第8話「それぞれの、抱えてること」
「むっちゃん!あんまり人当たりが良くないと、また良いことが逃げてくよ?こないだも帰りに駅前で買ったソフトクリームを服に…」
「なっ!?ちょっ!」
睦美は、それ以上余計なことを言わせまいと後ろを向いて茜の口を手で塞ごうとする。義隆は、そんな二人のやりとりを見て…ぼんやりと前で各パートに指示を出して…いや。こちらの様子に気がついて2メートルの距離まで近づいてきていた岬を目にした。
「ぷはっ!ほ、ほらむっちゃん!部長さんが近くに!」
「へっ?あっ!!」
睦美と茜が気づいた時には、岬は1年生のすぐ前に立っていた。慌てて二人とも岬に体を向けて、部長の顔をした岬の言葉を待った。
「ようこそ鈴之原高校クラスEへ。そしてようこそ合唱部へ。私が今の部長の吉岡岬。まあ入学式で何度も見てるから知ってるわよね」
落ち着いた調子で1年生に話しかける岬。睦美や茜も、そんな泰然自若とした岬の姿に、思わず目を奪われていた。
その一方で、義隆は岬の言動に、少しの違和感を感じていた。ほんの何回かの出会いでしかない彼女の、1年生への言葉のかけ方…と言うより、1年生に声をかけている時の岬の心の落ち着かなさ。義隆には、そこで堂々としていた岬の話しぶりが、何かに焦っているように見えた。
「…と言うことで。今まで培ってきたものを更にワンランク上げるために、これから練習していくから、気を引き締めていってね、今日は1年生はこれで解散。来週から練習に参加するから。あ、それと海撫睦美さん」
「は、はい!」
声かけが一通り終わってすぐ、岬は義隆の隣にいた睦美を呼んだ。睦美は自分が呼ばれるとは思わず、緊張した面持ちですっくと立ち上がった。
「あなたに1年生の学年リーダーをやってもらいたいの。私や部活からの報告の伝達と、1年生の様子の共有。そんな役回りなんだけど、お願いできるかしら?」
「あっ…その…」
睦美は、少し戸惑った。しかし
「わかりました。精一杯努めさせていただきます」
逡巡して、睦美は岬と向き合って自分に与えられた役割を全うすることを宣言した。それから1年生はぞろぞろと音楽室から帰っていき。義隆とやりとりを交わしていた茜と睦美も、義隆に一言あいさつをして音楽室から出ていった。
「ふう…」
「お疲れ様です。部長」
座っている義隆の前で、誰にも聞こえない程度のため息をつく岬。義隆はそのため息をサインに労いの言葉をかける。
「ええ、こう言うのを一人でやるのが部長なのよ」
岬の言葉で話が尽きてしまい、義隆がどうしたものかと悩んでいると、岬からポツリと質問が降りてきた。
「…ねぇ義隆君。最初の曲ってどう感じた?」
「最初の曲?課題曲って言ってましたっけ」
岬は返事をしなかった。義隆はそれが肯定である事を岬の横顔で理解して、彼女の質問に答える。
「…うまく言えないんですけど。息苦しく感じました」
「………」
義隆は、指揮を振っていた岬に目を奪われていた。それと同時に、岬から見える合唱部の…歌っている部員たちの声をその目線で聞いていた。圧倒的な完成度、ハーモニー、それらが耳に入ってくる過程で、義隆にはそれに一つの感想を抱えていた。
あまりにきれいすぎる。
それは、経験のない義隆にも感じられた清廉さ。強弱も正確で、ハッキリとした発声。整然とした歌声を、少なくとも1年生は憧れの目で見ていた。しかし、義隆にはいまいちそれを手放しで凄いという事が出来なかった。入学式で聞いた校歌との対比…あの時の心が湧くような感動を、さっきの歌から感じられなかったのだ
岬はまだ返事をしなかった。しかしその横顔は、安堵のような、諦めのような、相反するいくつもの感情が混ざり合って、真顔のような表情を作っていた。そしてしばらく黙り込んだのち、岬は義隆に投げかけた。
「…ねえ、義隆君。あなた、音楽の心得があるでしょ」
義隆は表情を変えなかった。
「どうしてそう思うんですか」
「今の質問で確信した。だって私と全く同じ感想を持つんですもの。アレを聞いてそんな感想が素直に出るのは、そこらの素人じゃないと思うのよ、それに」
そこまで言って、岬は義隆を向いた。
「なんですか」
「…いいえ、あまり詮索はしないことにするわ。義隆君には何度も迷惑かけてるし。これ以上余計なことを言ってちゃ、立派な先輩とは言えないし」
岬はすぐに顔をそらして、腕を組んで考え込み始める。そんな彼女の仕草や表情から、義隆はふと気がついたことを聞いてみる。
「ところで今の質問って、課題曲の完成度が今一つだったけど、あの場所で言うのも気が引けるから、とりあえず音楽の心得がありそうな人に質問して自分の感覚を確かめよう…って考えてました?」
義隆の一言に、岬はカチンと固まった。そして、恐る恐る義隆の方を向いて、ただ一言。
「…超能力者?」
とだけつぶやいた。
………
「それじゃあおつかれさまー」
「またね、義隆君」
「お疲れ様でした」
合唱部の練習が終わり、生徒会室を前に、三人はそれぞれの方向へ去っていった。岬と朝陽は、職員室へ鍵を返しに行く都合で、一階に降りてからは義隆とは別の道を歩いて行った。
一人になった義隆は、今日の事を思い返す。数多ある部活動と、謎の写真部のこと。合唱部に入った1年生の二人と畑中三美との関係。そして、吉岡岬に自分が音楽に関わりがあると見抜かれたこと。義隆は、今日起きた出来事を並べるだけで気疲れするような感覚に陥った。
「平穏な高校生活に、なるはずだったんだけどなぁ」
予定外の始まりを迎えた自分の高校生活に、義隆は、陽の落ち始めた教室を後にしてそんなことをぼやいた。
………
夜、義隆は家の二階の部屋で今日の課題をこなしていた。静かな部屋、スマホとCDデッキはあるが、きょうびCDデッキで音楽を聴く事もあまりない。ましてや義隆は、ここ最近部屋で何かしらの音楽を聴くこともない。その代わり、夜の静けさに身を委ねていると、直下から音が漏れてくることがある。
〜♪
「今日は父さんがいるのか」
義隆の部屋の真下。父親が趣味の部屋にしている場所から、わずかにクラシックの音が聞こえてくる。そこは父親の趣味の部屋で、その趣味が音楽の鑑賞だった。クラシックやジャズ、大人の嗜みと言われるジャンルの音楽がいくつも流れてくる。それは義隆にとっては日常であり環境だった。
そして義隆は、一通り終わらせた課題をカバンに入れて、自分の部屋の入り口そばにある電子ピアノに座った。何度か触ってはカバーをかけ直した電子ピアノ、おもむろに電源を付けて、赤のLEDが付くのを確認する。あまり開いていなかったのは幸か不幸か、数年触ってないその鍵盤は白くつややかだった。そして義隆は、目をつぶって今日の合唱部の音を思い返す。
「斜め、右下…フラット。寂しくて」
そう言葉にしながら、鍵盤に触れていく。頭の中の音とピアノの音が一致する場所を探すように、義隆は音量を抑えた電子ピアノの音を耳でとらえる。階下のクラシックと対比するように、拙いピアノの音が部屋に伝わり、義隆はそのピアノの音が一致する場所を探しながら、1時間ほどピアノを弾き鳴らした。いつ以来か、そんな心と共に、ピアノは次第に曲の形を作っていく。
今、自分が弾いている曲が何なのか、どういう歌詞の曲なのか、義隆はそれらを何も知らない。しかし、あの時聞いた曲の持っている質感は覚えている。ここで柔らかく、ここは重々しく…何も知らない曲が、頭の中で出来上がっていく。
ピアノに集中していると、時間が深夜を回りかけたことに気付き、義隆はハッと我に返ってピアノの電源を落として片付ける。そして、その日は静かにベッドに横になって明日を待つことにした。
………
翌日。義隆は普段通りの時間の電車から降りて、生徒たちの波の中を通学していく。あの日の偶然の出会いから何か変化があればと思ったが、当然というべきか、義隆と三美が同じ電車に乗ることはなかった。そして、クラスに着いてみると、カバンの掛けられた左隣の席だけがそこにあり、畑中三美が誰よりも早く登校していることだけがわかった。
「相変わらず、姿はなし、か」
そして、そんなボヤキを聞いて、今来たばかりの佳花が声をかけてくる。
「成田君、三美ちゃんの席を見て何考えてたのよ?」
「何も。畑中さんも元気に登校してるってだけだよ」
少しニヤついていた佳花の思惑に、義隆はあしらうように答える。しかし義隆のぞんざいさなど気にも留めず、佳花は続けて義隆に話しかける。
「ふーん。あ、それで今日の現代文だけど…」
「新入学から一回もこぼさず勉強を人にたかるのは自慢できることじゃないと思うが…まあいい、ほらノート。授業前に返せよ?」
「ありがとう!いずれお礼はするから!」
「いや、お礼は…」
そこまで言って、義隆は昨日の出来事をふと思い出した。合唱部で知り合った、佳花の兄の事だ。
「…なぁ、佳花よ」
「なによ、改まって」
「お前、兄弟とかいるのか?」
義隆の質問に、耳には聞こえない「パキッ!」と言う音が聞こえた気がした。そして、二人の間の無音がしばらく続いたあと、佳花は義隆から目線をそらして、制服の袖であからさまに口元を覆い隠して答える。
「………いない」
「なんでそんなに時間かかったんだよ」
袖で隠した顔は、義隆にはかなり照れているように見えたが、佳花はひたすらに義隆の視線を避けようとしていた。
なるほど、あの時文人が言っていたのはこういう事か。と、義隆は佳花の焦りように納得した。
「そうか。ならいい」
「…あの」
義隆が、詮索を止めて佳花から顔をそらした時、今度は佳花から弱々しい声が返ってきた。
「…その、誰から聞いたの?」
「何がだよ。いないんだろ?兄弟」
「…いるけど」
「いるんかい」
訳を知っている義隆からのするどいツッコミが佳花に向けられた。
「いや、ちょっと訳あってお前の兄さんと会う機会があってだな」
「そんな…でもお兄ちゃんは何も…」
佳花はそこまで言ってハッとする。そして義隆の机にうなだれてその場で崩れ落ちる。
「………言ってた。昨日なんか新入生とかが入ってきて、話が弾んだって言ってた。にぃ…お兄ちゃんはそういう時いつも含みを持たせるから、アレがそういうことだったんだ…」
顔を突っ伏してうだうだと何かをこぼす佳花に、面白いものを見たような気分だったが、時間もそろそろホームルームなのであまりここに居座られても困ると言う事も考えていた。そして、そろそろチャイムが鳴るので、佳花に自分の席に戻るよう言おうとしたとき、
〜♪
ふと、義隆の耳に小さな歌が聞こえてきた。誰かの鼻歌のような、しかし言葉が聞こえるようなかすかな歌。そして、そのかすかな歌は次第に消えていき、義隆の耳には再びクラスの喧騒が飛び込んでくる。
「よし、ホームルーム始めるぞー。今日も全員出席。健康でいいこった」
担任の中田先生のいつもの挨拶が始まり、義隆はその先生の言葉でふと気がつき、左隣を見る。そこには、さもずっとそこに居たかのように畑中三美が座っており、義隆の視線に気が付き、訝しげに目線を返す。
「?」
義隆は、佳花とのやりとりがあったにしても、戻ってきたなら気がつくはずとばかりに三美を見つめる。しかし、そんな雑念が目線に出ていたせいか、三美は義隆の目線にあからさまに嫌そうな顔をする。自分の目線が原因だと気がついた義隆はすぐに前を向き、三美が何処からやってきたのかを思い悩む事しか出来なかった。
………
「もう終わりやな、じゃあ次回は文法を利用した英文を作るで。号令たのむわ」
―――起立、気をつけ、礼
4時間目の授業が終わり。各々が昼休みに入る。義隆も昼の準備をするために購買へ駆け出そうとする。
「ん?義隆は今日購買か?」
同じタイミングで教室を出ようとした宗介が義隆に声を掛ける。宗介の右手にも財布が握られており、空いた左腕で義隆の肩を抱いた。
「あぁ、今日は両親共に朝から仕事なんでな」
「そうかい。しかし私立ってすげえよな。まさかコンビニが中に入ってるなんて」
そう言いながら、二人は一階の下足場所で靴を履いて、学校の正門そばのコンビニに向かう。
「やっぱり3年までひっきりなしだよなぁ、義隆は何かお目当てはあるのか?」
「ないな。甘いのじゃなけりゃ何でもいい」
「じゃあ…一緒にあの修羅場に飛び込むか?」
「遠慮する。やりたきゃ一人でやっててくれ」
つれない態度の義隆に、両手を広げてやれやれとでも言いたげな顔をして宗介は人で賑わうコンビニに我が身を突っ込んでいった。義隆は、しばらくそんな人混みを眺めていた。それはなにも、人にもみくちゃにされるのを嫌がっての事ではなかった。
「声が…多い」
義隆は、人混みの中の声を聞いていた。それは義隆にとって音とそうでないモノの大合唱でもあった。つまり、人の多さではなく、人の音の多さに義隆は進みあぐねていたのだ。
………
「結局クイニー・アマンが2つ、か」
雑踏が落ち着き、ようやくコンビニに足を踏み入れられるようになった頃には、目的とか目当てとかそんな悠長な事を言えるほどものは残っておらず、すんでのところで手にしたのは、義隆の望まない菓子パンが2つだけだった。購買を経験するのは久しぶりだった義隆だが、忙しい日にはこうなると言う洗礼は今日が初めてだった。
「残念だったな、お前の望みは叶わなかったわけだ」
「なんでお前はニヤつきながら俺を慰めてるんだよ」
してやった顔が隠せない宗介に、義隆は一旦自分の持ってるパンをぶつけてやりたくなったが、不毛なことはやめようと思い、宗介のしたり顔を恨めしそうに見るだけにとどまった。
「今度から事前に買ってくることにするよ」
「それが懸命だな。じゃあ教室に戻ろうぜ」
「あぁ」
宗介に言われるままに下足場所に戻る。義隆は2つのクイニー・アマンを見ながら、牛乳の一つでも買っておけばよかったと考えながら考えていた。そして、上靴に履き替えてすぐに、雑踏の溢れる昼休みの校舎の中から、一つの音を聞きつける。
〜
「ん?」
「どうした義隆。買い忘れでもあったか?」
宗介の問いかけを気にもとめず、義隆は流れる何か…整然とした音のようなものに耳を傾ける。そして義隆は、自分が耳にしたものの話はあえてせずに、宗介に自然な返事をする。
「…あぁ、ちょっと何か買い足すから、宗介は先に戻っててくれ、すぐ戻るよ」
「そうかい、じゃあ次の授業に遅れるなよー」
宗介は、義隆の様子など特に気にすることもなく、先に教室を目指して歩いていった。そして義隆は、不思議なほど耳につく音が聞こえるままに、教室への道とは全く別の方向に足を進めていった。
………
1年の教室棟と2年の教室棟の間。中庭のように開けた場所で、真ん中には作者不明のモニュメントが飾られている。モニュメントの周囲にはベンチが並んでおり、昼の憩いの場としては最適だった。しかし今は、そんな場所に人はいない。日当たりが弱く、影の多いこの場所では、穏やかな春を過ごすには心許ないと感じられる。そして、義隆はそんな中庭に、おもむろに耳を傾けた。
「歌…しかも」
義隆は、あまりにささやかな音が歌だと気付き、それが人のいないはずの中庭から発されているという事までは突き止めた。しかしその中庭には、放送用スピーカーが置かれているわけでもない。近くの教室が何かを演奏している様子もないので、義隆が聞いていた歌は、義隆の耳にだけ聞こえていた。
〜♪
明確に歌だとわかり、義隆は自分が上靴のままであると気が付いたものの、渡り廊下を越えて中庭へと足を進めた。中庭のモニュメントの前まで来て、結局それが何のモチーフなのかを理解する事もなく眺める。そして、歌のする方向を探りながらモニュメント周辺を歩き回る。しかし、ささやかに歌が聞こえてくる以外に、人の姿や気配が感じられない。
「歌が…何もないところから?」
義隆は、ついに人ならざるものでも見たのかと緊張を高めたが、それよりもその歌声自体に興味を持っていた。
「…きれいな歌声」
義隆が放送の音楽だと感じたのは、状況証拠だけが理由ではなかった。その歌声は、今までどんな場所でも聴いたことのない、繊細で柔らかな歌声だったからだ。そして更に聴き込んでいくと、単に柔らかいだけではない、丁寧な表現や語りかけるようなフレーズ。それが何を歌っているのかは知らないはずなのに、何を言っているのか…何を伝えようとしているのかが聞き取れるような緻密な歌声だと、義隆には感じられた。
「…ここ」
義隆は、そんな類い稀な歌の出どころをなんとか探そうと、おもむろに手を伸ばした。モニュメントの前で伸ばした手から、空気に触れる感触ばかりが義隆の手に伝わってきて。肝心の歌の正体には触れる事が出来ない。そんな結果だけが義隆の手に返ってきた。
「…聞き間違い、なのか」
何かが掴めそうな感覚に期待を込めていたが、肩透かしを食らってしまい、更に
「歌が、止まった」
自分が求めていた歌声も消えてしまい。義隆は、キツネにつままれたような感覚だけを残して、踵を返した。そして、まだ余裕のある昼休みを教室でのんびり過ごすために教室へ帰ろうとした
その時
―――聴こえて、いたんですか?
「えっ」
帰ろうとした義隆の背中にかけられる言葉、いや、義隆はそれが自分にかけられたとは、数秒気づけなかった。そして、ようやく今の状況に気が付き、ゆっくりと自分が見ていた場所へと顔を戻していく。
「…あ、あのっ………もしかして、聞こえていたんですか、その、私の…うた」
木漏れ日が幻を映し出すかのように、
風が霧を払うかのように、
誰もいないことを確認したはずのモニュメントの側から、義隆がさっきまで手探りで歌を探していた場所から、透き通るような碧緑の髪と、不安に潤んだトパーズ色の瞳の、そんな自分のクラスメイトが姿を現した。
「畑中………三美、さん?」
畑中三美。彼女は確かにそこに立っていた。何処かから歩いてきた?違う、彼女は真正面から義隆に向かっている。歩いてきたような素振りはない。物陰に隠れていた?そんな物陰はこの中庭にはないし、草むらなら出てくるときにまず分かる。そして何より、彼女は歌を…
そんな考えばかりが巡っていると、そこにいた彼女は質問を続けた。
「成田君、もしかして、私の歌声…聴こえてたんですか?」
「あ………えっと」
義隆は言葉に詰まった。それは、彼女の表情からのものだった。眉をハの字に曲げて、黄色の瞳は木漏れ日に同期するように潤んでいた。義隆には、その質問の意図が掴めず。自分がこの質問に答えていいのか思い悩んだ。しかし、埒が明かないのも確かだったので、自分のできる限りの誠意で彼女に答えた。
「………その、この辺から歌声が聞こえてきてさ。凄いきれいな歌だったから思わずここまで来たんだ」
「………」
三美は、しばらく義隆を見つめたまま何も言わなかった。しかし、先ほどまでの負の気持ちが混じった目線とは違い、彼女は驚きを込めた表情でつぶやいた。
「…初めて、見つけた」
そして、次に口を開いたのは三美の方だった。三美はそこまで言って、少しだけ義隆に近付いた。
「成田君、あなたは…」
ゆっくりと、はっきりと言葉を紡ぎ上げる三美。そして三美が、義隆に何かを伝えきる寸前で、
「おーい1年生、もうすぐ昼休みが終わるぞー」
渡り廊下の方から、二人の姿を見かけた生徒が声をかける。「1年生」と声をかけたその人物は、二人には誰なのか判別は出来なかったが先輩だと思われる人物だった。
「………はっ!」
思わぬ声かけに、三美が驚きの声を上げる。そして義隆も自分の時計を見て、その謎の人物の言葉が本当だと確認した。
「マジだ。昼休みもう終わるな。三美さんも戻るだろ?」
「あ、はい」
「じゃあ教室に戻ろう。いつも時間通りに来てる三美さんが遅れたら、それこそ驚かれるだろうし」
義隆は一瞬手を出して案内しようとしたが、あの時とは違い三美は普通に立っている。さすがにそんな状態でわざわざ手を取る必要もないだろうと思い、教室に戻ることを促すように手を振って渡り廊下に向けた。三美はそんな義隆を見て無言で頷いた。そして、先を行く上靴のままの義隆に一言添える。
「私、今普通の靴、だから、玄関から…戻ります」
「そっか、わかった。じゃあ俺は先に戻ることにするよ」
義隆は、上靴のまま上がったことを誰かにバレないかと少し周囲に警戒をしながら渡り廊下に戻っていく。そして、去っていく義隆を見送る三美は、特に何も言わずにコツコツと中庭を抜けて1年生の下足場所に歩いていく。その道中、滅多に見かける事のない柔らかな笑顔を、誰に向けるでもなく浮かべていた事を知っているのは、この春の穏やかな日差しだけだった。
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