閑話「2年クラスE」
―――1
「んあ~」
始業式も少し前の頃、鈴之原高校の2年教室棟は放課後を待つ生徒でざわざわしていた。そんな中で教室真ん中から右側の列で、大きなあくびと共に春のうららを満喫している生徒がいた。
「いちる。そろそろ起きないと部活始まるわよ。もうすぐ後輩も来るし、アンタも先輩らしく背筋を伸ばさないと」
のんべんだらりとしていた女子生徒…
「んえ~?別においらはしがないピアニストだから、みんながみんなウチに注目するわけじゃないよ~、アタしゃ譜面台に立てられた伴奏をするだけの存在…拙者は流れのピアニストってもんだよ」
「相変わらずふざけ倒してるわね…自分の事おいらとかウチとかアタシなんて家では言わないじゃないの」
同じ屋根の下で見ている普段のいちるを知っているからこそ。その双子の姉妹…三枡はるかはいちるに対して苦言を呈する。
「まーいーじゃーん。底が知れる暮らしは某には似合わない…私はみすてりやすにいきてたいの…さっ!」
「むしろよくそんなにポンポンと一人称が出てくるわね…一周まわって尊敬するわ」
感覚のままに喋っているいちるに対して、呆れたような言葉しか返すことが出来ないはるか。2年クラスEでは、この顔だけ双子のやり取りがほぼ恒例行事となっていた。
「でもはるかといちるって不思議よね。顔は瓜二つなのに性格は全然違うし…」
「なんか、はるかがいい所全部吸収しちゃった感じだよねー」
勝手知ったるクラスメイト達が、二人の会話を聞きながら口々に言い合う。クラスEで勉学を共にしているという事は、そのまま合唱部で腕を磨いている部員同士と言う意味でもある。なのでクラスメイト同士の距離感も非常に近く、こうした言い合いも、クラスEでは殊更普通の事である。
「おーうおう?今のは聞き捨てならねーなー。誰だぁ?はるかがワイの全ステータスを奪い取っただなんてー…」
そこまで行って、いちるは俄かに椅子から立ち上がり、手先を高らかに天井に着き上げた。
「ピアノぢからだけは小生が持ってんだぞー!」
そう宣言すると、教室中が静まり返り、いちるを見る。
そしていちるはゆっくりと
しずかに席に着き
流れるように
また寝た。
そして机に突っ伏したいちるに対して、瞳がハッとしてツッコミを入れる。
「いやいちる、それじゃピアノの腕しか取り柄がない事になるじゃないの。それでいいの?ピアノ以外ダメって言われてるのよ?」
「すぴー…」
「ああもう…このナマケモノは…」
はるかは、我が姉妹ながら一発殴ってやろうかと思ったが、こうした言い合いも、もはや日常の事であり、悔しくもいちるが言った事自体は真実なので、握った拳は殴りたい気持ちと共に一旦心にとどめる事にした。
………
――おはようございます!
「えぇ、おはようみんな」
2・3年生が集合する音楽室。クラスEの合唱部に所属している生徒が顔をそろえて、目の前で一際注目を浴びる部長…吉岡岬の話を聞く。
「さて、入学式での校歌はお疲れさま。さすがに最低でも1年は練習した甲斐があったわね。さて今度は1年生の見学に向けて、後は春コンと春風祭、3年生は言わずもがなだけど、2年生も去年からここの空気を感じてきて、この時期がどれだけ忙しいかもわかるはず。だから合唱部はこれから気を抜ける時間は殆どないと思った方がいいわ。まずは春コンの課題曲、そして歌いの森、と言う事でまずは頭に入れておくこと。それじゃあ今日から4日で最初のチェックね」
――はいっ!
岬が部員たちに指示を出して、部員たちは歯切れよく返事をして、学年とパートを分けて練習に入った。2年生の練習を指揮するのは2年生の役割、ソプラノとアルトを振り分けて練習の設定をする三枡はるかは、そこにいる生徒の人数分の楽譜を配布する。
「まずは音をさらう事、あぁでもCDはまだ貸さないからまずは楽譜で探ってね」
はるかはCDを手に持ったがそれは配る事なく、コピーした楽譜だけを部員に手渡した。部員たちは彼女の動きに従って楽譜を貰い、キーボードと向かいつつ音を探っていった。
はるかが2年生に合唱の練習をしている間、音楽室に置かれているアップライトピアノの前で頬杖をついてその様子を眺めている2年生がいた。
「いやぁ、我が姉妹はしっかりものだなぁ、あたしにはそんな気概は無いからここでぐーたらと…」
「はぁい、いちるちゃーん?」
「おっふ…」
ピアノにもたれてひと眠りしようとした瞬間、いつものニコニコ顔で3年生のピアニスト、大中朝陽がいちるの眠りを妨げた。
「いちるちゃんは、ピアノのお稽古しましょうね~」
「うあー、いくら大中先輩の命令でも、ワガハイには睡眠と言う重要な任務が~…」
そう言ってじたばたするいちるの前に、朝陽は自分が演奏用に使っている伴奏譜を立てた。
「はーい、それじゃあその眠い目をこすって、伴奏の楽譜をよーく見るんだよ~」
「やーめーろーーーー」
朝陽の優しい声でいちるは一文字に結んでいた目を開いて、迂闊にも伴奏譜を視界にとらえる。すると今までけだるげだったいちるは両眼をしっかりと開いて伴奏譜を見定める。そして小さな呼吸をすると、アップライトピアノをその指で華麗に弾き鳴らした。伴奏譜は次々と小節を進めていき、時折息を吐くように小声で何かを囁きながら伴奏を織り上げていった。
「フォルテ…響きを弱めて…フォルテシモ、転調で変ホ長調…アッチェレランドから…上行型、ソプラノの最高音、スフォルツァンド…余計なフェルマータはしない」
まだ伴奏を見始めて1分もしていないのに、いちるは次々と楽譜通りの伴奏をこなしていく。時折音を確認するように引き直しつつ、また時折伴奏譜を自分でめくって次のページに進みながら、最後まで一通り演奏し終えた。そして、両手の6本の指で最後の音を演奏し終えたいちるは、鍵盤から指を話した瞬間、先ほどまでとはうって変わって目を一文字に結んで溶けるようにピアノにもたれかかった。
「…はぁ~…またつまらぬものを弾いてしまったぁ…大中先輩のおに~」
「お疲れさま、いちるちゃん。それじゃあ明後日までにこれ完璧に演奏できるように練習しておいてね~」
ずるずると溶けた状態で朝陽に抗議するいちるだったが、そんな抗議の声など露ほども聞かずに、朝陽はいちるに伴奏の〆切だけを告げて去っていった。いちるの前には、開かれた伴奏譜だけが残り、面倒だと思いつつもいちるはその伴奏を薄目で見ながら、また小声で色々な言葉をつぶやいた。
「うーん…フォルティシモが強すぎたかなぁ、歌にぶつかりそうだし…クレッシェンドの置き方は呼吸みたいだ、後は歌いだしのピアノはもっと柔らかく、さっき躓いたのは…長七?それに中盤のピアノの三度を保った複雑な上行形…ここは身体に沁みこませて」
「いちる?伴奏は出来そう?」
ピアノと伴奏譜に向かってぶつぶつとつぶやいていたいちるに、はるかが声をかける。いちるははるかの声でハッと我に返り、さっきまでの真剣さが嘘のようにだらだらとはるかに返事をした。
「いやぁ~なかなか難しいね~、不肖この三枡いちるにできる事はもしかしたらないかも~」
「あんたがそうやってごまかすときは、決まって明日には伴奏が出来るようになってるのよね。まぁ難しそうじゃなくてよかったわ」
「うえ~、はるかが数少ないかわいい姉妹の言う事を信用してくれないよぉ…」
「自分でかわいいって言うな」
日常とばかりにはるかといちるはそんな会話を交わす。2・3年生の合唱部員たちは、いちるが伴奏を弾き始めた頃から彼女たちの会話に注目しっぱなしだった。2年生は慣れているとして、3年生も彼女が演奏を始めた時には息をのんだ。
「やっぱり不思議な子よね、あのピアノの後輩ちゃん」
「ホント、楽譜を読んだ瞬間ピアノを弾き始めるから毎回びっくりするのよね」
「いつでも完璧に伴奏して見せる朝陽にも驚くけど、あれもあれで見ものよね」
いちるの伴奏を聞いていた3年生の先輩たちが、口々にいちるを評する。いちるの演奏が唐突に始まる事も含めて、彼女の演奏技術は3年生にもよく知られている。
「はいはい、後輩に目を奪われてないで、早く歌を覚えなさい」
いちるのピアノに注目していた3年生たちが、部長の岬にたしなめられて自分たちの練習に戻る。そして各学年・各パートの生徒たちは早い放課後から夜の7時まで練習をして、部員のほぼ全員が自分の歌うべきパートの歌をほぼ暗記した所で今日の練習は解散になった。
………
「いやぁ、今日も働いた働いた~」
夕焼けが鮮やかな帰り道、三枡姉妹は三善町駅から降りて、自分の家まで歩き始めた。駅を出てすぐに、いちるは肩を抱えながらグルグル回して、さも働ききったかのようにそんな言葉をつぶやいた。
「そもそも学校も始まりたてだし、いちるは今日ピアノしか触ってないじゃない」
「しつれいなー、伴奏なんてカロリーの高い事をさせられて、いちるは疲労困憊だよぉ」
気だるげに話をしていたいちるに、はるかがため息をついて返す。
「やっと自分の事名前で読んだわね」
はるかは、事ある毎に自分の一人称をコロコロと買えるいちるが自分を名前で呼んだのを確認してそう言った。
「全く、自分を名前で呼ぶのが幼稚で恥ずかしいからって世の中にある一人称をとっかえひっかえするなんて…」
「あー、そう言うとっぷしーくれっとをそんな大きな声で言うんじゃないぞはるかよー、それにいちるはいちるを名前で呼ぶ事を恥ずかしがってなんか…なんか…」
「ほらどうしたのよ?堂々と言って見なさいってば」
はるかに詰められて、どうにか口を動かして恥ずかしがってなんかないと言おうとするいちる。しかし、身体では一言口にするだけと分かっていても、彼女の心はそれを言葉にしないようにブレーキを掛ける。
「ぐぅ~はるかの策略に屈したくはないが…今日の所はいちるがいちるって言う事を恥ずかしがっているという事で裁判は終了だ…」
「何が裁判よ」
顔は気だるげだが、それでも悔しさは言葉に現れており、いちるの口元は波線の様な複雑な形をして遺憾の意を表していた。
「とりあえず、明日から練習も忙しくなるから、早く帰るわよ」
「へいへい」
―――2
「それと、朝陽は知ってのとおりとして。その隣にいるのは今年の新入生でクラスAの成田義隆君。訳あって今年の生徒会の臨時の人員としてお手伝いをしてもらってるの。今日は生徒会活動の見学ということで少し練習を見学するから、そのつもりでよろしく」
――はいっ!
入学式から少しして、この新しい合唱部にも1年生の見学が入ってきた。ここでの見学は実質加入であり、先輩たちはそこに並ぶ初々しい後輩たちに興味の目線を示していた。ただもちろん、いつもの様子でマイペースに生きる先輩も一人いて…
「あー、新人さん達は可愛いねぇ」
「いちる。シャキッとしてよ」
合唱のひな壇に二人並び立つはるかといちる。いちるは本来歌担当ではないが、見学ということで形式的に立たされている。しかし、日頃の姿勢の悪さはすぐに治ることもなく、いちるはフニャフニャと列の中でたゆたっていた。
「じゃあこのあとすぐ歌うからよろしくね」
そんな部長の声でそれぞれの練習スペースに移動する2・3年生。はるかも2年生を取りまとめて、歌う曲のピッチや表現の再確認を行う。一方でいちるは少し居心地の悪さを感じていた。
「う〜む…」
いちるが練習で使うピアノは、基本的に教室の後ろに配置されている。本来なら歌に集中する生徒を手放しで眺めてられるポジションなのだが、今日はその場所に1年生が並んでおり、さらにその通り道には同じクラスの写真担当である杉山文人が構えていた。
「ん?いちるはこんな1年生側でどうしたんだい?」
「んやぁ…ほら、アップライトピアノを使って練習しておきたいなあって思ってて…ってあと、おもむろにいちるにカメラを向けるんじゃあない」
いちるからの抗議もどこ吹く風で、文人は目線を合わせようとしないいちるにシャッターを切った。
「いやぁ、後輩相手にこんなに困惑してるいちるを見るのは珍しいからね」
文人の屈託のない笑顔に、いちるは頬を膨らませて反論をする。
「このぉ…ちょっと音楽をかじってるからって生意気な…ピアノならいちるも負けないんだが?」
「それなら先輩に混じってグランドピアノで練習をすればいいじゃないか。悪いけど部長には念を押されててね、サボり魔のピアニストに目を配っておけ。ってさ」
文人はそう言って、いちるをひな壇側のピアノに行くように促す。そこでは先輩である朝陽が楽譜と向き合いながらピアノ伴奏を確認している。
「んおぉ、小狡い切り返しばっかりしおってからに…ちょっといちるが構ってやってるからって、チョーシに乗ってると後で怖いぞー」
いちるがそう言って文人に指をビシッと突きつける。しかし文人はニコニコと笑顔で彼女のそんな様子を見て、素早くカメラのシャッターを複数回切った。
「うおっ!?ちょい…そんなにいち…こらぁ!横に回っ…ええい静まれぇ!撮るなっ!いちるばっかり撮るなぁっ!」
いちると文人のそんなやり取りに、グランドピアノのそばでいちるの練習を待っていた朝陽はどこか満たされたような笑顔を見せ、歌の打ち合わせをしていたはるかは頭を抱え、そして部長の朝陽は「また始まった…」とばかりに3年の面々と顔を突き合わせた。
「この痴話喧嘩も、もはや風物詩だわ…」
「部長、止めなくていいんですか?」
「止めたとしても、いちるちゃんはそれはそれで不機嫌になるから…それにもう彼女も伴奏は出来るだろうし」
3年生部員との会話で、岬はやや諦めたような口調でそう言った。実際岬は、いちると文人のそんなやり取りをよく見かけており、最初はたしなめていたが、それよりも少し痴話喧嘩をさせてたくらいの方が演奏が整うことに気がついてからは、一言添えるだけにしている。
「おーい、いちるちゃーん」
「うなっ…!?」
そろそろ発散できただろうというタイミングに、岬はいちるを呼び出す。すでに文人は満足そうで、いちるは疲労困憊していた。
「は、はい…なんでしょうか、部長?」
「せっかく新入生も来てることだし、このあとの伴奏を朝陽と交互にやってちょうだい。もう頭に入ってるのよね?いいとこ見せないと」
「えぇ〜…」
「出来る…わよね?」
いちるが一瞬疲れ果てたように拒否しようとした時、岬は正面を向いていちるに丁寧に聞き返した。さすがにそれが最後通牒だと勘づいたいちるは、そのままシュンと丸まって、静かに了承することしかできなかった。
「………あい」
―――3
「それじゃ私は、生徒会の方に戻らせてもらうわね。夜7時までで借りてるから練習と後片付けよろしくね」
――はーい
1年生の見学も終わり、ようやく次の動きに取り掛かると言ったある日の事。
岬の指示に、部員の返事が集まる。2年生の学年を取りまとめていたはるかは、そこから先の練習について指示を出す。
「じゃあ今日言ってたように、アーティキュレーションをよく把握しておくこと。あとは部長の指揮を見ながら、音の奥行きを意識すること。パートが少ないからその分立体感を強く意識しないといけないと言うことで」
はるかの指示で、2年生も少し気持ちを引き締めてそこからの動きに入っていく。何人かの個人レッスン生を除いて多くのクラスE生徒が残り、はるかといちるもまた、その部員たちの一人として残っていた。
「お疲れ様、いちるちゃん」
「ふへぁ…頭から煙が…」
「いちるちゃんはピアノを弾いてるときは凛々しいのよね。普段からもう少し背筋を伸ばしてもいいのに」
いちるへの伴奏の指導を終えた朝陽が、目をバツ印にして突っ伏したいちるに労いの言葉をかける。
「やぁほら、能ある鷹は爪が辛いって言うじゃないですか。わっちもスパイシーな方なんで…」
「ふふー、能ある鷹は爪を隠すだよー。まあ隠してくれないほうが教え甲斐があるんだけどねー」
いちるの、本気とも冗談ともつかない言葉に、朝陽はいつもの笑顔で指摘を変えす。そしてすぐさまいちるの目の前に楽譜を広げて、いちるに楽譜を読むように促す。
「うやぁぇ…まだ伴奏を読むんですかあ…?」
「もちろん。私もずっとここにはいられないから、いちるちゃんが早くこの部活を背負えるように、いっぱい覚えてもらわなきゃ」
「こんな貧弱なあたいが背負ったらもうボキボキのボキですよぅ…」
誤魔化そうとするいちるの言葉を交わして、朝陽はいちるの目に楽譜を映そうとする。当然抵抗もできないいちるは泣く泣くその楽譜を読み、また数分もせずにその伴奏を演奏し始めた。
一方ではるかも、3年生に混じりながら歌の練習をする。
「〜♪」
「はるかちゃん、もっとピアニッシモから入れる?あと弱くすると言ってもピッチが落ちるような弱め方はしないでね」
「はい」
3年生の学年リーダーの指摘を受けながら、はるかは同級生に教えられることを吸収しようとその指摘を前向きに受け取る。はるかが入部してからずっと続いている練習方法で、はるかが前のめりに練習に参加する事で、3年生も気持ちが引き締まる。
「そう、長いクレッシェンドで飛び出さないように…次にフォルテが待ってるから余計な力は入れないこと、アルトの和音を忘れないで。ストップ、呼吸が長さに合ってないから最後に息切れしてる。そこの部分、3年は括弧書きのブレスなしで行くからはるかちゃんも他の2年生もそこに注意しておいてね」
「はい、ありがとうございます」
3年生と歌のすり合わせをしつつ、自分の歌の研究もする。はるかは3年からのいろいろな指摘を聞いては、覚えてるうちに専用のノートに書き残して、次の練習やすぐ後の2年の練習に生かすようにしている。そして、はるかが3年の中から離れて2年に戻り、朝陽に付き合わされていたいちるに声を掛ける。
「大中先輩、ちょっといちる借りてもいいですか?」
「なぬっ、はるか…拙者を助けてくれるのか?」
「なわけないでしょ。春コンの課題曲の調整に付き合ってちょうだい」
「ですよね…へへ、朝陽先輩、いいですか?」
朝陽のレッスンから解放されたと思ったら今度は伴奏役として呼び出されて、いちるは、ぬか喜びと同時に肩をガックリと落とした。そして、予定の変更を朝陽に確認すると!朝陽は優しく許可を出した。
「ふふー、仕方ないなぁ、明日ちゃんとこの伴奏を確認しておいてね」
「あい!」
朝陽の指示に元気よく返事をして、いちるはようやく解放されたとばかりにはるかについていく。はるかはというと、複雑な表情でいちるを見て、ニコニコのいちるを同級生にどう説明するべきか考えていた。
「はいみんな、いちる連れてきたからちょっと歌の確認をするわよ。いちる、転調から帰ってきた後の伴奏できる?」
「おうよ。確か…番号Gの所からだよな。ゆっくりするかい?」
「普通の速さで行きましょう。指揮は振るから任せてちょうだい」
「はいよー」
二人はそんなやり取りして、集合した2年生たちは、はるかの指揮といちるの伴奏で歌を歌い始める。途中からとはいえ合唱部、指揮を見てすぐに歌に入り、ソプラノとアルトは複雑なハーモニーを奏でる。そして、始まった場所が曲の終わりであり、はるかといちるは一瞬アイコンタクトをして、そのまま最後まで引くかどうかを判断する。結果的に曲は最後まで演奏され、いちるが伴奏を終えてから、はるかは一息つく。
「ありがとう。3年生から言われたのは転調から戻ってすぐのフレーズで、少しずつ盛り上がりながらクレッシェンドしていく場面、ソプラノにかっこ書きのブレス記号があるんだけど、3年生はこの息継ぎをしないって言われたのよ」
先輩たちとの会話で出た指摘を、自分と共に歌うソプラノの2年生に伝える。話を受けたソプラノの部員たちは口々に話をして、色々な表情で反応をする。
――私は大丈夫。
――私はちょっと無理かも…さすがに息が続かなさすぎるよ
――でも先輩たちに合わせないと…
「とりあえず、強弱で調整しながらどうにか繋げられるように練習していきましょ。いちる、しばらくそこの伴奏お願いね」
「へーい、一回500円なー」
「ちょっと現実的な値段を言うな」
こうして7時手前まで、3年生の片付けの合図があるまで、2年生は同じ練習をひたすら続けることになった、いちるは気だるそうにしながらも、楽譜を目にすると目を見開いて伴奏を弾き始めて、その的確な演奏で歌をサポートする。そして、時折休憩をはさみながら、今日の合唱部の練習は終了していった。
―――4
新学期から合唱詰めだった合唱部。ただしそれでも休日は与えられており。担任からのゴールデンウィークの話はクラスEにも平等に訪れる。
「明日からゴールデンウィーク期間に入りますが、そのすぐ後には、楽典と声楽のテストもあります。2年生として恥ずかしくないようにこの休日を無駄なく過ごすようにしてください。では今日はここまで」
女性の担任が合図をすると、三枡はるかがクラス委員として号令をする。
「起立、気を付け、礼」
はるかの号令で生徒と担任は挨拶をして、教室は長い休みに入る気分の生徒たちの声で賑わった。そして、クラスがゴールデンウィークの雰囲気を楽しみにしている所に、教室の出入り口をノックする音が飛び込んできた。
「お疲れさま、2年生も終礼が終わったでしょ?合唱部は一旦音楽室に来てもらってもいいかしら?」
声の主は、合唱部の部長"吉岡岬"だった。そして岬の鶴の一声で合唱部の生徒はぞろぞろと音楽室に移動する。クラス委員も務めているはるかは教室に残る生徒がいないように移動を確認していたが、生徒の波に目もくれず、春の陽気をいっぱいにアビですやすやと眠っている自分の姉妹を見つけてしまった。
「んにゃぁ…」
「全く…いちるっ!部長がお呼びだから!早く…おーきーなーさーいっ!」
机を枕にして幸せそうに眠っていたいちるを、はるかは渾身の力で引きはがす。ガムテープのように張り付いていたいちるをようやく引きはがすと、いちるはそのまましりもちをついて床に転がった。
「あだっ!?おいおいなんだよ~せっかく長い休みに入れるからぐうたらを満喫しようとしてたのにぃ」
「部長が呼んでるのよ。それにそもそも帰り着いてないうちから寝るんじゃないの」
「あー?部長が呼んでる?仕方ないなぁ、部長の命令を無視したら後から怖いし、行くとするかぁ」
部長の命令と言う言葉にいちるは聞き分けよく帰り支度をして、背筋は伸ばさないものの音楽室まで素直に歩いて行った。
「聞き分けがいいじゃないの、いつもこうだと私も助かるんだけど?」
「いやぁ…だって部長の命令だし…何より部長よりも大中先輩の方が…いちるは恐れ多いので」
「あー」
いちるが素直についてきた理由を聞いて、はるかはうっすらと納得した。いちるに取って大中朝陽はピアノの先輩で、いちるの事をよく知っている人物だ。直接かかわりがあるわけではないが、はるかもいちるが大中朝陽に連れられて悲しい顔で練習している様子はちょくちょく見かけている。双子の片方である三枡いちるにとって、部長もさることながら、関わりの深い朝陽は、こうして素直に従うに値する存在なのだろうとはるかはうっすら理解した。
………
「ゴールデンウィーク中なんだけど、私がちょっと生徒会側で忙しくなるから最初の内は練習に立ち寄ることが出来ないと思う。それと朝陽も同じく生徒会で忙しくなるから、練習がしにくくなる事はあらかじめ連絡しておくからね」
部長の岬による連絡は、連休中の練習が部長不在で進行するかもしれないという連絡だった。鈴之原高校は祝日にも鍵を開けることが出来る。教室への出入りは規制されるが、合唱部や幾つかの部活動のために、管理を担当する先生が配置されており、特に合唱部は音楽室の利用は自由にできるようになっている。
部長からの連絡に、最初に前向きな反応を示したのは、ここまでけだるそうに話を聞いていた三枡いちるだった。
「大中先輩が…不在…へへ」
いちるがニヤニヤとだらけた笑みを浮かべていた主な理由は、大中朝陽が生徒会の仕事で不在になるという点。普段から無理難題(※いちる談)を押し付けてくる朝陽が不在であるという事は、いちるにとっては無茶ぶりをする相手がいないという事を意味している。練習がある事自体は残念だが、監視の目が無いのであればそれも我慢は出来るというものだ。
そう、安易に考えていた。
「あぁそれと、朝陽がいない間の伴奏は2年の三枡いちるちゃんが務める事になるから。これは部長命令よ」
「………あ」
いちるは失念していた。
この合唱部でメインの伴奏を任せられているのが、大中朝陽と自分だけだという事に。
つまり、朝陽が不在なら、自動的にいちる一人で全体リハーサルの伴奏を背負わなければならない。いちるは部長の命令を聞いて、ようやく自分が置かれた立場に気が付いたのだ。
「あのー…」
「ん?どうしたの、いちるちゃん」
「あ、あの…大中先輩はいつから合流できるんでしょうか…?」
「そうね…今の所明日からの4連休は合流できないと思うわよ。だからその間はいちるちゃんの腕の見せ所になるわね」
「………あい」
岬の返答に、何か自分が楽をできる手段がないかと思い、頭を巡らせてみたが、変に抗議をしても、今はここに居ない朝陽から後で反撃を食らうかもしれないという事を考えて、いちるはここでもまた素直に部長の指示に従う事にして、今日の練習が始まった。
「残念だったね、いちる」
「うっさい、写真小僧めぇ…」
練習の始め、先ほどの話を聞いていた文人が、いつもの笑顔でいちるに声をかける。もちろん文人がいちるを労うつもりではないのは、当のいちるにもわかっており、いちるも返す言葉に覇気がなかった。
「そんなに落ち込まなくても"休日の練習は昼まで"って決まってるんだろう?一日を奪われるわけでもないんだし、そんなにテンション下げなくても…」
「そりゃそぉだが…」
いちるは、目の前の飄々とした男に何かいい訳の一つでも行ってやろうかと考えたが、先ほどの話が頭をグルグルと回っていて、いつもの様な悪態が思い浮ばなかった。しかし、さすがに張り合いがない彼女を見て、文人は少し考えてから一つの提案をした。
「そう言えば、いちるはこの春に公開されたアニメ映画を楽しみにしてたよね?」
「そう、だな。”ブルーアカデミー”シリーズの映画だ。今回は主人公の師匠であるティーチャーと敵の大ボスのプロフェッサーが直接対決をする原作の3つの大きな戦いの1回目で、主人公がティーチャーから預かった”栄光のブルー”がカギになるドキドキの話の映画化だ。アニメの時のティーチャーとプロフェッサーの声優が兄弟でアニメでそれが分かってからの演出が神がかってて、あと…」
「はいはい全部言おうとする勢いのあらすじをありがとう。それなら、午前中で練習が終わるどこかの日にその映画を見に行こうか。僕が映画代は持つし、時間はいちるに任せるよ。もちろん練習をきちんとこなしたら…だけどね」
文人は、温度が上がっていくいちるの解説を一旦遮り、いちるに映画のご褒美の話をした。文人が条件の話をして、それを噛みしめて理解したいちるは、文人をまんまるとした目で見る。そして、何も言わずにカメラを持っていた文人の手を取って、強い口調で返した。
「………行くっ!」
「じゃあこの休日中の練習は頑張っていこうか。僕は部活動の写真を撮る事しかできないけど、応援はするからさ」
文人の言葉を皮切りに、いちるはすぐさまグランドピアノの前まで歩いていき、予定していた楽譜に目を通して、合唱隊の練習の数倍の速度で伴奏を仕上げていく。そして、ようやく練習をやる気になったいちるを満足そうに見る文人に、はるかから声がかかる。
「本当にいいの?いちるを焚きつける為にそんな約束までして…」
「大丈夫だよ、定期的に依頼があって今は懐に余裕もあるから。それで合唱部の練習が上手くいくんなら安いものだよ」
「わかったわ。恩に着るわね、文人くん」
はるかは、いちるのやる気を高めるために無理をしているのではないかと文人に謝辞を告げて、練習に戻っていった。そして、ピアノに燃えているいちると、カメラを構えて写真の撮れる場所を歩き回る文人の関係性に、3年生が練習半分で口々に言い合う。
「いやぁ、さすがいちるちゃんを手なずける技術は一級品ね」
「いつもならアップライトに糊で張り付けたみたいに動かないのにね」
「いちるちゃんも、杉山君にだけは丸め込まれてばかりだものね」
それぞれが文人といちるに対する評価を話し合う。文人のこうした行動は、今の2年生の活動にとっては主にプラスに働いており、全体の伴奏をすることもあるいちるのモチベーションアップは3年生の練習にもきちんと返ってくる。しかし、こうした二人のやり取りを見るたびに、3年生も2年生も二人に対して一つの考えを持つことになる。
―――でも、二人って付き合ってないんだよなぁ…
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます