第2話 妹可愛い

「お姉ちゃん、どうしたの……?」

「お、ライラ。お帰り。ジィ腹痛いから寝かしておいてやれ」

「はぁい」

 とたとたと軽い足音。さらさらと柔らかい衣擦れ。妹のライラには、いつもその二つが伴っている。そろそろ成長期が来ても良い年頃にしては小柄な妹の、小さな手がわたしの額を少しだけ撫でて、するりと去っていった。

 ライラが帰ってくる時間なのか、と思う。本当ならそろそろ夕飯の支度をしなければいけない時間だ。

 場所はリビングのソファの上。ヨナスの掛けてくれた毛布に包まって、俺は横にさせられていた。座り込んだのを貧血と勘違いされたせいだ。ある意味貧血みたいな症状は出ていたし、間違いではないのだけれど、その原因は女の子月一血祭りカーニバル前夜のせいではなく、一斉に蘇った前世の記憶とやらの膨大な熱量と、混乱のせいだ。

「兄ちゃん店行って父さんから薬貰ってくるから、ライラ、ジィみててくれるか?」

「うん」

「よしよし、ありがとな。ジィが喉乾いたーって言ったらそこに水差し。寒いーっていったらそこにココアと追加の毛布。お腹減ったーって言ったらここにクッキー。お腹痛いーっていったらよしよししてやるんだぞ」

「テス」

 びしっとライラが敬礼したんだろう。うむうむと満足げにヨナスが頷く気配がある。

 兄の生理に対する理解度が高すぎて正直退く。

 じゃあ行ってくるな、と玄関の開く音がして、ぱたんと閉まる。暫くそれを見守っていたらしいライラは、けれどすぐにソファに駆け寄ってきた。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

「ん、……ライラ。おかえり」

「ライラにしてほしいことはある?」

「今は、大丈夫。何かあったら呼んでもいいか?」

「うん、ちゃんと言ってね」

 毛布から探り当てたこちらの手を持ち上げて、ぎゅっと握る。子供特有のぽやぽや暖かくて、ちょっと湿った手。人形みたいな見た目だけれど、当然ライラだって体温があるんだと、触れるたびいつもほんの少しだけ驚いてしまう。

 俺が目を細めると、眠るんだと思ったらしい妹は握った手を慌てて毛布に戻す。机で宿題してるからね、とひそひそ声で言ってから、とたとたさらさらとダイニングの方へ向かっていった。

 宿題、という単語を少し懐かしく思う。この世界の、この国では、いわゆる義務教育は十二歳までしかない。それもあくまで家業の妨げにならない程度であって、それ以上の高等教育を受けるには本人のそれなりの熱意と、学費を出せるだけの経済的余裕が必要になる。

 ライラは基礎学校の最終学年だ。もう一つ上の応用学校に進学するか、それともわたしやヨナスのように親の仕事を継ぐか、はたまた新しい仕事に就く為の活動を始めるか。そろそろ決めなければいけない時期である。

 幸い我が家は両親が働いていることや、わたしやヨナスが進学しなかったこともあってライラ一人なら問題なく進学させてやることが出来る。ライラ自身も勉強は出来ない方ではないし、何より魔術の素養が出かけているのだから、応用魔術学校に進学させてあげたいというのが、わたしの希望だ。本人はまだ決めかねているようだけれど。

 魔術。

 そう、この世界には魔術と魔法がある。

 けれど、魔法や魔術と聞いて前世の記憶でイメージされるそれとは少しばかり異なっている。呪文を唱えて手を翳せば炎や風が、精霊と語らって魔力を云々、というのとは違うのだ。

 簡単に言えば、魔術というのは体系立った技術であり、学んで修める学問の一つであり、魔法というのは一種の精神疾患だ。どちらも世界に干渉する方法ではあるけれど、一般的ではないし、誰しもが出来ることではない。才能と、資質と、その他もろもろが深く関わっている、らしい。

 らしいというのはそもそも”わたし”、ジーウには魔術の才能も無ければ魔法を顕現する下地も無かったので、どうにも知識があいまいなのだ。専攻ではない学科の内容に詳しくないとか、自分の罹ったことがない病気を良く知らないとか、そういうことだと思ってほしい。

 世界観的に言えば、前の世界で言うところの近世ヨーロッパとか、所謂よくあるファンタジーモノに比べれば進んでいることになるんだろう。産業革命とかそういうあたりのような気もする。あいにく、俺は前世でも今世でもまともに歴史なんて勉強してないから何とも形容できないのが歯がゆい。蛍光灯はないけれど、白熱灯はある。馬車や牛車はまだまだ現役だけど、時折車が走っていても珍しがった子供が後ろをついて走るようなことはない。猟師さんや軍人さんは銃を持っているけれど、身を守る道具として、剣や盾を持ってる旅人はまだ少なくない。鍛冶屋はメインストリートにいくつも並ぶ主要産業の一つだ。

”わたし”こと俺ことジーウは、義務教育である基礎学校を卒業してから、母さんの針子業を継ぐために週に二回の職業訓練所に通っている。勿論母さんの仕事の手伝いもしているけれど、学生というには少しだけ気楽すぎて、とはいえきちんと雇われるにはちょっと心もとない。ニート一歩手前、家事手伝いちょいすぎ、くらいの立ち位置である。

 ヨナスは父さんの薬師の仕事を継ぐつもりらしい。店を手伝いながら、近くの大きな街で定期的に開かれる学習会に参加して知識を深めている。こっちはまっとうな「薬師見習い」だ。

 そんな風に自分の現状をとりとめなく振り返って、毛布の中に溜息を吹き込む。

”わたし”はジーウ=コックだ。その記憶、意識に問題はない。違和感もない。ライラが産まれた日のことも、おととしの誕生日のことも、近所に住む幼馴染との思い出も、昨日の夕飯のメニューも覚えている。

 それと同時に、”俺”のことも覚えている。否、思い出した。ジーウ=コックが知るはずもない、日本という国のこと。二十六年分の人生の記憶。井上さんと話して、煙草を吸って、そこで記憶が途切れたこと。

「…………う、」

 その先を辿ろうとして、じくりと頭に鈍痛が転がる。それは傷なので思い出すなとでも言っているようだ。

 ていうか。

 何で。どうして。生まれ変わりなんて。何のために。

 ぐるりと渦巻く疑問に、応える神の声は無い。

「お姉ちゃん?」

 微かなうめき声を聞きつけたんだろう、とたとたさらさらとライラがこちらに駆け寄ってくる。

「大丈夫? お腹痛い? 毛布欲しい?」

「あ、いや、ありがとうな。だいじょうぶ……」

「お兄ちゃん、薬貰ってきてくれるって言ってたから、もうちょっと頑張ろう」

 姉と妹が逆転しているみたいなライラの口ぶりに少しだけ笑ってしまった。

 わたしは生理痛が酷い性質で、家族もそれを見慣れている。

 前世のままだったら、生理なんて考えただけで卒倒しただろうな、と思う。いや、本当に。彼女が月に一回やたらと機嫌が悪くなるのを見てどんなものかと戦々恐々していたのだけれど、なるほど、改めて考えると彼女をもっといたわってやるべきだったと後悔してしまう。あれはしんどい。

 とはいえ、前世が男だったと思いだしたところで、魂がどうしようもなく二十代男性だったと思いだしたところで、十七年間女子として過ごしてきたこの記憶にも変わりはないのである。毛布の下でなんとなく改めて胸とか股とか触ってみても、ああ、わたしの乳だなって感じなのだ。あっわたしの股ですねって感じなのだ。新鮮味無くない? 切ない。なんかもっとこう、劇的な衝撃とかあるかと思った。無かった。だって伊達に十七年この体で生きてないもん。ああ、胸の性徴が若干心もとない……そちらの切なさが勝ってしまう……。

「ジィ、薬貰ってきたけど……起きれるか?」

 毛布の下でごそごそやってると、どうやらヨナスが帰ってきたらしい。小さな紙袋をとすりとソファ前のテーブルに置いて、こちらを伺っている。父さん謹製の生薬だろう。

 いい加減そこまで体調が悪いわけでもないのに寝続けるのも申し訳なく、慌てて起き上がると毛布を掛け直された。

「本番来てるわけじゃないんだろ? とりあえず生理前用に体を温める処方の奴作ってもらった。豆粉のクッキーなら食えるか? 薬飲んだら何か食べたほうがいいし」

「あ、ありがと……」

 それにしても兄の生理に対する理解が深すぎて正直引く。


「夕飯どうすっかな。ジィ休んでるだろ?」

「いや! 作れる作れる、大丈夫だってほんとに」

「ええ……?」

 父さんの薬を飲んで、クッキーを食べて、ココアを飲んで。元よりただの動揺で労わられていた訳だから、寧ろいつもより体調はいいぐらいである。ぐっと拳を握ると、それでも心配性の兄は整った眉をぐっと寄せた。この家で、基本的な家事は”わたし”と母さんの分担である。それからちょっとライラのお手伝い。ヨナスや父さんは、薬の材料の確保のついでに食材を手に入れてくるのが仕事。

「今日は一日家だったから、下ごしらえは終わってるし。あとは焼いて、サラダ作って、あとスープあっためればいいだけだから。ライラ手伝ってくれるよな?」

「うん」

 ダイニングの方からライラの声が飛んでくる。

「んー……無理すんなよ」

「そういう心配はマジでヤバイ時の為に取っといてくれや」

 肩を竦めると、いつもより一層乱暴な口調が効いたのか、そうする、とヨナスはちょっとだけ眉を下ろして頷いた。おにいさまからの許可が下りればさっさと仕事を片付けてしまうに限る。ただでさえ時間が押しているのだ。黙ってくれているけれど、ライラだってお腹が減っているに違いない。

 ずっと掛けられていた毛布を丁寧に畳んで、ソファに掛ける。ダイニングテーブルのライラは分厚い本を開いていた。宿題はもう終わらせたんだろう。俺がキッチンに入ろうとすると、ぱたんとそれを閉じてこちらに駆け寄ってくる。とたとた、さらさら。

「ライラはサラダ作ればいい?」

「その通り! レタスとトマトとラディッシュがあるから、味付けは適当に頼む」

「テス」

 この国の軍隊式の敬礼がこの妹のお気に入りだ。大真面目に小さな手のひらを見せてくる仕草はとても愛らしい。いや可愛いな俺の妹。

 小さなころから俺を手伝ってくれているライラは、手際よく野菜を取り出して水道で洗い、レタスをちぎり始める。一方でこちらはメインの準備。多めの油を熱したフライパンに潰したニンニクを放り込んで、色づく間に芋を大きく切る。皮もそのままでちりちり言ってるフライパンに放り込んでざくざく炒めていく。

「そういえば、丘の上の屋敷だけどさ」

 いつのまにやらダイニングテーブルに座っていたヨナスがキッチンの方を伺いながら言う。

「屋敷? ああ、あそこ? 屋根超尖ってる?」

「そうそう屋根超尖ってる。あそこ取り壊しになるかもしれないんだってさ」

「マジか。あーでも肝試しとか言って危ないもんなぁ」

 芋に概ね火が通ったら少し避けて、昼間の内に下ごしらえをしておいた鶏肉の皮を下にして並べる。脂が元気よく踊る音がやかましい。

「今度役所の人来るって言ってたけど、でもあそこ、アレだろ。歴史的なんとか……なんとか」

「そうだっけ?」

「そうだってあの尖った屋根のアレ、歴史的なんとか……」

「指定歴史的建築物群、カッジ時代尖閣建築だよ」

 フワフワした兄と姉の会話に的確に突き刺さる末子のワンポイントアドバイスに、そうそれ、と緩くヨナスは頷く。俺たちの妹可愛い上に頭いい。そんなことはわざわざ口に出さずとも俺とヨナスの間では常識なのだった。

「だからどうするんだって話になってるんだとさ」

「ていうかそもそもあそこって人ン家じゃなかったか?」

 一端フライパンの蓋を閉めて、隣でスープを温め始める。トマトベースのスープはライラと父さんの好物だ。

「しかし役所の人とやらも大変だな。魔獣いるとか言われてるじゃんあそこ。怖くねぇ?」

「いや役所の人も仕事だし、ていうか魔獣なんて本当にいるのかっていう」

 隣ではライラがえっちらおっちらトマトを切っている。ドレッシングは一昨日作り置きしたのがあるのでそれを使ってもらおう。

 ふと、だいじょうぶだ、と思った。たとえ”わたし”の魂が、どこぞの知らない世界のどこぞの男だったとして、だからなんだ。わたしは”わたし”だ。大切な家族が居る。わたしのことを愛してくれている家族と一緒にいる。俺がどんな何であったとしても、この日常が変わることなんてあるはずないんだ。

 そんなの甘い考えだなんて、この時は少しも思わなかったのだ。

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