった。アメリカの積極的な技術援助で、四年後には日本の製薬会社が上質のペニシリンを生産出来るようになった。幼児から高齢者まで感染症による死亡率が各段と減少した。
ちなみに家康が小牧・長久手の合戦で刀傷から背中におおきな腫れ物ができた。日に日に悪化する容体に、家臣が笹森稲荷から青カビのはえた土団子を持ち帰った。背中に土団子を塗りつけたところ、おびただしい膿がふきでて腫れ物は治癒したという逸話が残っているという。ちょっと眉唾ものだが......
ペニシリンの誕生にはいくつも逸話が残っているが、一つ目は米軍はペニシリンを沢山つくるカビを捜すため全世界の駐留地の土をかき集めた。中国の重慶やケープタウンで見つかったカビは有望だったが、フレミングが見つけた青カビより、良くペニシリンを作るカビは見つからなかった。
それが自国内それも実験施設のあるイリノイ州ペオリアで、一番効率よくペニシリンを作るカビが見つかった。このカビはペオリアに住む主婦がもちこんだ腐ったメロンに生えていた。メアリー・ハントという名の奥さんは、カビが生えて腐りかけた物をたくさん研究所へ届けていた。ついたあだ名が「カビのメアリー」。そのメロンのカビからフレミングが見つけたカビの三千倍も多くペニシリンが作れることがわかった。まさに足下に泉を掘れだ。
二つ目はアメリカとイギリスの特許争い。ノーベル賞をとったチェインは製造特許をとろうと提案する。英国王立協会の会長は「生命を救う薬の製造方法に特許を取ることは倫理的でない」と却下してしまう。当時の英国では「天然物」にたいする特許は取ることができなかった。
そのためペニシリンの製造に関する特許はアメリカの製薬会社に取られてしまう。
イギリスでペニシリンを製造しようとすると莫大な特許料を支払わなければならない事態に陥った。これに懲りたイギリスは特許に関する法律を改正したという。
三つ目はイリノイ州ペオリアの実験施設は、農務省所管で農産物から有用な化学物質を作るための大規模実験施設であった。たまたま、この施設でトウモロコシからコーンスターチを作る過程でできる「コーン・スティープ・リカー」という液体シロップを実験に使っていた。
この液体で青カビを培養すると、カビの生長がとてつもなく早くなった。実験担当者はペニシリンの奇跡は沢山あるけれど、一番知られていないが重要な奇跡は、この液体を使用できる唯一つの場所だった、と語っている。
アメリカで大量生産が開始して千九百四十二年には一億二千三百単位のペニシリンが製造された。二年後に史上最大の作戦といわれたノルマンディー上陸作戦が行われる。運ばれてくる戦傷者はペニシリンのお陰で、ほとんどが壊疽や敗血症を起こさずに無事に回復するという劇的な効果を発揮した。
今いる時代で負傷者の治療をおこなえば、それだけ死亡率が各段とさがり、戦略的に味方が有利になる。なにしろ敵の負傷者は半数が死ぬ。味方の負傷者は大半が生き残る。味方の士気にもかかわる重要なインパクトになる。医師の倫理観をさしおいてであるが。
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