第十六章 浴 堂 

 刀類や銭は荒浜屋にあずけ身軽になって、彦兵衛の案内で林泉寺へむかう。月明かりのなか、彦兵衛が松明を右手に持ち、前に立つ。店の前通りを南下する。二百メートルほどで応化橋に通ずる広い通りに出た。松明のゆれる炎にうかんでいる見覚えのある光景にホッとする。


 あとは来た道をたどれば林泉寺に到着する。夜道を歩くという状況では、僧衣すがたは不審者あつかいがされないので有難い。問いただされたら修行の一環です、と強弁できる。この時代、地方では特に僧は尊敬される。だれからも誰何すいかされることなく順調に歩む。


 やっと林泉寺に到着した。あらためて彦兵衛の存在が大きな助けになった。出るときに荒浜屋から懐紙をかりて、心ばかりであるが小銭を包んでおいた。庫裡の玄関についたとき、心付けを手渡す。彦兵衛は恐縮していたが、喜んで受けとってくれた。気は心、下の者に気を配るのも上に立つ者の心がけ。


 父が旅館や料理屋へつれて行ってくれた事を思いだす。部屋を担当した者に、かならずチップを手渡していた。サービス料として勘定の中に含まれているので、合理的な考えでは別に気を遣わなくとも良い仕組みになっている。


 それはそれとして、自分の気持ちだ、と必ず心がけていた。ある番組で、渡す客と渡さない客があって従業員に不公平感をあたえるので、金額をプールして全員に配分するシステムを採用していると紹介していた。これも消えつつある風習かもしれない。


 彦兵衛が玄関のわきに吊してある板を叩いて、帰ってきたことを知らせる。開板と呼ぶらしい。しばらくして小坊主が声をかけたので、柏崎から戻ったむねを伝える。すぐ益翁さんが戸を開けてくれた。


「これは、これは。夜道をよくぞ戻られた。ご方丈さまはお眠りになっておられる。話しは明日でもよかろう。ところで首尾は?」

「はい、荒浜屋さんとじっくり話し込んできました。喜んで協力してくれる運びとなりました。良いお方を紹介していただき、まことに有難うございました」

「それは重畳ちょうじょう。ともあれ立ち話もなんだ。中に入られよ」


 小坊主が濯ぎの小桶と足拭きを用意してくれた。板間にすわって草履を脱ぐ。やはり豆が二箇所ほどできていた。破れていないので助かった。物音を聞きつけたのか古倉さんが急ぎ足で近づいてくる。見るまに涙が浮かんできた。こちらも胸がジーンと熱くなった。


 益翁さんが気を利かして

「話しは明日ゆっくり伺おう。疲れておるだろう。早めに横になる方がよいぞ」

と自室のほうへ戻っていった。小坊主の目があるので手を握るわけにゆかない。


 納戸のまえで、ほこりでよごれた衣服に気がつく。このまま中で着替えるわけにゆかない。

「申し訳ありませんが、着替えの着物を玄関の板間に持ってきてくれませんか」

そうだ、あれから風呂に入ったりシャワーを浴びていないのだ。体そのものは洗っていない。体をふきたいが、小坊主は部屋へ戻ったらしい。明日かならず益翁さんに桶を借りて、手ぬぐいで体を拭うぞ。


 それは僕以上に古倉さんが思っていることだろう。これだけの集団が寺で暮らしているのだ。風呂はなくても風呂に似たシステムはあるはずだ。着物を洗濯しているから必ず大きな桶がある。行水という手もある。簀の子で囲えば目隠しになって女性でも体を洗える。今日は日も暮れて無理だ。汗臭い体だが板間で着替えをする。


 納戸にもどると灯火ともしびが具えてあった。すぐ手を握りしめて離さない。

「ああー、顔を見られてやっと安心したわ。良かったわ、無事に戻れて。

これね、ご住職が心細いだろうと、用意してくれたの。日中も人目につかぬ時間帯は庭を散歩させてくれたわ。そうでなきゃ、閉所恐怖症になりかねなかったわ。そしてね、浴堂を使わせてくれたのよ」


「浴堂?」

「サウナみたいものね。湯殿というそうだけど、周りが木の板で囲まれた小さな部屋に蒸気が吹きこまれてくるの。そこで汗をだして、そばの洗い場で体の汚れを流す仕組みよ。となりに「あがり場」があって、着替える部屋なの。久しぶりに体を洗って、うーん幸せよ」

「そお、風呂があるんだ。江戸時代の銭湯は蒸気浴と知っていたけど、寺に具えてあるとわね」

「ご住職が由来を話してくれたわ。仏教伝来にまで、さかのぼるそうよ。お風呂の効用は『七病を除き、七福が得られる』と経典に説かれてあって、大切な業の一つになっているんですって」


「じつは心配していたんだ。女性だから体をきれいにしたいと切実に願っているだろって」

「そう言えば、新一君ちょっと汗臭いわね。もっとも十一里の道を往復したんですもの、汗をかかない方がおかしいわね。どお、私はこのとおり、いい匂いでしょ?」


 そう言われてクンクン嗅ぐわけにいかない。不躾な真似をするほど親しいわけでない。

「納戸もさわやかな香りにつつまれてますね」

「うん、ありがとう。それで肝心な話しを聞いていなかったわ。どうだった?」


「その前に、これ!」

「ええっ! お土産? 開けてみていい」

「お粗末な物ですが」

「嬉しいわあ、甘いものを食べたかったの。ウーン、美味しい。生き返った思いよ」

「喜んでくれて、こっちもうれしいよ」


 二日間にわたる旅のようすを、順をおって話した。いちばん喜んだのは、家を借りられたこと。これで気兼ねなく暮らすことができる。ましてや下男の夫婦者と女中がつくとなると、家事雑用から解放される。


 ただ召使いにかしずかれるなど、一般庶民は経験したことがない。人権平等の教育にどっぷり浸かってきた世界に生きてきた。はたして使いこなせるのか、これまた別の悩みがでてくる。


「前もって断っておくけど、今まで住んでいた人が、そのう...... お妾さん、二号さんだよね。その人の後に住むのが気にならないかと、ちょっぴり心配しているんだ」

「うーん、徹底的に掃除するから大じょうぶ! お殿様はハーレムを作って子作りに励む時代ね。新一君さえ、やらなければ私は気にしない」


「はああ」 

 間の抜けた声をだしてしまった。ううん、これは二人の結婚を前提にした言葉?

「ああ、あくまで一般論だからね」

気がついたのか古倉さんが慌ててフォーローした。僕はしっかりとガッツポーズ!

ちょっと赤くなっていると見えたのは僕の錯覚か、古倉さんが微妙に視線をはずした。


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