32.僕達は替わっていく
「動けないのは厄介だな…………ぬううっ!」
体を震わせて力を込める。やがて、ガキンッというと共に、俺が作りだした氷の足枷が壊れる。
足に血を流しながらも、両足が動くようになったレイピアは、攻撃の準備運動をするように二回跳んだ。巻き起こった風が俺の傷を撫でる。
左目は潰した。体も体毛が黒く焦げるまで燃やした。それでも、自分が勝つこと以外の未来は見えていないかのような、この余裕。
「おっと、白魔術師さん。そっちには行かせないよ」
俺のところに走り出そうとしたレイを、首だけ動かして嘴で威嚇した。体は俺の方を向いたまま、というのが「いつでも誰でも刺せるぞ」という宣言にも見える。
これだけレイと距離があると回復は難しい。俺が再び戦える望みは、ほとんど無くなった。
「そこのエルフも白い頭のヤツも、攻撃したきゃして来い。オレはどんなに傷を負っても、俺の左目を潰してくれたそこの黒髪を殺す」
幾許かの諦めが体を蝕んだ俺を見透かすように、敵は悠々と続けた。
「戦いってのは、相手の心を折ったヤツが勝つんだ。精神的に抵抗できなくすれば、それで終わりだ」
レイピアが顔を近づける。嘴を真正面から見ると、もう剣にしか見えなかった。
さっき頭をよぎった死の予感が、再び脳を占領する。今度はもっと具体的なイメージ。自分がこの嘴に突き刺され、空に掲げるように持ち上げられている光景。
死にたくない。でも死ぬかもしれない。
力では適わない。恐怖に支配されて、足掻く気力も湧いてこない。
なんとなくいつも大丈夫だっただけで、死なんてものはいつも近くにあったんだ。
いやだ、死にたくない。死にたくない。
「じゃあ、一突きで――」
「心を折って、楽しいかい?」
横になって空しか見えない俺の耳に、哲学者の声が聞こえた。
「…………あ?」
「精神的に優位に立ってからやりたい放題に攻撃して、楽しいかい?」
少しだけ、首を持ち上げて頭をおこす。アイクが、レイピアを見上げながら話しかけている。
「ああ、楽しいねえ。人間は皆、俺を悪だという。強いヤツに抵抗するために、弱いヤツらは精神的に優位に立とうとするんだ。そんな抵抗も虚しくなるくらいに心を折って圧勝する、それがオレの幸せだ」
嘲るような声の後、静寂に包まれた崖に、溜息が一つ。
「確かに奴隷道徳というものは存在します。人間の卑しい部分なのかもしれない」
「そうだろ? やっぱりお前は分かって――」
「でも」
アイクの方を向いたレイピア。その嘴を目の前に、臆することなく彼は口を開く。
「でも、それがあったからこそ、『あの人はいつか罰が当たる』『自分は弱者だけど、頑張れば善いことがある』という発想の転換があったからこそ、この世界で頑張って生きられる人がいる。そうやって精神的な優位を保つことで、生きる道を切り開ける人がいる」
手を前に翳すアイク。
「君も味わってみるかい? そういう立場をさ」
その手からオレンジ色の光が生まれ、敵と並ぶほどの大きさにまで膨らんだ。
「逆転、しようか」
【ルサンチマン】
「な、なんだ、これは……!」
光に包まれるレイピア。攻撃だと思ったようで少し暴れたが、痛みはないらしい。
「なんだよ、攻撃じゃないのか? どんな強いヤツかと思えば、こんなものでオレを倒そうと…………」
そこで、口が止まる。やがて、光が消えると同時に、レイピアはゆっくりと後ずさりしだした。
「よ、4人がかりで……オレを……殺すのか……い、いやだ……!」
…………なんだ? なんであんな弱気に……?
「アイ君、今の哲学魔法、何なの?」
「精神的な優劣を逆転させました。彼は今、僕達に勝てる気はしていないでしょう」
うろたえるレイピアを見ながら、イセクタが歓喜の声をあげる。
「アイクさんすごい! あれならボクにでも勝てそうです!」
呑気なイセクタのそばを離れ、レイが倒れてる俺の横まで来た。
「哲学ってすごいわね」
「……だな」
2人で顔を見合わせる。
そんな魔法まで使われたら、もう苦笑いするしかなかった。
そこから先は、正にあっという間。
イセクタの弓すら怖がるレイピアが逃げ惑っている間に、レイが回復してくれる。
「ありがとな、レイ。ふう、健康ってのはいいもんだ」
「後は任せたわよ」
「おう。アイクも、助かった」
「いえいえ、僕は攻撃したわけじゃありませんし」
バカヤロ、敵からしたら、どんな攻撃よりキツいっての。
「っしゃあ! 俺も混ぜろお!」
「い、いつの間に回復を! いやだ、やめてくれ!」
剣を抜きながら魔法を唱えようとした隙に、翼を大きく広げる。
「あっ、こら!」
「ひいいっ!」
恐怖心からか、猛烈な勢いで羽ばたき、爆風を起こしながらレイピアは飛び去っていった。
「……まあ、お前が目的じゃないし、逃げるなら追わねえさ」
左手に持っていた剣をしまう。イセクタが弓を持って「ヒルさん!」と走り寄ってきた。
***
「いやあ、それにしても危ない戦いだったわね。ヒル君、ホントに死んじゃうかと思った」
山道を降りながら、レイが胸を撫で下ろす。髪の色と同じ、金色のカゴには、キサンカイコがたくさん入っていた。
「ヒルギーシュ、やはり貴方には哲学者が合ってるかもしれません。魔法剣士も哲学も才能があるか分かりませんが、哲学者なら少なくとも死なずに済みます」
「何その一番嫌な消去法」
俺の人生の選択肢、悲しすぎませんか。
「ったく、こっちの方が合ってるっての」
腰の武器を見ながら、くぐもった声で独りごつ。
その剣に似たあの嘴と、それに刺される自分を想像して、少し戦慄しながら。
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■メモ:ルサンチマン
恵まれた人達に対抗するために、弱者が集まって強者を悪に仕立て上げる「奴隷道徳」を生み出し、自分達が精神的に優位に立つ。ニーチェはその心理をルサンチマンと呼びました。そして、このルサンチマンを「教え」としたのがキリスト教である、というのが彼の見解でした。
例えば、貧しい人が裕福な人を見て、「アイツはきっと悪人だ。心が狭いし、非道なこともやっている」「自分は慎ましく暮らしているけど、アイツと違って死んだら天国に行けるんだ」と考えることで、裕福な人より優位に立とうとする。
このようにキリスト教は、「今は苦しくても、善人であれば最後には天国に行ける」という教えを説くことで、多くの民衆が現世を生きるための心の糧を作りました。
人々の心に巣食うルサンチマンを「道徳」「教え」として肯定したキリスト教。古くから爆発的に普及した理由はそこにある、とニーチェは考え、本来の価値を反転させたとして強く批判したのです。
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