第五章 説得その一
胸が重苦しくて目覚める。目をあけたが真っ暗な闇で、一瞬パニックになる。甘い
女性の香りが漂ってきて、胸のうえに腕が回されているのに気づく。これで今の立場
が分かった。背中は硬い畳なので寝心地は最低だった。そっと腕を外す。
寝ているとき、無意識にしていたと分かったら赤面するだろう。体の一部が硬くなっているのは、きっと尿意のせいだ。「ゴーン」と六回の鐘の音が聞こえてきた。明六つ? 何時だろう。静かに起き上がって、引き戸をすこし開ける。朝陽がさしているように見えないが、早朝の静謐さがただよっている。
時間になったら起しにくると言っていた。 八人の修行僧がいるのは分かったが、
他に何でも屋の寺男や小坊主もいるだろう。事務を担当している者もいるかもしれ
ない。見つかる危険はおかせない。
オシッコはもう少し我慢できる。明かりが少し入るくらいの隙間を残して閉める。じっと天井を見つめて考えこむ。住職の話しから虎千代はまだ入門していないようだ。
謙信が信仰心があつく義を重んじる人との評価に、異論をはさむ人などいない。
歴史を知っている者からすると、関東の平定や信玄との死闘など、自己満足の戦いを
くり返してきたとの思いが残る。
それは持って生まれた性格もあろうが、やはり寺での教育が大きな影響を及ぼしているのは間違いない。座禅を組んで自己を見つめる。それで悟りを得たとしても、ぶっちゃけた話し、自己完結に留まる。
謙信の戦才については天才としか言いようがない。ただ大局観にたった戦略が惜しむらくは無かった。天下を狙う気など、さらさら無かったのだろう。幕府の体制下のもとで、上杉家の武名をあげ義侠心を発揮できる場があれば満足していた。軍師や作戦を立てる人材など必要もしていなかった。
手をこまねいていたら、この考えで固まってしまう。虎千代が入門したのは満六才、小学一年生の歳だ。三つ子の魂、百までも、と言うが、生き方を変えるには間に合う年令だ。
この時代に飛ばされた意味は、謙信に天下をとらせことに収斂するやもしれない。どう住職を説得して、教育係の一員として加えられるか、熟考をかさねる。
とつぜん戸が開いて部屋が明るくなった。古倉さんもパッと目覚めたようで、着物の裾をあわてて直している。
「よく眠れたかな?」と声をかけてきた。
「おかげさまで、ぐっすり眠れました」
と被せてあったジャンパーを脇によせて座り込む。古倉さんも起き上がり正座した。
髪の乱れを気にしてか手のひらで撫でつけている。
「昨日の部屋に行鉢を用意するので移ってくれ」
昨日は少食と呼んでいたが......
「ありがとうございます」と揃って、頭をさげる。
「あのう、顔を洗いたいのですが?」
「いま本堂で修行僧たちがお勤めをしておる。なるべく顔をあわせる機会を最小限にしたいので我慢してくれ」
すでに小坊主から噂は全員にひろまっているだろうが、実物を見ると聞くでは大違い。こちらも、その方がありがたい。向かいの部屋へ移動する。
正座して待っていると、昨日みた箱膳を運んできた。それぞれの前に置いてゆく。
「さあ、遠慮なく食べてくれ」
「いただきます」と声をそろえ、蓋をとる。食事作法は経験済みなので戸惑うことはなかった。
お膳をさげ戻ってくると
「そろそろ作務が始まるころだ。話しのつづきは方丈さまのお部屋で、と言われておる。案内するので、ついて参れ」
「その前に東司を使わせていただけませんか」
「それなら本堂との境の戸を閉めてまいる。廊下の角で待たれよ」
生理現象は我慢ができない。話しが長くなりそうで、中座するのを避けたい。
二人で廊下の曲がり角の手前で待つ。頷いたので用を足す。住職の部屋は納戸の隣りだった。六畳間の広さに、壁がわに床の間と飾り棚がついた書院造り。正面に障子つきの窓が明かりを取り入れている。小さな書見机がおかれ書を認めていた。
「おはようございます。食事もいただきました。ごちそうさまです」
と二人であいさつをする。
「うむ、挨拶をうけたところで、ご内儀は席をはずして頂こう」
「ご方丈さま、妻は医者でございます。長きにわたり医学の研鑽を究め、国より免許
皆伝の免状をもつ者です。私より頭はすぐれております。どうか一緒にお話しできますよう、お許しを得たく存じます」
「ほほう、医者とは?」
改めて古倉さんの顔を見つめ直している。古倉さんもしっかり視線を受けとめている。
「良かろう。いろいろ面白い話しを聞けるやもしれんのう」
「先ずどのようにして、この寺に来たのじゃ?」
「お寺を見学していたところ、突然どしゃぶりの雨が降ってきて、鐘楼で雨宿りしました。稲光と雷鳴がきゅうに近づいてきたので、危ないと飛びだしたところ。雷がおちて周りが真っ白になりました。気がつくと、今の時代になっておりました」
「雷のせいで、この世に移って来ただと?」
「私にも信じられないのですが...... 」
「御伽草子のような話しだのう」住職も頭をひねっている。
「まあ、信じるも信じないも、お前たちが目の前にいる事が証拠というわけか。それで虎千代さまは、どうなるのじゃ」
「晴景さまは病弱とあって、虎千代さまに家督をお譲りなされます。その後は越後を統一し、関東管領に就任なさいます。残念なことに関東は最後まで平定できませんでした」
「そうか越後一国で終わったのだな」
「越中・能登を攻めおとし、上京の構えをしたところで急死あそばされました」
「志なかばとは、そのことか...... 」
「惜しいご生涯であられました」沈黙が座をしめた。
「家督を兄弟であらそう芽を摘んでおこうと、為景さまがご決断あらせられた。晴景
さまの虚弱は承知しておるが、やはり守護代はご無理であったか」
「率直に申します。晴景さまは軍才にとぼしく家臣からも侮られ国中が乱れました。何度も家臣や豪族が謀反を起こします。虎千代さまのお働きで、すべて鎮圧して乱を治めました。実力が家臣に認められ守護代を交代する運びとなりました」
「ううむ」
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