5.魂、磨いてますか?
「しっかし、昨日は散々だった」
結局野宿する羽目になった翌朝。同じ食事処で繰り言を口にしながら、朝食のオムレツを切る。
昨夜は食い逃げの容疑で俺達も一緒に怒られた。待ちに待った夕飯だったのに悲しすぎる。
「まあまあ、ヒルギーシュ。哲学を現実世界に当てはめると、ああいう間違いも起こります」
「お前には罪悪感とかないのか」
よくその調子で話せるよホント。
「ボクも昨日のはショックでしたね……食欲も少し落ちてます」
ふう、と深く息を吐くイセクタ。そうだよな、かなりこっぴどく言われたもんな。
「あ、ところでアイクさん、そのパン、残すなら食べてもいいですか?」
「ええ、いいですよ」
「舌の根も乾かないうちに!」
食欲の回復早すぎませんかね!
「アイ君、それ、何読んでるの?」
レイがアイクの持っている本を指差す。
「祖父が僕のためにまとめてくれた本です。哲学についての考察が書かれてます。レイグラーフも読んでみますか?」
「ううん、何か難しそうだから遠慮しとくわ」
冗談っぽく微笑むレイ。くうう、素敵だ! 可愛さと美貌が見事に同居してる!
「哲学者って毎日ずっと考えてるのね」
「ええ。自分も勉強中の身です。今僕が考えていることも、自分で発展させたりひっくり返したりしないといけない。知識を蓄えつつ、色んなことを観察していかないと」
パタンと本を閉じ、彼はもらったパンを頬張っているイセクタを見た。
「イセクタ・ユンデの『男でも女でもない』というのも不思議な存在ですね。どうやって決まるんですか?」
「いやあ、それが全然分からないんですよね。ボクが今130歳くらいで、200歳くらいになると急にどっちかになるらしいんです。法則性みたいなものも特になくて」
「イセクタちゃん、いきなり体が男か女になるの? 胸が大きくなったり?」
レイの質問に思わずドキッとする。レイ自身は決して豊満な体つきじゃないけど、それでも女子から「胸」なんて単語が出るとなんか心がフワフワするぜ……!
「そうなんですよ、レイさん。だから友達とみんなで、どんな風に体が変わっていくのか、70年後をドキドキして待ってます!」
「いや、今からそんなに緊張するなよ」
70年って結構長いですからね。俺達は結果を知れそうにないですし。
「でも面白いな、アイク」
「ええ、ヒルギーシュ。哲学的に考えても非常に面白い話です」
「…………いや、別に哲学的とかそういうのじゃなくて――」
そんなこと言っても、コイツが止まるはずがない。
「イセクタ・ユンデ、僕は貴方のことを誤解していた。『男でも女でもない』のではなく、その両方の可能性を保有している存在なのです。つまり、『男でもあり、女でもある』存在なのです」
「はああ、なるほど。ボクはどっちでもあるのか!」
興奮気味に立ち上がるイセクタ。確かに、「どっちでもない」と言われるより「どっちでもある」と否定でない形で言われた方が嬉しいのかもしれない。
「ですので性質としても、男の勇敢さと女の可憐さを併せ持っていると思います」
そっかあ、と照れるように長い耳を掻いて、こっちを流し目で見るイセクタ。
「勇敢と可憐……ヒルさん、ボクに可憐なところなんて、ある……?」
あるよおおお! あるに決まってるだろおおお!
大体、なんで急に敬語抜けちゃったの! その口調は何! 狙ってるの!
その男子で女子な顔で俺を見ないで! 緑のショートパンツから見える脚もマズい、それはマズいです! 心が変に疼きます!
「もちろん、ヒルギーシュやレイグラーフも観察対象ですよ」
「あ、ああ、そうか」
鼻息の荒くなった俺を、アイクの言葉が鎮める。
「ヒルギーシュはなぜ魔法剣士になったのですか?」
「なぜ? 決まってるだろ、魔法剣士はパーティーの中でも花形だからな!」
普通の人生じゃつまらない。冒険したかったからパーティーに入る道を選んだ。そして、どうせやるなら攻撃の要、魔法剣士になりたかった。
「戦ってるヒル君、カッコいいもんね」
「ホントですか!」
上ずった声の敬語で返事する。
っしゃああああ! レイに褒められた! クロン王国でも指折りの美人と謳われるレイグラーフに笑顔で褒められた! 幸せの絶頂! 上がるテンション! そして白いドレスから覗く白い脚!
イセクタの足もアレだけど、やっぱり本物の女子には適わない気がしますね! なんでしょうその質感と肉感!
「アイクも分かるだろ? 活躍して有名になれば目立てるし、女子からも人気出るし、将来は高い報酬で仕事できるようになる!」
そう、調子に乗って喋った俺がバカだったんです。
「いいですか、ヒルギーシュ。名誉や富だけでは心の平穏は訪れません」
「…………へ?」
「プシュケー、つまり魂への配慮が足りないのです」
「た、魂……?」
「名誉を得たなら、その知名度を活かして皆に魔法剣士の仕事を教えてあげる。富を得たなら、病気や怪我で満足に働けない人に寄付してあげる。そうやって、得たものを正しく使って初めて、人間は幸せになれるのです」
「いや、アイク、この年齢の男子ならみんな同じような欲望を――」
「欲望だけでは一人前の男にはなれません。人間のアレテー、つまり固有の性質は、善悪や美醜を判断できる『知』なのですから」
それを聞いていたレイがくすくすと笑う。
「ふふっ、ヒル君も早く一人前になれるといいわね」
笑われた! おい、お前のせいで俺の評価が下がったぞ!
「あの、ヒルさん、パン残すなら食べてもいいですか?」
「やかましい! 食べる! 俺が全部食べる!」
俺は欲望のままに生きるからな!
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
■メモ:
アレテーの考えの中で、ソクラテスは「人間のアレテーは知である」と結論付けていましたが、これは彼の、当時の人々に対する想いにも繋がっているようです。
当時のアテネの有力者についてソクラテスは、「富や名誉や健康にばかり関心が向いてしまっているが、最も大事な『魂』はおざなりである」と感じていました。
多額の富で恵まれない人に寄付をしたり、健康な体を活かして誰かの生活の補助をしたりと、優れた魂によって富・名誉・健康を正しく使えたときに、人は初めて幸せになれると考えていたのです。当時の人々について、彼は「
では、どうすれば魂を磨き、富や名誉を正しく使えるようになるのか。そのために必要なものが
何が善で何が悪か、美しいものは何なのか、そういったものを知ることで行動も変わり、善く生きることで真の幸せを手にできる、とソクラテスは考えていたのです。
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