第五十一章 上田宿

 二日目は十里(四十二キロ)先の矢代宿をめざす。取りあえず六里半(二十六キロ)離れた善光寺宿が目標である。三キロほどで柏原宿。俳人の小林一茶が晩年にすごすことになる茅葺きの家が道沿いに建っていた。さらに道を一気に下って二キロさきにある古間宿。信州鎌の製造で名を知られている。


 勾配を登り切ると緩やかな小玉坂にでる。前の世では、歩きたくなる道、なるコンテストで五百選に選ばれている。時代劇で山道のシーンで良くみかける風情のある光景がつづく。道が山裾をおおきくUの字に曲がっている。眺望がひらけ遠くの山並みが見えてきた。この風景が五百選に選ばれた理由かもしれない。急坂をくだると牟礼宿。これで約三里(十一キロ)を歩いた。


 牟礼宿は加賀の前田藩が参勤交代で歩む道だが、江戸と中間に位置していた。宿に到着すると、早飛脚で無事を知らせたという。すぐ十王坂があって枝ぶりの良い枝垂れ桜の大木が道のそばに立っている。春なら桜のかんむりを楽しむところだ。


 平出追分があって、松代道との分岐点となる。この時代、松代道が本道となったり川止めになったときは代替の道として使われた。石の道標があって、「ひだり、ながぬまみち、右、善光寺みち」と刻まれている。


 ダラダラとした一本道を進んでゆくと善光寺平が開けてきた。正面の山並みは志賀高原だろうか。道の右側に広い田子池がある。近くの神社からの湧き水が美味しく、造り酒屋らしき建物が棟をならべている。茶屋があったので一休み。草だんごを一皿ずつ買い求める。出されたお茶も、由来をきくと美味しく感ずる。


 腰をあげて進む。新町宿を通り過ぎる。これで五里(二十一キロ)歩いた。善光寺に向かって緩い上り坂を進む。四つ角にぶつかる。右に曲がると善光寺。左に曲がるとすぐ本陣があった。牛にひかれて善光寺まいり、じゃないが、せっかくの機会だ。本堂にお参りをする。


 食事処があるか分からないので、宿でお握りを握って貰ってある。これだけ信徒がお参りに来るのだから、食事を出す店があっても不思議はない。盛りそばなどソバ切りは江戸の中期が発祥というから、この時代では無理なのか。

 

 町を歩いていると、あちこちに小さなお寺が散在している。犀川の河原にでた。丹波島の渡しがある。犀川は急流で水量が多い。たびたび川止めがあるらしい。そのため松代道が迂回道路して活用されたのだろう。今日は好天続きで雨が少ないので、衣服をぬいで歩いて渡る。その先に丹波島宿、ここまでで約八里(三十一キロ)来た。


 宿場の端に巨岩をつみあげた上に木造の祠が乗っかている。切りだしたのか、見繕ったのか、バランス良く岩を積み上げている。防火を祈願した秋葉信仰のシンボルで、北信濃の集落の入り口に祀られているそうだ。


 南下を続ける。七キロほど進むと直角に右に曲がる。九百メートルほど歩くと辻に出た。真っ直ぐ進むと松本や名古屋方面に通ずる善光寺西街道となる。この追分を篠ノ井追分宿と呼んでいる。正式な宿場町でないが、交通の要所として栄えた。


 ここで左に曲がって南下する。四百メートルほどで千曲川の河原に出た。右側に軻良根古からねこ神社がある。治めていた篠ノ井氏が朝鮮半島出身者だった。


 ここが矢代の渡しだ。うん、犀川と千曲川。川中島の合戦でよく登場する川だ。ここから東北東六キロに川中島古戦場跡がある。なんとか無益な戦いを六回も繰りかえしたのを防ぎたいもの。そのために、この旅をしているのだ。また衣服をぬいで川を渡る。まだ、こちらはインフラの整備が進んでいない。


 二キロ半ほど南下して矢代宿に到着。四十二キロ(十里半)の歩きでした。歩き慣れてきたのか足腰の痛みはない。マメは二回ほど潰している。そろそろタコが出来つつある。今晩もムサい男と相部屋だ。


 三日目は上田宿まで。行程として二十二キロ(五里半)なので、朝はユックリ起きだした。基本的に千曲川沿いに走っている街道なので、緩い登り道だ。六キロほどで下戸倉宿、二キロはなれて上戸倉宿。前の世では戸倉温泉で有名だが、掘られたのは明治になってから、今の世では無い。


 下戸倉が一日から二十一日、上戸倉が二十二日から末日までと業務を分担していたという。従業員の福祉とは考えられないので、二つの町で利益の分担をするためなのか、よく分からない。


 二つの宿の中間に有名なこうがいの渡しがある。信玄に攻め立てられた村上 義清、葛尾かつらお城が陥落したとき奥方と離ればなれになった。夫人と侍女は川向かいの荒砥あらと城に逃げこもうと千曲川の渡しに着いた。船頭に頼みこんで向こう岸についたが、渡し賃を持っていない。髪にさしていた美しい笄をお礼として渡した、という伝説。義清は謙信をたよって春日山城に逃げたが、夫人は自刃したという。


 上手倉城から出て七キロほど進むと、北陸街道の最大の難所といわれる「横吹八丁」がある。山からの断崖と千曲川が崖の下を流れている。山腹のわずかな細道を通り抜ける。徳川幕府になって街道のせいびを進めたが、ここだけは十分な道幅がとれず、大名でさえ籠からおりて徒歩であるかざるを得なかった。一茶も「よこ吹や猪首に着なす蒲頭巾」 首をすくめて怖々とあるく心境を歌っている。


 ここを通り抜けてすぐ村上 義清の居宅があった坂城町。中之条集落から振り返ると横吹八丁の難所がよく見える。ほぼ四十五度の崖の中腹に切り刻まれたような道が

回りこんでいる。しばらく歩くと、正式な宿場でなく間の宿である鼠宿。奇妙な名前は寝ずの番をする(寝不見)からきているとか。次ぎにくる難所「六寸街道の切り通し」があるので、多くの人が泊まる。営業妨害だと宿場から苦情がきたという。


 うん、さすがに切り立った崖の中腹を縫うように進む。こちらの細道も殿様がお歩き遊ばされたそう。しかし景色は絶景、一筋の千曲川、ひろい平野、むこうに擂鉢山、三ツ頭山、城山の峰々が連なっている。ふたたび平地に下りると名水で有名な塩尻に着く。名前の由来は高田塩と倉賀野塩の終着点であった。越後と関東の塩がここに集まり分散していった。


 街道は後に上田城の北と西の、惣堀の役目を担った矢出沢川に平行に進む。一キロ弱で右に直角におれて、前の世の上田駅へ向かう。駅との中ほどに宿場町があった。ふう、やっと上田に着いた。


 上田城は三男の真田昌幸が築城した名城。関ヶ原の合戦に向かう途中、徳川軍の主力である徳川 秀忠三万八千人を足止めして、天下分け目の合戦に遅参させた。


 さあ、明日はその父親である幸隆を口説き落とせねばならない。

 

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