あなたの花束になりたい

indi子

2016 冬

 営業時間が終わった。最後のお客さんを見送った私は、「小柳美容室」と書かれた看板の明かりを消して、ドアのブラインドを下げる。

 床に散らばった細かい髪の毛をブラシで隅々まで掃き綺麗にして、明日の準備のためバックヤードに入る。親父はラジオの電源をつけて、レジを締めていた。その脇には、今日お客さんからもらったばかりの【ピンク色のバラの花束】が飾ってある…… 私には、それが少しくすんだ白色にしか見えなかった。


 バックヤードでは、親父が聞いていたラジオの電源がつけっぱなしだった。スピーカーからは、年末に解散が決定したアイドルグループについての報道が聞こえてきた。いよいよ秒読み段階に近づいてきたその終わりの日を憂う、ファンの声を特集している。


 私は、もうそんな時期なのかと軽くため息をついた。

 そういえば、新年に向けて、身なりを整えようとするお客さんがグッと増えてきたような気がする。

 坊主も走る忙しなさとはまさにこのこと、もうこの仕事について何年も経つがこの忙しさには慣れない。


 凝り固まった腰を伸ばし、ぐるんぐるん回していくと、ドアにつけている鐘が鳴る音が聞こえた。



「美晴、客」


「は?」



 バックヤードを覗く親父が、そう私に声をかける。

 


「営業時間、もう終わってんだけど」


「まあ、そんな硬いこと言うなって」



 愛想のいい親父はへらへら笑うだけだった……その安請け合いの皺寄せは、結局私のところに回ってくるのに。

 今度は深~いため息をつきながら、積み重なっているタオルを棚に押し込んだ。


 晩御飯の準備、まだ終わっていないのに。


 私は目をつぶって、家でお腹をすかせているであろう井沼センセイの顔を思い描いていた。……センセイが包丁で手を怪我して以来、私は絶対、センセイを台所には立たせないようにしているのだ。


 私はフロアに出て、にっこり笑いながら顔を上げた。

どれだけいやでも、お客さんの前では笑顔でいなければいけない……それが、【プロの仕事】ってもんだ。

 しかし、私が作った笑顔は妙な形にゆがんだ。そこに、見慣れた白杖があったからだ。



「せ、センセイ!何してんのさ、こんなところで」


「おう」



 センセイは軽く片手を挙げて、小さく笑う。



「もう外暗いんだから、危ないじゃん!」


「近くまで寄ったもんだから、ついでに散髪でもしてもらおうと思って。いま大丈夫か?」


「いや、まあ大丈夫だけどさ……それなら先に連絡してよ」



 私はセンセイの手を取り、スタイリングチェアまで案内をした。こまごまとした物が多いこの小さな美容室は、目が見えなくなったセンセイにとって危険ばかりの場所だ。



「でも、どこに行ってたの?こんな遅くまで……」



 センセイにクロスをかけながら、私は尋ねた。

 センセイが今美術史講座を持っているカルチャーセンターは、こことは正反対のところにある。



「病院行ってた」


「病院? 定期検査ならこの前行ったばっかりじゃん」



 センセイは小さく首を横に振る。

 私がシュッシュッと霧吹きをセンセイの頭にかけている間、センセイは口をつぐんだままだった。その沈黙に違和感を覚えた私は、小さな声で再び呼びかける。



「……センセイ?」


「お前、臨床研究って分かる?」


「は?」



 センセイの頭の中では、私の姿はあの馬鹿だった高校生の頃でとまっている。

だから、『こんな難しい言葉、わかんねーだろ』ときっと馬鹿にしているに違いない。



「そ、それくらい知ってるし! 私だって、今はちゃんとニュース見てるから」



 言い返すと、センセイはのどをクツクツ鳴らしながら笑った。その嫌味っぽい笑い方は、10年前から全く変わらない部分だ。



「それが、どうかしたの?」


「再生医療の認可が下りたって。……病院で、その研究対象になってくれないかって言われてきた」



 センセイの言葉が、かすかに震えていた。歓喜の色をにじませながら、センセイは小さく囁く。



「それって、センセイの目、治るってこと?」



 私の声も、同じように震えていた。



「……まあ、ただの実験体だけどな。ネズミ、ブタ、サル、そして俺」


「でも、実験でも……治るかもしれないんでしょ?ネズミもサルも、治ったんでしょ?」


「それに、完全に視野が回復するわけじゃないし……」


「でも、でも……!」



 私は、唇を噛んだ。こうでもしないと、目から涙があふれてしまいそうだったからだ。



「まあ、完璧なものじゃないけど……一縷の希望はあるって先生が……俺、受けてもいいよな?」



 私は何度もうなづいた……センセイは見えていないのに、『良かった』と呟いていた。



「センセイさ」


「ん?」


「前、ちゃんと目が見えてたら見たいものあるって言ってたじゃん」


「お前、10年も前のこと、よくもまあ覚えてるな」


「あれ……ゴッホの見たことのないひまわりの絵と……どっかの国のステンドクラス、どこだったっけ?」



 治ったらすぐにでも一緒に行こうと言葉を続けようとすると、センセイは『いや』とさえぎった。



「他に見たいもの、ある」


「……なあに?」


「……お前の顔、最後に見えたのまだ10代の頃だったろ」


「……どうせ、老けたなとか余計なこと言うんでしょ」



 昔から、このセンセイときたら余計な一言ばかり言うのだ。でも、このときばかりは違った。



「いや……その頃に比べて、綺麗になってるんだろうな、お前」



 ハサミを取ろうとする手が、小刻みに震えはじめる。こらえきれなくなった涙は、床に落ちていった。

 私はソレを悟られないように、努めて明るく言い返した。



「……いーよ、見飽きるくらい見せてあげる」


「何? お前、泣いてるの?」


「うるさい、見えてないくせに」



 軽口で返しても、一向に手の震えは収まらなかった。何度も何度も深呼吸をしているうちに、ふっといつかの光景が脳裏によぎる。



「ね、センセイ」


「ん?」


「センセイの目が見えるようになったら……またコーヒー淹れてよ」


「……お前、昔美味しくないって言ってただろ」


「そんな10年前のこと、忘れてくれてもいいのに」



 センセイは、クスクス笑った。私も同じように笑みを作る、貼り付けた笑顔じゃない……心からの笑みだ。その横を、あたたかな涙が一筋通り過ぎていった。


 ずっと夢に描いていた事があった。休みの日の朝、センセイの淹れるコーヒーの香りで目が覚める……そんなささやかだけど、叶うことはないと思っていた夢だ。


 それが、もうじき手に届くところまできている。


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