第一章「4月」
第1話「入学、それぞれの始まり」
桜を纏い、学門を通る新たな顔ぶれを歓迎する季節。小高い丘の、木々に囲まれた学校も、その例に漏れず新入生という希望を迎え入れる。
―――我が校は、開校からいよいよ五十年という節目を迎えます。その記念すべき年に、この鈴之原高校の門をくぐり、希望に満ちた新たな生活に漕ぎ出す皆様を、
壇上では、入学式特有の門出を祝う祝辞が述べられ、新入生はその言葉にそれぞれの思いをくみ取った。
あるものは、偶然にやって来た学校の節目に少しの幸運を見出し
あるものは、その言葉の重みに顔を引き締め
あるものは、記念という意味に楽しみを隠し切れず
あるものは、それら全ての表情を楽しそうに眺める。
そしてある人は、その意味を知っていながら、ここを選んだことに疑問する。
校長先生の祝辞が終わり、式次第は生徒に順番を譲った。そして、一人の女生徒が壇上に立ち、前を向くや否や、並べられたパイプ椅子に座っていた生徒たちの誰もが、その出で立ちに息を飲んだ。
厳しくもしっかりと前を見据える瞳、至る所に隙がない制服、濃紺の長い髪。そして何より一部の生徒は、彼女の胸元に光るものに目を奪われた。
光りかがやく、校章を象ったバッジ。この高校でとある生徒たちにだけ渡される、この高校の特異な栄光だ。
「…皆さん、ご入学おめでとうございます。我が校を知り、ここに至るそれぞれの思いを持ってこの場にいらっしゃることを、私たち在校生は歓迎します。先に芳峰校長が仰ったように、この私立
マイクを通しているにも関わらず、さも直接話しかけられているかのような力強い声、生徒会長と名乗った彼女の、凛とした言葉は、退屈そうにしていた生徒をも惹き付けて、その場にいた人たちを釘付けにした。
「………そして、ようこそ鈴之原高校へ。生徒会長…そして、誇りある合唱部の部長として、皆さんの入学を歓迎いたします。生徒代表、3年Eクラス"
一通りのあいさつを終えた生徒会長は祝辞を折りたたんで、堂々と一礼をする。凛々しいその姿と一礼に、何処からともなく拍手が沸いて、新入生たちは口々に彼女に羨望を向け、並んでいた教師たちも彼女の振る舞いに感服していた。
………
(…あぁ、早く終わんないかなぁ)
堂々とした生徒代表のあいさつを終えた岬。席に着いて入学式の流れを眺めながら、ぼんやりと終わりを考える。新しく自分が抱えることになるであろう生徒を確認するフリをして、入学式が終わるまでを暇そうに待っていた。
(とりあえず次は校歌ね。朝陽は…まぁ大丈夫でしょうね)
不意に思いついて、自分の着いている席から背中を向いて上手袖を覗く、そこには複数の教員や男子生徒がピアノの前に準備しており、そのピアノと共に用意されている椅子に一人、岬とは違う雰囲気を持った、長い髪を結んだ少女が待っていた。彼女は岬がこちらを向いたことに気づくと、岬に向かって「にへへ」と笑いを浮かべて手を振る。そんな彼女の様子につられたピアノの周りの男子生徒が岬に向かって各々自信ありげな仕草を見せる。
そんな男子生徒を、周りで構えていた教師が静かに叱っていく。男子と教師の静かなやり取りを、ピアノ椅子に座っていた彼女も笑い、それを眺めていた岬も笑う。そして
「それでは、これより校歌斉唱を行います。準備がありますので生徒の皆さんはしばらくお待ちください」
式進行の生徒の一声で、岬は立ち上がり、舞台袖に向かって声をかけ始めた。
「それじゃあ!全員準備お願いっ!!」
彼女のはきはきとした声が舞台に響き、袖に控えていた男子生徒や教師たちがひな壇を組み上げて、多くの女子生徒が袖から現れる。入学式を行うための椅子や机は片づけられ、完成したひな壇に一瞬にして女子生徒が立ち並ぶ。それはまさに歌を歌うための合唱隊の準備だ。
ひな壇の完成と共に、先ほど上手袖で準備をしていたピアノが、男子生徒と教師の手でステージ上に現れる。被せていたピアノカバーも取られ、滑らかな黒を身にまとったピアノ。とても学校に置くのが勿体なく感じる、胴の長いコンサートグランドが運び込まれ、ステージはそれだけで発表会のような雰囲気に包まれる。そして、舞台上の準備がすべて整ったところで、進行役の生徒が観客側…もとい、新入生側へ呼びかける。
「新入生の皆さん、保護者の皆様、並びに先生方もご起立ください」
そう促され、教師も保護者もそれを疑うことなく腰を上げる。一方新入生は、自分たちが歌うのかどうか、何処か不安げながらも渋々と立ち上がる。そして、全ての準備が完了したところで、生徒会長である岬が自分の抱える部員たちの前に立ち、会場の静まりを待った。
「…さて、それじゃあいつも通り、歌いましょうかみんな?」
壇上で、緊張しつつも胸を張って待っている生徒たちに岬は声をかける。彼女の一言に、前を見ることしか出来ていなかった生徒も少し安堵の表情を浮かべる。そして講堂が静まり返り、彼女たちにとって最高の舞台が完成した時、中央に構えていた岬は両手を上げて全員の緊張を高める。荘厳なコンサートグランドに構える柔和な顔をした少女も、岬の手の動きに注目している。そして、柔らかに手を振り下ろして、始まりを告げるかのように岬の手の一振りが始まると、ピアノとピアノを弾く少女は一気に音を紡ぎ始めた。
―――
若さと歌声 春の風に乗せ
健やかに生きよ 我が母校の子らよ
鈴之原の歌 声高く響け
連なる山を越え 豊かに響けよ
明るい歌声 青空を渡り
のびやかに届け 我が母校の歌よ
鈴之原の歌 声高く響け
遥かな海に向けて 雄々しく響けよ
―――新版「鈴之原高校校歌」
それは、一つの完成された作品のような歌に聞こえた。メロディもピアノも穏やかでしっかりとしており、校歌らしい旋律が講堂の時間を掴んでいく。そんな音楽に、舞台上の生徒たちは自分の持っている全てを乗せて歌を編んでいく。仰々しくなく、時を刻むように両手を振るって合唱の指揮をとる岬。そして彼女を傍目に見て、見るべき場所を講堂の一番奥…中央入り口に集中させて、声の一つも余所へ零さないように音を奏でる生徒たち。その組み合わせが、ただの校歌を、文学のように、そして舞台演劇のように変化させ、新入生の…特に今後ひな壇に立つ予定である新入生達の心に、私立鈴之原高等学校という場所を刻み込むかのように最後まで歌い上げた。
そして、校歌の斉唱が終わったところで、拍手が湧くより早く、指揮を振るっていた岬がマイクを取り、新入生に向き直る。
「改めて、ようこそ鈴之原高等学校へ!!」
はっきりと伝わる歓迎の言葉に、校歌の直後にしそびれた拍手が何倍にも濃縮されて講堂中にあふれかえった。こうして、鈴之原高校の入学式は幕を下ろして、観客だった新入生たちの、高校生活が幕を開けた。
………
「あ~………疲れたぁ~…」
入学式が終わり、講堂の片づけが全て終了した所で、舞台袖でカバーの掛けられたピアノにもたれかかってグダグダとしている岬が、投げ出したような声でそう言った。
「はい、岬ちゃんお疲れ様」
「もー、部長で生徒会長だからって色々押し付けすぎぃ…私だってただの人間よ。なんで入学式の計画・人員分配・資料の作成・式の打ち合わせ…あぁもう挙げたらきりがないわっ!」
不貞腐れた表情で話す岬に、先ほどピアノを演奏していた少女が返事をする。
「でも、岬ちゃんは頼み事を全部引き受けて、全部こなしちゃうからね」
「だって~…言われたらさ、体が勝手にね?はぁ…そろそろ自由な時間が欲しい…」
「でも、次はクラスEの新入生の顔合わせだよね?今度は”歌いの森”でしょ?」
少女の一言に、ピアノにふさぎ込んでいた岬は意味もなく左足をパタパタと動かして唸り声を上げた。
「…うぅ~………ねぇ朝陽。もう私顔出さなくてもいいでしょ?あれだけ一杯注目されたんだし」
「甘えてもだーめ。岬ちゃんは生徒会長で部長なんだから」
「え~…朝陽が厳しい~………」
不満げな表情を向ける岬。一方その視線を受けた朝陽と呼ばれた少女は、岬の心境を熟知したうえで彼女にあえてノーを告げる。
生徒会長”
「それに、今年は色々大変で、忙しいのは私も一緒なんだよ?今年の春風祭は、テレビもたくさん来るとかで、間に入ってる私も今はピアノを練習する暇がないんだから」
「う~…朝陽がそういうなら、私も頑張る~…」
結局、ピアノに突っ伏したまま朝陽の言葉に納得する岬。誰もいないときの生徒会長は、基本的にこんな感じである。
吉岡 岬と大中 朝陽は中学の最初からの付き合いで、初めは中学時代の合唱部で言葉を交わしたのがきっかけだった。岬の中学時代は実に快活で、今ほど表裏がはっきりしていることはなく、そのハキハキとした姿に他の生徒も憧れ、彼女も率先して合唱部の仕事を引き受けては、それをこなしていった。
一方の朝陽は、最初から伴奏として合唱部に入部し、中学時代の3年間はピアノの前からほとんど離れることはなく、伴奏一辺倒で来ていた。彼女がピアノを離れて合唱に参加するのは、音合わせ練習の時か、卒業を控えて次の伴奏者に引き継いだ3年生の秋程度の話だった。
そんな朝陽のそばには、中学の入部早々に学年の合唱部をまとめていた岬の姿があり、岬も朝陽の伴奏の能力を理解していた。岬にとって、任せるべきところを迷いなく任せられる相手が朝陽であり、朝陽もそんな彼女の気持ちを汲み取って応える。二人は3年間でお互いに信頼を積み重ねたのだ。
そして、二人が3年生として合唱コンクールに参加する頃、やはり今と同じ生徒会長兼合唱部部長という立ち位置で山積みの仕事に追われていた岬は、持ち前の世話焼きがピークに達してしまい、その反動から朝陽の前限定でこうしてだらだらとした裏の岬を見せるようになっていった。
「あ~…もうほんっとにお休みが欲しいぃ…ねぇ朝陽、ちょっとだけ膝貸して~………」
「はいはい。ちゃんと返してね~」
「じゃあ帰りにアイスおごる~…」
ピアノ用の椅子に座る朝陽の膝に正面から顔を埋める岬。そんな岬の頭をポンポンと優しく叩いて撫でてあげる朝陽。今日一日の仕事が終わった二人は、先生に呼ばれるまで講堂の舞台袖でそうやって春のうららを過ごしていった。
………
伝統ある合唱部の校歌斉唱を聞きながら、その完成度に目を丸くする生徒たち、ここに至るまで始終ぼんやりしていた青年も、その校歌斉唱には目を奪われていた。そして、校歌斉唱が終わるや否や、大多数と同じように満開の拍手に自分も参加していた。そして、自分たちに向けられた式典の全てが終了して、彼ら新入生は自分の教室へと案内されていく。
「クラスAか」
講堂を抜けて、1年生用の校舎に入っていくと、一階の下足室にホワイトボードが用意されており、新入生の名前が教室ごとに列挙されていた。青年は自分のクラスを確認して、そのまま何を思うこともなくクラスを進んでいく。道ゆく同じ新入生と特に会話を交わすこともなく彼は二階の階段側の教室、1年クラスAという看板の付けられている教室へとドアを引いて入っていった。
教室の中には、すでに男女十数人が席についており、教卓側の黒板を見ると、クラスの生徒の名前と座るべき席がこれまた張り紙で掲示されていた。
「俺は…最後尾か」
張り紙の一番低い場所に書いてあった自分の名前を確認して、所々に座っている生徒のそばを通り過ぎながら最後尾の席に着く。
一番後ろから眺める景色は見晴らしがよく、目もそこまで悪くない彼にとっては色々な意味でちょうどいい場所だった。背中に人を感じなくて済む、堂々と眠ることができる。そして、好きなだけ物思いにふけることが出来る…そんなことを朧気に考えていると、自分の左隣に一人の生徒が座ろうとする。
「隣、いいですか?」
「どう、ぞ………」
言葉を先に口にして隣を見かけると、青年はそこに立っていた人物に目を奪われた。
透き通るような肌と優しい碧緑色の長い髪、そして輝くような黄色の瞳がどこか儚げな表情を浮かべて青年を見つめていた。彼女のその姿に目を奪われたのは彼だけではなく、その場に居合わせていた生徒たちは彼女をじっと見つめていた。
「…なにか?」
鈴を揺らすような声が青年にかけられて、青年はその声にまた心を揺さぶられた。そして、自分が声をかけられているという事に少し遅れて気づいて、慌てて何かを返さなければと返事をする。
「あぁいや、どうぞよろしく」
「あ、はい…?」
青年のしどろもどろな返事に、彼女は少し訝し気に相槌を打った。そしてそんな二人の出会いからそれほど時間も経たず、彼らの居るクラスには新入生が出揃った。
全員が席に着いた教室で、場の空気を読むように静かになる生徒たち。そして青年は、黒板に張られた紙を見ながら自分の隣に座った彼女の名前を目で追ってその名前を確認する。
”畑中 三美”
「………さん、び?」
そう記された隣の少女の名前であろうものをポツリと呟く。そして、そんなつぶやいた名前と共に隣の彼女を見て、青年は少し驚いた。
「っ………」
青年が見つめていた彼女は、返すように青年を見つめていた。しかし、憧れとかそういったプラスの表情には到底見えない、ジトッと睨むようにこちらを見つめていたのだ。思わぬ彼女の視線に、教室の静けさ以上に緊張感が増してきてどうすればいいか戸惑う。そして、しばらく彼女に見られていると思った時、彼ら彼女らの教室に、制服ではない男性が入ってきた。
「さーて、全員揃ってるなー?」
上下整ったスーツとネクタイという出で立ちに身を包んだ男性は、教卓の前に立って席についている新入生たちを一瞥する。そして、いそいそと掲示されていた席順の模造紙を黒板から剥がして丸める。すっきりと何もなくなった黒板に、チョークを当てつけて、カリカリと縦書きで文字を連ねていく。
「えー…ようこそ鈴之原高校へ。この1年クラスAの担任を務めることになった
そう言って、やや乱雑に書かれた”中田 成明”という名前。荒いなと感じられる反面、縦書きの線がしっかりしている様子は、中田先生の性格が字の粗さだけでわかるものではないと感じられる。
「さて、それじゃあとりあえず今日はこれ以上することもないし、授業が始まるのももう少し後だ。それで………っと」
中田先生が説明をしようと口を開いたその時、教室の後ろの扉が開いてぞろぞろと人が入ってきた。一番後ろに座っていた青年は、最初はそれが保護者か何かだと思っていたが、後ろに目を遣ってすぐにそれが勘違いだと気づいた。
後ろに構えていたのは、とても保護者たちとは思えない洒脱な出で立ちの男女。その全てがメモのようなものを持ち、その人波の半分以上がごついカメラを携えて教室をきょろきょろと見回していた。
「…っ!」
そして、後ろに立っていた大人たちは何かに気が付くと一か所に固まろうと肩をぶつけて寄せ合った。
青年が目にしたその一か所とは、自分の左隣…自分が目を奪われた彼女だった。
パシャッ…
パシャパシャッ!!
バシャバシャバシャッ!!!
彼女を見つけるや否や、教室の音は一気にあわただしくなった。カメラのシャッターを切る無数の音が、左隣の彼女に向けられたのだ。
「なん、だ…?」
隣で起きている事に目を丸くしていると、前に立っていた中田先生が後ろのカメラの音に向かって一喝した。
「勝手な取材は許可していないはずです!!ましてや他の生徒の不安をあおるような行動はどうぞ厳粛にお願いいたしますっ!!」
先生の一言で、たちまちカメラの音は収まり再び教室には静寂が訪れた。そして一つ咳払いをして中田先生は話を続けた。そんな教室の前後の様子を眺めていた青年は、一幕を終えた後の隣に座っている彼女を眺める。
「………」
彼女はさっきまでと別段変わりのない表情で、前で説明する中田先生を見る。変わっているようには見えなかった彼女の姿に、青年は不思議に思いながらもあまり気にかけることはしなかった。ひょっとしたら、それは彼女にとって珍しくはないものかもしれない。そんな事をぼんやりと考えながら…
~♪
「あ」
「あ」
その時、何かの音が響くのに、青年と少女が気づく。他の生徒はその音に何か反応することはなかったが、後ろに座っていた二人はその音に同時に声を零した。
それは、ピアノが爪弾く音。絹糸のような繊細で美しい音色で、何かの音楽が奏でられている音だった。それに気が付いた二人は、それぞれの思いで流れる音を聞いていた。
「…斜め、右上」
薄ぼんやりと思ったことを口にした青年は、不意に出た言葉にハッとしてそれを忘れようとする。しかし、聞かれてやしないかと周りに目を配った時、隣の彼女の姿が目に留まった。
「あ………」
その彼女は、青年を見て驚いたように目を丸くしていた。トパーズ色の瞳がはっきりと自分を捉えている姿に、色々と考えが混雑してくる。そして、クラスの雰囲気はいつの間にか自己紹介に進んでいて、中田先生が後ろに目を遣って自己紹介を促した。
「…はい、じゃあ次、畑中」
「あ………は、い…」
気づかないうちに回ってきていた自分の順番に狼狽えて、隣の席の彼女はいそいそと立ち上がる。そして、彼女の自己紹介になって急に教室の中が静かになり、彼女が言葉を発する前に付いた深呼吸の音さえも中にいる人間に聞こえる程静かになった。
「………
水を打ったような静けさの中で、鈴を振ったような儚い声が聞こえてきて、ただでさえ静かだった教室が、彼女の声を聴こうと一層静けさを増した。そして、その静寂を気にかけることもなく彼女…三美は静かに席についた。
彼女…三美が自己紹介を終えてからすぐに、教室はおもむろにざわつき始める。それは、彼女に対する興味の言葉。教室にいる多くの生徒は三美の事を口々に隣同士の生徒と話し合っている。
「みつみ…だったんだ」
そして、教室のざわつきの中で、彼女の右隣にいた青年はそんなことを口にした。その彼の言葉に、もう一度三美は青年の方を向く。
「…あ、もしかして聞こえてた?さっきから?」
青年は、三美の視線に気づいて申し訳なさそうに呟いた。
三美は、彼がぼんやりと自分の名前を音読みしていたことに気づいていた。そして、そんな呼び方をする人間が、少なくとも自分の周りでは珍しかったので、三美は不満とも興味とも思える厄介な感情を瞳に込めて、隣に座っている彼を見つめた。
「………」
「悪かったよ。まさか聞こえてるとは思ってなかったからさ。みつみ…なんだよな?今度は忘れないようにするから」
「………」
自己紹介が進んでいく教室で、二人はひっそりとそんな会話を交わす。そして、今度は三美の隣の彼が中田先生に促される。
「じゃあ次、成田」
「あ、はい」
彼は促されてすぐに立ち上がって、軽く目をつぶって一呼吸する。そんな姿を、三美は少し訝し気に、しかし多少の興味を持って見る。そんな三美の行動を知ってか知らずか、彼は自己紹介をおずおずと始める。自分にだけ聞こえているかもしれない、ピアノの音色を聞きながら、これから何が始まるのかもはっきりわからないまま…
「…えっと、
彼…義隆の自己紹介に、教室の生徒たちからささやかな拍手が送られた。そして義隆は、席に着くより前に、隣で自分を見つめていた三美を見る。三美もそんな義隆を見ており、お互いに見つめあうことになった。
「…よろしくな。畑中三美さん」
「………」
義隆の言葉に、三美は何も返事はしなかった。しかし、三美は全く気にかけていないわけではなかった。トパーズ色の瞳は、揺らぎなく、しかし何処か輝きを秘めて義隆を見つめる。その彼女の視線の意味と、畑中三美という彼女の事は、今の義隆にはまだわからなかった。
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