33.雨、吹き込む夜に
「酒場満席かあ。残念だぜ、打ち上げしたかったのに」
「ふふっ、お酒は買えたんだからいいじゃない。たまには部屋でゆっくり飲むのも悪くないわよ」
レイが少し悪戯っぽく笑う。
ついさっき、ベルシカ半島からクロンの本島に戻ってきた。夜も大分更ける中、霧のように細かい雨が体を優しく撫でる。
「んじゃ、宿に戻りますか」
「今日はぐっすり寝られそうですね、ヒルさん!」
クエスト受付所も閉まっていたので、キサンカイコを持ったまま、酒場で祝杯用に瓶の酒を買った。明日カイコを買い取ってもらえば、今回のクエストもひと段落。
「よく考えると、アイ君のルサンチマンって魔法、面白いわよね。お互いの能力の変化があるわけじゃないのに、力関係が変動するなんて」
濡れた金色の髪を触りながら、レイがアイクに話しかける。親指と人差し指で髪をつまんでヒュッと水を切る仕草が、とても艶っぽい。
「ええ、そうですね。戦いの有利・不利なんていうものは解釈の問題ですから、その解釈を書き換えただけなんです」
お酒と一緒にコーヒーを買ったアイクが、紙で出来たそのカップを啜りながら続けた。
「最近考えているですけど、客観的な事実なんて無いと思うんです。あるのは解釈だけで。例えば今飲んでるコーヒーは大分熱いんですけど、それは僕の意見であって、全く熱くない人もいるかもしれません」
納得したらしいイセクタが「確かに!」と相槌を打つ。
「解釈の違いで、コーヒーをオムレツだと思ってる人もいるかもしれませんしね!」
「いたらすぐに訂正してあげてください」
液体と個体を間違う時点で解釈以前の問題だよ。
「解釈で全て変わるんですよ、
「なるほどねえ」
コーヒーを全員で一口ずつもらって体を温めながら、宿屋までもう少し。
***
「あー疲れたー!」
長期滞在している宿屋。何日かぶりのベッドにドサッと身を投げる。
「歩き疲れたー! 山道キツいー!」
誰が聞いてるでもない感想を叫んだ。1人1部屋。日頃パーティーで集団行動してる分、こうやって1人になれる時間は開放感がある。
もう少ししたらみんなと1階に下りて食事でも行くか、なんて考えていると、ノックの音が響いた。
「はーい。ん、どしたんだ?」
ドアの前には、イセクタが立っていた。
「ヒルさん、すみません。ちょっとボクの部屋の窓直してくれませんか? 開いてて雨が入ってきちゃうんですけど、どこかひしゃげてるのか全然閉まらなくて……」
「んあ? そんなことか。いいよ、行ってやるよ」
「ありがとうございます!」
お礼を言われながら、ふと思う。
そうか、俺、イセクタの部屋に入るんだ……そっか……。
「ここなんです」
「あー、結構吹き込んじゃってるなあ」
イセクタの部屋、畑に面した窓は清々しいほど全開で、さっきより強くなった雨が机や床を濡らしていた。
「直りますかね……?」
後ろで不安そうにこちらを覗き込んでいる。窓を掴んでグッと力を入れると、少しだが手前に引き寄せることが出来た。
「ああ、ちょっとだけ時間かかるけど戻せそうだ。2人で協力できる場所でもないし、自分のことやってていいぞ」
「わあ、助かります! ホントにありがとうございます!」
ほわあ、と笑うイセクタ。ううん、可愛いなあ。この子が女子だったら惚れちゃってるな。
「じゃあちょっと部屋着に着替えちゃいますね」
「え、あ……え、お……えっ!」
挙動不審に手を動かして、素っ頓狂な声をあげる。
き、着替え! 着替えってあの、服を別の物に替えるやつ!
「……ヒルさん?」
「ふぁい!」
声を裏返らせながら背筋を伸ばす。
「へへ、さすがに見られるのは恥ずかしいんで、ちゃんと窓直して、こっち見ないでくださいね、えへへ」
「あ、おお、うん、ももももちろん」
渇いた喉でゴキュンと生唾を飲み、窓に向き直って煩悩を振り払うかのように力を入れる。
そしてこれが、大きな失敗。
シュル……ファサ…………シュッ……
今、黄土色のマントを脱いだんだろうな……次に手をかけたのはシャツかな……
シャッ……シュルッ…………カチャ……
カチャって音は……ひょっとしてショートパンツのボタン……?
ダ、ダメだ! 音が! 音のほうが余計に想像が!
いやいや、落ち着け、相手は女子じゃないんだぞ。そりゃ男子でもないけどさ!
何でアイツはそんな普通に振舞えるの! 俺だけ振り回されてるんですけど!
どっちでもないって何なの! ちょっとズルくない! 湧き起こる背徳感ちょっとズルくない!
シュルシュル……シャン…………
男ヒルギーシュ、今日は運命の日かもしれません。
女子に、なんならレイにモテたいと思いながら魔法剣士やってきましたが、今日は何かが変わりそうな気がしています。
シュルシュル…………トンッ
ショートパンツが地面に落ちた音……落ちた音! ってことは今イセクタは……イセクタちゃんは……!
バシンッ!
「よし、窓しまった!」
「あ、ヒルさん、ありが――」
そのまま、腕で目を押さえてドアの方まで走る。
「風邪ひくなよ! じゃあな!」
「えっ、あの、ヒルさん!」
精神が崩壊する前に廊下に飛び出た。そして。
「バカバカバカ! 意気地なし! もったいない! こういうときのために魔法剣士として培った勇気があるんだろ!」
柱にガンガン頭をぶつけてるのを、アイクに不思議そうな目で発見されました。
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■メモ:遠近法主義(パースペクティヴィズム)
人間と虫は、それぞれ異なる景色を見ています。これは文字通りの「景色」だけではありません。人間からすれば「自分達は虫より高度な世界を見ている」と考えることでしょう。
しかし、そもそも「高度かどうか」を勝手に決めているのは人間です。私達が考えなければ、或いはこの世界に人間がいなければ、高度・低度という議論も存在しなくなるのです。
ニーチェはここから、客観的な事実というものは存在せず、解釈のみが存在する、と考え、遠近法でこれを例えました。
同じ太さで続く道の遥か遠くを見たとき、一番奥は道の両端が交わった点に見えます。これを消失点と呼びますが、同じ道を見ていたとしても、身長や見る角度に応じて異なるわけです。
価値観も真理もこれと同じだと、ニーチェは言います。普遍的な真理も共通の価値観もなく、あるのは個々の解釈のみである。この考えを
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