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 そこは初めて入る店だった。言うなればよくあるイタリアンレストラン。

 が、入って早々に、二度とこないな、と確信させられた。

「いらっしゃいませ。2名様ですか?お好きな席にどうぞ」

 白いワイシャツに、黒いウエストエプロン、とこれもよくある光景。

 だが、そのありがちなスタイルをぶち壊さんばかりに、ワイシャツの袖を捲った両手にでかでかとタトゥーが入っていたのだ。

 どのくらいでかでかとかというと、肘から下、左腕には龍の一部らしき鱗に覆われた尾のようなもの、右腕には虎と思わしきものの尻尾が見えるという具合なのだから、おそらく両肩辺りから描かれた超大作なのだろう。

 しかしいくら超大作とはいえ、乃々自身には残念ながらそういったタトゥー自体にいいイメージがないうえ、それを一般人相手の客商売でありながら堂々と曝け出すということもマイナス印象だった。

(そういう店で働けばいいのに)

「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」

 メニューと水を置いて彼が去ると、向かいの理香がメニューで口元を覆うようにして、こそっと囁いた。

「ね?結構イケメンじゃない?」

「は?」

 思わず呟いてから、ああ、と気付く。

「今の人?理香ちゃん、好きそうだよね

(顔なんて見ちゃいなかったけど)

 タトゥーに釘づけだったのだが、適当に話を合わせて繋げる。

「うん、結構好きなタイプ~。それでよくここ来てるんだ」

「へえ」

 バイトをしているとはいえ、高校生の身分でファミレスでもファストフードでもない店に通うなど、乃々には想像しただけで眩暈がしそうだ。

(うっわ、やっぱ高いわ~。ナニコレ、ワタリガニのスパゲティ2000円て!これ食べるならこっちのミートソース700円を二皿頼むわ。ていうか、サイゼなら五品は頼めるっつーの。なんという贅沢の極み!)

 などと思いつつも表面上は平静を装いつつ、とりあえず安いものを探してメニューを眺める。

「あ~どれにしよ~、カルボも最近食べてないしな~、あ、ペペロンチーノ!あ、でもにんにく気になるし~、ジェノベーゼにしようかな~。でもトマトとアンチョビもいいなぁ」

「迷っちゃうねえ」

 と笑みを浮かべつつ、内心さっさと決めてしまった乃々は、理香に適当に相槌を打ちながらぼんやりとメニューを眺め、さりげなく周囲を観察する。

 入口から縦長に伸びる店内はおよそ10席あり、乃々たち以外あと3組はいずれも女性同士であった。

(まだ来てないか……)

「決めた、エビのトマトクリームパスタにする!乃々ちゃんは?」

「ん~、じゃあほうれん草としめじの和風パスタにする」

「あ~それもおいしそう~。どうしよ~」

「じゃあシェアすればいいんじゃない?」

「そっか!うれしい、両方食べられる~!」

 普段よりも高めの声でかわいいしぐさを振りまいているのは気のせいではないらしい。

「すみませ~ん」

 いつもオーダーは人任せの理香が、振り返ってウェイターを呼ぶ。

「はい」

 返事をしたタトゥーの青年は、確かに整った優しそうな顔をしていた。

(こーゆー顔してタトゥーとか)

 文章表現すれば語尾に(笑)がつく勢いで、乃々は胸中で吐き捨てる。

「え~と、エビのトマトクリームパスタと、ほうれん草としめじの和風パスタで」

「お飲み物はよろしいですか?」

 不意にウェイターが乃々に尋ね、急き込んで理香が被せてくる。

「あ、乃々ちゃんどうする?」

「私はいらない」

「えと、理香はオレンジジュース」

「かしこまりました」

 オーダーを繰り返して確認し、下がるウェイターに乃々は内心舌打ちする。

(空気読めよ、ボケ)

 水を飲んで苛立ちを鎮めようとする向かい側で、理香も同じように水を飲んでいる。その表情は少々冴えない。

 これは理香の悪い癖だ。

 自分の気に入った人が自分以外に興味や好意を示すと、TPOなどお構いなしにあからさまに不機嫌になるのだ。

 今の場合、ウェイターが自分ではなく乃々に「お飲み物は」と訊いたことが気に障ったのだろう。

 そのくらい理香は自分の容姿に自信とプライドを持っている。

(ま、確かにかわいいからねえ)

 とはいえ、こんなばかばかしいことでとばっちりを食うのはごめんだ。

「それで、どういう話?」

 乃々が尋ねると、理香は一瞬きょとんとして首をかしげた。

「話?」

(その程度の話ってことか)

『乃々ちゃん!聞いて欲しい話があるの!明日、放課後ちょっとつきあって!』

 ただでさえ気乗りしてなかった上に、よりによってこの子か、と乃々はそれはもうげんなりした。

 理香は去年同じクラスだった子だ。

 当たり障りなく誰とでも話ができ、そのくせ個人行動が多い乃々。

 一方理香は同じきゃぴきゃぴ女子4人組でいつも一緒にいたが、とある男子の取り合いになって理香がハブられるようになってしまったらしい。そこで理香は、同じ一人の乃々にことあるごとに付きまとうようになった。

 かといって本当に仲良くなったわけでもなく、乃々は一向に親しいとすら思っていなかった。それはきっと理香も同じだろう。

 その証拠に、クラスが変わって一か月半、お互い一度たりとも連絡を取らなかった。おまけに――。

(今日、私、誕生日なんですけどね~)

 わかってはいたが、案の定理香がそれに気付く気配は微塵もなかった。

 正直、昨日理香からそう連絡があった時、理由をつけて断るつもりだった。いくらなんでもコレはないでしょうよ、と。

 それがなぜこんなことになっているかというと、


『それが「門」なのだろう。行って来なさい』


 命令――そして、乃々はそれに逆らえない。

 乃々は世間一般の女子高生とは違い、生まれながらに「家」に縛られ、数多くの制約の中に生きている。

 物心ついた頃にはそれが当然となっていたため悩むこともなく受け入れていたが、中学や高校で徐々に普通の生活をしている子たちに触れるうちに、隔たりを大きく感じて「家」が疎ましくもなっている。

(いっそ家出でもしてやろうかな……)

 引きつりそうな笑顔をとにかく理性でねじ伏せる。

「聞いて欲しい話があったんでしょ?」

「あ、あぁ、そうなの!聞いて!理香、今のクラスでね、二人に告られて、どうしたらいいか困ってるの!」

 眉を下げ、瞳を潤ませ、唇をちょっとつきだして――わかりやすく男子に受けのいいかわいい困り顔を理香はしてみせるが、あいにく同性の乃々にそんなものは通じない。

(う、わぁ……超くだんねえ……)

 乃々は思わず目が据わってしまうのを目を伏せてごまかした。

「一人は、宮野くんって知ってる?顔はそこそこなんだけど、でもすごいの。お父さんが会社の社長なんだって。だから将来性ばっちりなの。で、もう一人はね、長田くん。去年一緒だったじゃん?超イケメンだったけど、ずっと彼女いたでしょ?でもこないだ別れたんだって。それで前から理香のことかわいいって思ってたんだって。どうしよ~。ねえ、どうしたらいいと思う?」

(ええええ~)

 理香の話など激しくくだらないだろうとは覚悟してはいたが、それでも案の定な展開にげんなりする。

(なにこれ、なんで私がこんなあほなことに巻き込まれてんの?あーもー帰りたい、イマスグ帰りたい)

「乃々ちゃん?聞いてる?」

「あ、うん。というか、理香ちゃん、三屋くんは?」

 理香がハブられるようになった原因のあの男の子と、ずっとつきあっていたと思ったが。

「あ、武彦?そんなの先月とっくに別れたよ~」

「そうなの?」

「武彦ってへんにウジウジするとこあって~、理香いいかげん愛想尽きたの」

 取り合って勝ったモノだからとりわけ気に入っていただけで、実際彼自体はあまり魅力がなかったのだろう。

(要は飽きたってことか)

 にも拘らず、また外見だけで判断している辺り、なんの成長もないらしい。

「そっか、大変だったね」

 乃々は笑顔だが、その内側は完全な侮蔑で彩られていた。そんなことにも気付かず、理香はわが意を得たとばかりに喜んだ。

「そうそう別れるって言った時も男子のくせに泣いちゃって、なかなか別れられなかったんだぁ。理香、ストレスで不眠症みたいになっちゃったし。それでね、さっきの続きなんだけど……」

「お待たせいたしました。オレンジジュースです」

 話を遮るように運ばれたジュースになんなく釣られて、理香は「わぁい」とかわいらしく喜んで一口飲む。

「おいし~」

 悦に入っている理香の後ろで、ウェイターが乃々を見ながら口を動かした。

 おつかれさま

(ああ……そういうこと)

 理香がくだらない話をぶり返す前に片付けようと、乃々は何気なさを装って確認する。

「理香ちゃん、今のタトゥー見た?」

 すると理香はびっくりして目を瞬かせた。

「え?今の人?どこにあったの?」

(やっぱり)

「あ、ごめん、影でそう見えただけかも」

 取り繕って「ちょっとトイレ行ってくるね」と席を立つ。

 店の奥の通路の先、トイレの前まで来ると、先程のウェイターが笑顔で近づいてきた。

「桃地乃々ちゃん?」


『そこにおまえの婚約者である桜川家当主、清秋郎様もいらっしゃるのだから』


(いらっしゃるにはいらっしゃったけどさ……客の方だと思うだろ、ふつー)

「そうです、桜川清秋郎さん」

 乃々には生まれながらに婚約者がいる。が、その婚約者と正式に対面するのは今日が初めてだった。

 一族の儀式や例祭の折々に顔を合わせることはあったが、何故か清秋郎は頭から紗をかぶり、会話することもしなかった。そんなある種不気味な男に、まともな印象を抱けるはずもない。きっと非常に顔にコンプレックスがあるのだろうと考えたのも仕方のないことだろう。

 おまけに古めかしいその名前の響きから勝手に無口で落ち着いた男性を想像していたため、眼前の青年が清秋郎であるとは微塵も考えが及ばなかった。

 先程のアプローチでようやく気付いたのだが、そんな素振りは隠して笑んで見せる。が、相手はお見通しとばかりに失笑した。

「清秋郎は代々当主が襲名するものだから、俺と雰囲気合ってないでしょ?」

「そんなことないです」

「ありがとう。でも長いし、名前で呼んでくれていいよ。本名は要と言うんだ」

「いえ、ご当主を諱でお呼びするなんて恐れ多いですから」

「そんなことないよ。堅苦しいのは苦手なんだ。ぜひとも名前で呼んで欲しいな。この先長い付き合いになるかもしれないしね」

 お互い完璧な笑顔で一歩も譲らないが、ここでこんな舌戦を繰り広げても埒が明かないとしぶしぶ乃々が折れる。

「わかりました。では要さんとお呼びしてもよろしいですか?」

「呼び捨てでいいのに」

「ではそのうちに」

 そんな機会は絶対訪れないけど、と目で訴える。

 するとたまりかねたように要が吹き出した。

「あははは、さすが桃地家。たいした矜持だ」

「褒め言葉としていただいておきます。――では、本題をお願いします」

「そうだね、欲望丸出しのご友人がお待ちかねだ」

 友人じゃないですけどね、という言葉は飲み込む。

「今回は俺が仕掛けて、『扉』が開いたら乃々ちゃんが叩く。それだけ。ま、俺としては女の子を傷つけるのは不本意なんだけどね」

 要はおどけるように告げて「質問は?」と首をかしげる。

「そのためだけにわざわざ当主自らバイトで潜入ですか?」

「まあね。客同士じゃ接点作り辛いから。円滑に進めるにも、煽るにも、ウェイターの立場が一番適役でしょ?」

「……いつからわかっていらっしゃったんですか?」

「見えたのは先月。バイトもなかなか楽しかったよ」

「この先はどうなんですか?」

 要の目をじっと見つめるが、要は笑顔のまま「秘密」とだけ答えた。

「ところで乃々ちゃんの武器はなに?」

「双剣です」

「へえ、珍しいね」

「タイミングはお任せします」

「わかった」

 これでもう終わりとばかりに要の横をすり抜けようとしたとき、不意に腕を掴まれた。咄嗟のことでバランスを崩しかけたところに、要の顔が近づいてくる。

「戦勝祈願のおまじない」

「!?」

 唇に近い場所にキスをされ、さすがの乃々も真っ赤になってたじろいだ。

「ああ、やっぱりまだなんだ。外しておいてよかった」

「な……なにするんですか!?」

「だから、おまじない。無事初陣を飾れたら、今度はちゃんとキスしてあげるよ。お誕生日と成人の祝いも兼ねて」

 悪びれずしれっと言ってのける姿に、殺意が湧く。

「お断りしますっ」

「ああ、もう子供じゃないから女にして欲しいってこと?意外と大胆だね」

「セクハラですよ。訴えて勝ってもいいんですよ?」

「君のためなら俺は喜んで受けて立つよ」

 我慢ならず、「ばか!」と吐き捨てて乃々はさっさと席に戻った。

(まったく、なんなの!?爽やかな顔して中身はとんだエロオヤジじゃない!この先が思いやられるわ!やっぱり勘当されて一族と縁切ろうかな……)

 不機嫌なまま席に着くと、理香も不機嫌そうに携帯をいじっていた。

「あ、乃々ちゃん聞いてよ!徹のヤツ、あ、さっき言った理香に告ってきた宮野くんのほうね、今、合コンとか行ってるんだよ!信じらんない!理香に告ってきたくせに!」

 信じらんない――がどこを指すのかわからないが、とりあえず理香に合わせる。

「ひどいね」

「でしょー?」

(ほんとひどい)

 17歳の誕生日は特別な日だ。一族のしきたりで、女児は17歳で成人と見做される。以後、一族の末席に加わり、与えられた使命に従事する。

 そんな晴れの舞台を、何故にこんな残念な形で迎えなければならないのか。

(せめてまったくの他人だったらよかったのに)

 なまじ知り合いだけに、苛立ちを表に出すこともできない。

 そこへ。

「お待たせしました」

 要がパスタ2皿と、マグロのカルパッチョを運んできた。

「あれぇ、理香、これ頼んでないよ~」

「こちらは僕からです。僕、今日初めて前菜を任されたので、記念に味見してみてください」

 あからさまに乃々に告げ、そうしてだめ押しとばかりにウインクしてみせた。

「!」

 理香が目を剥き、息を呑んだのがわかる。

 そして――。

「なんでよ……なんで理香じゃないの?」

 理香の声をベースに奇妙な甲高いトーンが絡まる。

(――来た!)

 始まったこの異変を盛大に煽っていくのが、要の役目だ。

 今回の場合は、理香のプライドを意図的に傷つけ、理香に巣食う負の感情を吐き出させる。

「理香何度も何度も来てるのに、何度も何度も注文して話してるのに、理香のこと覚えてないの?」

「それはすみません。僕、興味がないとすぐ忘れちゃうんです」

 女の子を傷つけるのは不本意などと言いつつ、その実、要の表情がいきいきとして見えるのは気のせいではないだろう。

(ドSか、こいつは……)

 嘆息する乃々の向かい、理香は目を吊り上げて要を睨み据えたまま。そんな彼女に、要がわずかに目を細めて殊更優しく微笑んだ。

「僕、こちらのお客様がタイプなんです。かわいいし」

「なにそれ……理香のがかわいいに決まってるじゃない!」

「そうでしょうか?」

「そうに決まってるじゃない……みんな理香のことかわいいっていうんだから!今だって二人に告られてるし!」

「すみません、僕、そういう自意識過剰な方、鼻で笑っちゃうんです」

 にこやかに要が言い放つと、

「なんなのよ……どいつもこいつも……理香をばかにして……」

 ゆらり、と理香の身体が立ち上がった。


「なんなのよーーー!!!!」


 不協和音の耳障りな叫び声と共に、理香の身体から「ゆらぎ」が噴き出した。

空間が揺れて突風のようにそれが押し寄せ、そして辺りの景色は瞬時にして一変する。

 客も店も消え去り、代わりに限りなく広がる暗褐色の大地と、稲光走る紫紺の雲が渦巻く空が現れる。

(ここが「道返し」……)

 幼い頃から繰り返し聞かされて想像はしていたが、やはり実際体感するのとではまるで違う。

 荒涼たる大地には木一本生えておらず、代わりに地面から生えるように数秒おきに雷が足を延ばす――光景は確かに聞いていた通りだ。

 けれど空気が違う。重くまとわりつくような不快さと、背筋がざわざわするような不気味さが離れない。耳には、風鳴りのような人の呻き声のようなそんな音が浸食してくる。そして血のような、腐臭のような鼻につく臭い。

(すごい「瘴気」……)

 初めての異世界。多くの者がそうであったように、全身に押し寄せ五感を刺激する「陰」に飲み込まれる。

 冷や汗をかき、不自然な呼吸をする乃々の背を、温かい掌が優しく撫でた。

(あ――)

 それだけで呼吸が楽になる。

 思い出したように要を見上げると、屈託のない笑顔がそこにあった。

「見てごらん」

 要が目線で促す先、そこには、凄まじい形相の理香と、その頭上、彼女がそのまますっぽり収まるような黒い扉が存在していた。

「割に小さかったね」

 要がぽつりとつまらなそうに呟く。

「欲が深くてもスケールはたかが知れてるってわけか」

「――ナルシストのちゃちなプライドじゃあね」

 自分に活を入れ、平静を取り戻した乃々も、毒づくことで自分の精神を鼓舞する。そして勢いよく両腕を振り下ろすと、腕から白い霧状のものが現れ、それはすぐさま二振りの白銀の剣となった。

 長さはおよそ80㎝、幅10㎝ほどの両刃の剣。その刃にも柄にも青い紋が流麗に描かれている。

「へえ、きれいな双剣だね」

 この剣は乃々の心が形造るものだ。褒められて悪い気はしない。

「ありがとうございます」

「さ、いよいよ乃々ちゃんのデビュー戦、お相手のご登場だ。準備はいい?」

 要が仰ぐ先、黒い扉の中央に雷が走る。それと共に、瘴気とは桁違いの禍々しい重い空気が漏れ出てくる。低い地鳴りに混じり、甲高い悲鳴のような声が聞こえてくる。

 日々の修練を思い出し、口元を引き締める。足を前後に開き、少し腰を落として剣を逆手に持つ。左を肩の高さ水平に構え、右を引く。

 一度目を閉じ、そして、開く。

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」

 扉ごとぶち壊すように黒い塊が真っ直ぐに飛び出してくる。

 跳躍。

(蛇!)

 一瞬、それと目があったかもしれない。

 だが次に乃々が見たのは大地を穿ち、頭を落とされながらも痙攣する蛇の巨体だった。

 剣を通して感じた重い手ごたえが、紛れもなく乃々がやったのだと実感させた。

「蛇かぁ。出てきたのは意外と正統派だったな」

 要が見下ろす先で、蛇の巨体は何度か大きく躰をうねらせる。ややあって、カッと目を見開いたかと思うと、頭も躰もボロボロに崩れ落ち、ただの砂山のようになってしまった。

 遅れて乃々が着地すると、歩み寄ってきた要に頭を撫でられた。

「見事な瞬殺だったね。上出来」

「――――」

 返す言葉が見つからなくて、乃々は眉をひそめる。

「呆気なくて物足りなさすぎた?」

「いえ……なんとも思わなくて……」

 本当に心の中には一片の感情もない。

 その理由はわかっている。乃々が作り出した剣は、乃々の心を力とする。つまり意気や感情といったものが攻撃力に変換されるのだ。

「君は特にその変換させる力が強いみたいだね」

 そう。だからこそ、乃々は一族の中でも突出した攻撃力を兼ね備えているのだ。

(でも練習中はもう少し感情が残っていたと思うけど……)

 と、ここまで考えて、ああ、と遅れて腑に落ちる。

(これが、実戦だからか――)

 静かすぎる無の心に対し、ようやく寒々しいという感情がわずかに滲んでくる。

(なんだろ……気持ち悪い、の、かな?)

 目を閉じて深呼吸しようとしたとき、なにかが唇に触れた。驚いて身を引こうとするが、いつの間にか要に抱き寄せられていた。

「ご褒美」

「――――この、セクハラオヤジ!」

 たちまち怒りが噴き出し、まだ握っていた剣の柄で要の脇腹に一撃を入れる。が、

「ひどいなぁ。まだ19歳の未成年なのに」

 要はそれをひょいと軽くかわす。それが尚更頭にくる。

「だからいろいろ我慢が効かないお年頃なんだよね」

「死ね!!」

「君になら殺されてもいいよ」

「あーもー!」

 剣を消し、ヤツ当たるものもないので自分の頭をくしゃくしゃにかき乱した。

「ほんっと、やだ!」

「俺は結構楽しくなってきたかな」

 くすっと微笑んで、乃々の左手を取り、指先に口づける。

 視線は乃々を捉えたまま。

「かわいいし、仕込み甲斐がありそうだ」

 指先に触れる感触と、なぞる吐息がくすぐったい。振りほどきたいのに要はしっかりと握って離さない。

 なので右手で殴ろうとするが、案の定要はひらりとかわして微笑んだ。

「末永くよろしくね、乃々ちゃん」

 乃々は盛大にため息をついて、要を見上げた。

 一見優しそうで柔和な貌。成長途中らしい縦に伸びるばかりの細い肢体。

 乃々の好みのタイプ――男らしくごつくがっしりと、コンディション次第ではヒグマともタイマン張れる――とはまるで真逆だ。

 唯一の救いは、無口な当主に合わせた堅苦しい生活を想像していたのが、そうではなかったということくらいだろう。やや緩すぎるきらいもあるが。

 それでも、要は許嫁であり、桜川家当主が望むのであれば将来を共にしなくてはならない。

 それが――乃々が受け入れなければならない、生まれながらに背負った義務だった。

「……………………それなりに、よろしくお願いします」

 歯噛みするように無理やり言葉を紡ぎだすと、要がたまらず破顔する。

 その時再び空気が揺らぎ、理香の身体に吸い込まれる。そして景色も元通り、イタリアンレストランへと戻っていた。

「……あれ、理香……なにしてたんだっけ……?」

 ぼんやりと呟く理香に、「帰るんでしょ?」と要が囁くと、そのまま操られるようにふらふらと歩き出した。

「大丈夫なんですか?あれ」

「ただの放心状態だからね。なんかの刺激ですぐ元に戻るよ。まああれだけ毒吐いたんだから、しばらくは静かにしていると思うけど」

 そして要はその場にいた3組の客に向かって手を振った。

「ご覧の通り初陣は圧勝で終了。立ち合い、ご苦労様」

 全員が立ち上がって一礼し、乃々は唖然とする。

「え?もしかして――」

「乃々様、初陣勝利、祝着至極に存じます。今後の更なるご活躍を桜川家一同お祈り申し上げます」

 あまりにも畏まられ、乃々も「はい……頑張ります」としか言えなかった。

「じゃあ悪いけど後よろしく」

 彼女たちにそう告げて、要は乃々の肩を抱いて店を出る。するとすぐに車が横付けされ、要に促されてそれに乗り込んだ。

「……あの、もしかして、お客さんだけじゃなくて、あの店全体が仕込みですか?」

「うん。いずれ桜川家当主の奥方として迎える人の初陣だから、って家人一同はりきって店作ったんだよ」

「うわぁ……」

「びっくりした?」

「ていうか、呆れました」

 たかだか一日、それも1時間にも満たない儀式のためにと考えると、やり過ぎとしかいいようがない。あるいは悪ふざけか。しかし桜川家にとってはあんな大がかりな装置も大した出費ではないのだろう。それを思うとかなり複雑な気持ちにならざるを得ない。

「――で?」

「で?」

「どこに行くんですか?私の家逆方向なんですけど?」

 すると要は再び、これでもかというほど爽やかに笑った。

「やだなぁ、俺が了承したんだから、乃々ちゃんは今日から桜川家で俺と寝食を共にするに決まってるじゃないか」

「別居でお願いします」

「あはは、大丈夫だよ。式を挙げるまでは一線は越えないように気を付けていけたらいいなと思っている気がするから」

「むしろ破る気満々の決意ですね」

「そう?男らしいだなんて、照れるなぁ」

「脳内の住人と会話しないでください」

 乃々は聞こえよがしに嘆息する。

(でも、桜川家に連れて行かれるのはほんとっぽいな)

 要は一向に車を止める気配がない。

(そりゃまあウチは貧乏だから、私がいない方が生活費だのいろいろ都合がいいんだろうけど……)

 あまりにも唐突すぎて、その反動か両親に対して深く思慕が湧く。

(今生の別れになるわけじゃないけど、でも……いくらなんでも、いきなりすぎだよ……)

 いずれは結婚して家を出ることはわかっていた。でもこんなにすぐだとは思っていなかった。それなりに覚悟はしていたけれど、あまりにも急すぎて不安になるのも当然だ。

 そんな乃々の心細さをわかっているように、要が肩を抱き寄せた。

「大丈夫だよ、乃々ちゃん」

 そっと頭を撫でられ、不覚にも要が頼もしく見えた。

「乃々ちゃんはひとりじゃない」

(そっか、私は今日からこの人と生きていくんだ……)

 まだまだぼんやりと、それでも確かに生まれたものがある――そう考えたことを、乃々は激しく後悔することになる。

「乃々ちゃんのご両親も屋敷に住むから」

「――――」

 乃々はおもむろにバッグを手にし、要の顔面目がけて振り下ろした。

「車止めて!勘当してもらう!もー私一人で生きてくー!!!!」


 桃地乃々――後に桜川家当主夫人となる彼女の初陣はこうして幕を閉じ、「花守」としてのスタートを切ったのだった。







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