2006 冬①
最初に気づいたのは、私が通っていた保育園の先生だった。本来『赤い』はずのリンゴを、私は茶色のクレヨンで塗っていたからだ。
保育園の先生の話を聞いて、すぐさま連れて行った眼科でお母さんはこうお医者さんに言われた。
「めずらしいですね、女の子の色弱なんて」
と。
いくつか眼科に行っても、似たり寄ったりのことを言われたらしい。
私はその当時のことを、あまり良く覚えていない。ただ、病院に行くたびに、しかめっつらの人が目にスプーンを当てて何かを見ている光景が、ただ異様に映ったことだけはありありと思い出せる。
どうやら、私は生まれつき他の人とは色の見え方が人とは違うようだ。
うちはそもそも親父もその『色弱』だったようで、それが私に遺伝したみたいだ。同じ両親から生まれた妹の美幸も色の名前が分かってから検査したが、妹には問題なかった。
生まれつきのものを悔んだり哀れんだりしても、仕方がない。
だって、もう私の目は交換できないのだから。
しかし、困ることはいくつかあった。
例えば緑色の黒板に書かれた赤いチョークが見えにくかったり、赤いお肉が焼けたかどうかが分かりにくかったり……。
「お姉ちゃん、そろそろ充電やばい」
「え? まじで?!」
あとは、ゲーム機の充電切れのランプの色の、見分けがつかないことくらいだ。これのせいで何度『冒険』をパーにしたか、数えられないくらい。
ソファに寝転んでゲームをしている間は、妹の美幸が教えてくれるので助かっている。
「美晴、あんたもゲームばっかりしてないでいい加減勉強しなさい」
「えー、いいよ、別に。数学も英語も将来使う訳じゃないし……」
「馬鹿! 専門落ちたら美容師慣れないんだよ!国家試験だってあるんだから……」
「うぇーい」
「……まったく、美幸は何も言わないでもちゃんと勉強するのに」
お母さんの小言に耳を塞ぎながら、私はゲーム機を充電器に繋いだ。
部屋に戻って漫画でも読もうと欠伸をすると、リビングのテーブルでドリルに取り組んでいる美幸が目に入った……同じ親から生まれたのに、目といい勤勉さといい、どうしてもこうも違うのか。
「あ」
お母さんのやかましい小言のせいで、嫌なことを思い出してしまった。私は引き返し、台所でせわしなく動くお母さんの背中に声をかけた。
「あのさ、明日から帰ってくるのちょっと遅くなる」
「ん? なんで?」
「美術の課題終わんなくて……先生が放課後美術室開けるから、冬休みは始まる前に終わらせろって」
「あんた、またそんなことばっかりして……」
「だって、美術苦手なんだもん」
そしてもう一つ、困ることがあった。
それが、絵を描くことだ。自分が思っている色と、他の人が見えている色は違う。
変な色合いになっていないか、色のバランスは悪くないか……周りの目を気にしているうちにどんどん嫌いになってしまった。
しかし、課題から逃れることはできない。提出できなかったら、美術の井沼先生からは成績をつけないと言われてしまったから……背に腹はかえられないのだ。
次の日の放課後から、私は美術室でイーゼルに立てたキャンバスに向かい合っていた。テキトーに書いた課題の花束の下書きに色をのせていく。
真ん中の花粉のところは黄色、花弁は『赤色』と書かれた絵の具と『ピンク』と書かれた絵の具をべたべたとつけていった。
そんな様子を見て、井沼先生は私の真後ろから『へたくそ』と呟いた。
「それさあ、こんなに頑張ってる生徒に先生が言うこと?」
「もうちょっと楽しそうにやれよ、機械的に色乗せやがって」
「絵完成して、とっとと提出すればいいんでしょ? うるさいな」
「口ごたえばっかりしやがって、可愛くないやつ」
それと、美術が苦手な理由はもう一つある。それがこの井沼先生だ。
おおざっぱで、先生っぽくない。
そして、何より口が悪い。
クラスの子で『顔はいいのに、もったいないよね』と話している子がいたが、まさにその通りだと思う。黙っていれば、もっとマシだ。
私の絵に文句をつけた満足したのか、井沼先生は自分が立てたイーゼルに戻っていった。先生も、絵を描いているようだ。
「せんせーは、何描いてんの?」
「個展用の作品」
「個展? 先生、個展なんかやるの?」
「『なんか』って……悪いか? 俺だって一応美大出てるし……それなりにファンだっているんだからな」
そういえば、学校の玄関に飾ってある絵は、井沼先生が描いたものだった気がする。どこかの風景を、まるで写真のように写し取った絵だ。
「ふ~ん。ねえ、見せてよ」
自分の絵をほったらかしにして、私は先生のキャンバスに向かう。後ろから覗き込むと……いろいろな大きさの灰色の丸が描かれていた。
「何これ」
「……作品名、空模様」
「変なの」
「まあ、これを芸術を思うかどうかは人ぞれぞれってことだな」
「えー、コレが芸術?」
首をかしげる私を見て、先生は口角をあげるだけの笑みを見せた。
「それに、これのどこが空模様なの?グレーばっかりじゃん」
「は? や、……もしかして、小柳って色弱?」
「あ」
別に黙っていたわけじゃないが、少しだけ気まずい空気が流れた……と思ったのは私だけのようだ。
「まあ……そうだけど」
「なーんだ。……お前さ、ゴッホって知ってる?」
「は?」
「……お前、それも知らねーのか」
先生は、教科書を取り出した。表紙には、花瓶に生けられたひまわりの絵が描かれている。
「この絵を描いたのが、ゴッホ」
「ふーん……で、この人が何だって?」
「いや……確証はないんだけどさ、この人もお前と同じように色弱だったかもしれないんだって。他にも似たような画家はたくさんいて、でも全員自分の思うように絵を描いてた。それが、あいつらの世界だからな」
「ふーん」
「お前が適当に色乗せてるのも……多分他の連中にとやかく言われたくないからだろ」
「うーん、そうかもしれない」
「でも、もっと胸張っていいと思うぞ。お前には、お前にしか見えない世界があるんだから」
その言葉は、すとんと私の胸の中に落ちてきた。口をあんぐり開けていると、先生は『何だよ』とムスッと口を曲げた。
「いや……先生っぽいこと言うなと思って」
「先生だから、な」
そして、いたずらっぽく笑みを浮かべた。私もそれを見て、少しだけ笑顔を作った。
「だから、小柳の見たように、思うように色乗せていいんだぞ」
「でも……」
「それが小柳の作品なら、誰にも文句言わねーから。もしなんか言ってる奴いたら、俺がぶん殴ってやるから」
「……それ、首にならない?」
「あ……ちょっと注意しておくだけにとどめとくわ」
その言葉に、私が噴き出すと先生は、今度は満面の笑みを浮かべた。
私は自分のキャンバスに戻り……自分が好きだと思う色をパレットに取り出した。それが何色かなんて、もう気にせず……思い思いに……適当に塗った赤やピンクを塗りつぶしながら。
先生は自分の作品を手掛けながらも、時々は先生らしく私の様子を見に来ていた。
私が振り返るたびに、先生は笑っていた。それを見て、私は少しだけ先生のことを見直していた。
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