第9話 掃除
「さあ、一休みしようか」
やっと一通り、商店街の通路を掃き終わり、目立った汚れを取ると、誠は言った。
「うん」
「何飲む?」
二人は自動販売機の前に立った。
「ああ、うん、私お汁粉」
「えっ」
「みんな驚くわ」
「ぼくはこれを飲む人ってどんな人なんだろうっていつも思ってた」
「こんな人よ」
「初めて見た」
「ふふふっ」
「はははっ」
二人は、目を合わせ笑い合った。
「ぼくはコーヒーだ」
誠は自動販売機の受け取り口から、コーヒーとお汁粉を取り出すと、お汁粉の方を映美に渡した。
「あったか~い」
映美は自分の頬にそれを当てた。誠も自分のコーヒーを頬にあてた。
「ほんとうだ」
二人は広場の植え込み脇のコンクリートに並んで腰かけた。
「おいしいね」
「うん」
「やっぱ、寒い時は甘いものだわ」
映美がおいしそうにお汁粉をすするのを少し笑いながら誠は眺めた。
「本当においしいのよ」
「うん」
誠は自分のコーヒーをすすった。
「あっ、そういえば、うちの近所の吉田さんがあなたに睨まれたとか、ゴミ出しがどうだとか騒いでるみたい」
誠は無反応だった。
「本当なの?」
「ああ、あのいつもぼくを睨みつけてくるおばさんだな」
誠は穏やかに言った。
「吉田さんがあなたを睨んでくるの」
「うん」
「あなたもそれで睨み返したのね」
「まさか。ぼくは少し目が悪いんだ」
「ゴミ出しは?」
「ぼくは分別とか、時間とか日にちを守るってことがとても苦手なんだ。それでいつも怒られる」
「そうだったの」
「嫌われるのはなれているさ」
誠は煙草に火を付けた。
「誤解してるんだわ。みんな」
「それも慣れている」
誠の吐き出す煙草の煙が薄闇に霧のように広がった。
「あっ、白み始めて来た」
遠くの空を見ると、夜空がうっすら白み始めていた。
「もうすぐ日の出だ」
「あっ、お日様が顔を出しているわ」
山の頭から光の線が強烈に後光のごとくうっすらと丸みを帯びて膨らみ始めていた。
「なんか気持ち良い。来て良かったわ」
「ふふふっ」
誠はただ黙って、一人はしゃぐ映美の隣りでやさしく少し笑った。
「さあ、次はトイレ掃除だ」
コーヒーを飲み終わると誠は立ち上がった。
「トイレなんてあるの」
「うん、商店街と、駅の入り口の広場の公衆トイレも」
「公衆トイレもするの」
「うん、ついでだからね。勝手にやってるんだ」
「そう、やさしいのね」
「君はここで待っていなよ。僕一人でやってくる」
「私もいくわ」
「そう、無理しなくていいよ」
「行くわ」
映美は力強く答えた。
「まったく、マナーのかけらもないわね」
トイレは汚れきっていた。個室の方には、便がはみ出て床に広がっているところまであった。しかし、誠はそんな事には全く動じることなく、素手にブラシを持ち、それらを淡々と掃除していく。
「よしっ」
映美は覚悟を決め腕をまくった。
「手袋あるよ」
「いいわ。私も素手でやる」
「無理しなくていいよ」
「やるわ」
力強くそう言って、映美はブラシを取って、勢いよく便器を磨きだした。
「ふーっ、終わったわ」
映美はようやく全ての便器の掃除が終わり、誠の方を見ると、誠は便器の上のパイプも一つ一つ丁寧に雑巾で拭いている。
「そんなことまでするの」
「うん、変なとこが凝り性なんだ」
「私もやるわ」
映美は反対から同じように磨きだした。誠は少し驚いた表情で映美を見た。
「私もやるからにはとことんやるタイプなの」
誠はそんな映美を見て少し笑った。
「あ~、空気がおいしいわ」
トイレから出た映美は思いっきり外の空気を吸い込んだ。
「トイレ掃除なんて、中学以来だわ」
「ぼくはうれしいよ。君がトイレの掃除まで一緒にやってくれるなんて」
「あなたはすごいわ。毎日こんな大変な仕事を一人でしているなんて」
「そうかな」
「そうよ」
映美は本当に感心して言った。
「あっ、あそこに猫がたくさんいる」
広場の端にある植え込みの前に無数の猫たちが群がっているのを映美は見た。
「猫おばさんだよ」
「猫おばさん?」
「うん、もうすぐ来るんじゃないかな」
そう言って、誠は通りの方を見た。映美もつられてその方を見ると、確かに白髪交じりでぼさぼさ頭のおばさんが、よろよろとカートを引いて歩いてくる。
「猫おばさんだよ」
「あの人が猫おばさん?」
誠はうなずいた。
「やあ」
誠が猫おばさんに声を掛ける。猫おばさんは何も言わなかったが、やさしい笑顔を誠に向けた。
猫おばさんは植え込みの前に来ると、引いてきたカートの中から、キャットフードの袋と、千切ったパンの耳の入ったビニール袋を取り出し、それをそのまま、わさっと地面に広げた。その瞬間猫たちが一斉に頭を下げて食らいつく。今まで姿を見せなかった猫たちまでがどこからともなく現れ、その輪に加わった。
「わあ、すごい数」
「うん」
誠と映美は、猫たちの輪に近寄って行った。
誠たちが近寄っても猫たちは全く怯える気配もなく黙々と餌をパクついている。猫おばさんは、千切ったパンの耳を更に小さく千切って小さな猫の前に置いてやっている。その横の植え込みの中には、猫に餌をやらないでくださいとでかでかと書かれた看板が立っていた。
映美が近くの猫の背を恐る恐る撫でた。だが、まったく逃げる気配も嫌がる様子もない。
「慣れているのね」
「うん、人間のやさしさを知っているんだ」
猫おばさんは、猫たちが一通り餌を食べ終わるのを見届けると、そのまま何も言わず去って行った。
「何をしている人なんだろう」
映美がその後ろ姿を見て言った。
「分からない」
そんなことどうでもいいことさ、といった感じで誠は答えた。
「さっ、後片付けだ」
「えっ」
「これをほっとくと、うるさいんだ」
そう言って誠は猫おばさんの広げた、猫のえさの残骸を片付け始めた。
「普通、猫に餌をやらないでって言いそうなもんだけど」
「猫は僕も好きさ。それに猫おばさんも」
「私も好きだわ」
映美も掃除道具の入ったカートから、箒を取り出すと誠を手伝った。
「後は何をするの」
箒をカートに戻しながら、映美は誠に訊いた。
「後は、その辺の落ち葉とか掃いて終わりだけど、今日はいいや」
「そう、じゃあ、今日はもう終りね」
「うん」
「正直助かったわ。思った以上に重労働なんだもの」
「ありがとう、助かったよ」
「なんか労働したら、お腹空いたわ」
「そうだね」
「こんな時間じゃ、お店もやってないわね」
映美は商店街を見た。
「あっ、あそこの定食屋さんやってるわ。あっ、こっちのカフェも」
意外と早朝から営業し始めている店はあった。
「だめだよ」
「どうして?」
「ぼくは汚いから、入れてもらえないんだ」
「そんな、ひどい」
「あっ、でもあそこの喫茶店だけは入れてくれる。あそこにしよう」
誠は道路脇の角に建つ古い喫茶店へ向けて、映美の返答も待たず歩き出した。
暗いスモークの貼った重い扉を開け、こじんまりとした、決してきれいとは言えない狭いカウンターに二人は並んで座った。常連であろうおじいさんがすでに二人奥のカウンターに座って何をするでもなく、呆けていた。
「なんにする」
もう人生が終わったみたいな暗い表情の店主が、少し濁った力のない目で誠を見る。
「僕はここでいつもカレーを食べるんだ」
「じゃあ、私も」
トイレ掃除をして、似たようなものを見た後で、しかも朝からカレーかと思ったが、映美は誠に合わせた。
店内には古いテレビに映る朝のニュースだけが、元気に流れていた。
ほとんど待つこともなく、カレーは出てきた。カレーはあまりおいしそうな感じではなかった。映美は少しその見た目に怯んだが、これだけおなかが減っているのだから、何を食べてもおいしいわ、と思い直し、さっそくパクついた。
「うっ」
やはり、カレーはまずかった。映美は隣りの誠を見た。誠は平気な顔でパクついている。どんな人でも大抵おいしく作れるカレーをここまでまずく作れることに、ある意味すごいと思い、映美は店主を見た。
「あんまりおいしくなかったね」
外に出ると、思わず笑いながら映美は言った。
「そうかな。僕はおいしいと思うけどな」
誠のそのなんとも言えない人の良さに、映美は更に笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
「ううん」
「いいよ。笑われるのは慣れている」
「ううん、そんなんじゃないの。ほんとよ」
映美は必死に弁解した。
「うん、じゃあいいよ」
誠は映美の真意を理解したのかしないのか分からないまま、ぽつりと言って煙草に火を付け、その煙を吐きながら、街路樹の木々を見上げた。
街は少しずつ動き始めていた。日は完全に昇り、暗い顔をしたサラリーマンが駅に吸い込まれていく。
「ああ、キビタキがきている」
「キビタキ?」
「うん、キビタキだ」
誠の視線を追っていくと、黄色と黒のはっきりとした色合いの小鳥がせわしく動いているのが見えた。
「あれがキビタキ?」
「うん、あれがキビタキだ」
「へぇ~」
映美は、少し感動して、その小鳥を見つめた。
「もう夏だね」
誠はゆっくりとたばこの煙りを吐き出しながらゆっくりとつぶやいた。
「まだ春になったばかりよ」
映美は少し笑いながら言った。誠はそれには答えず、木に留まるキビタキを見つめていた。
帰り道、二人は遠回りして川沿いを歩いた。
「くじ引きって、どういうこと?」
歩きながら映美は訊いた。
「くじ?」
「ほら、名前を付ける時」
「ああ」
「どういうこと?」
「捨てられた子に名前がない時は、くじ引きで決まるんだ」
「名前を?くじで?」
「うん、男なら、誠、明、隆のどれか」
「少なすぎない?」
「うん、僕もそう思う」
そこで、二人は一緒に少し笑った。
「誠は親を恨んだりしないの」
「うん、しない」
「なんで、私だったら・・」
「だって、僕は絵が描けるもの」
「でも・・・」
「いろいろ大変だったんだよ」
「あなたはやさしすぎるわ」
「そうかな」
「そうよ」
「もっと、こう、怒っていいんじゃない」
「そういうのは苦手だ」
誠は、またズボンのポケットからくしゃくしゃのたばこの箱を取り出すと、器用に片手で一本取り出し、それを口にくわえ火を付けた。
それから二人は、もう完全に葉の生い茂った桜の下をしばらく黙って歩いた。
「誠は天才だわ」
映美が思いついたようにふいに言った。
「天才?」
「誠は絵がとてもうまい」
「そうかな」
「そうよ。本当に天才だわ。あの絵だってゴミステーションに人だかりが出来ていた」
「そうかい」
誠は気のない返事だった。
「個展をしましょうよ」
「個展?」
「そう、みんなに見てもらうの。誠の絵を。絶対、みんな驚くと思うわ。誠の絵を見たら」
「う~ん」
誠はやはり気のない返事をしただけだった。
「そうよ。個展をしましょう」
映美はそんな誠の隣りで一人盛り上がっていた。
「ぼくはまたきみと公園で話しが出来たらそれでいいよ」
誠はそう呟くように言った。
「ダメよ、絶対やるわ」
映美は完全にやる気モードに入っていた。
その時ちょうど二人は誠のアパートの前まで来た。
「今日はカレーを食べたから少し寝るよ」
誠が言った。
「うん」
「今日は本当にありがとう」
「うん」
「本当に嬉しかったんだ」
「うん、またね」
「ああ、また」
誠が軽く手を上げ、二人はそこで別れた。
「お前あの変な男と付き合ってるんだって」
家に帰るとぶしつけに母が詰め寄ってきた。
「そうよ」
「やめなさい」
「どうして」
「だって」
「とても良い人よ」
「まさか、恋人とか言うんじゃないだろうね」
「違うわ」
「とにかくやめなさい」
「あの絵を描いた人なのよ」
「じゃあ、あの絵も捨てなさい」
「とても素敵だって言ってたじゃない」
「それは、知らなかったからよ」
「母さんは誠の何を知っているの」
「とにかくやめなさい」
「かあさんおかしいわ」
「おかしくない。おかしいのはお前よ。あんな」
「あんな、何」
「とにかくやめなさい。ご近所の噂になるわ」
「なればいいじゃない」
映美は母に背を向け、自室に向かった。
「ごはんは?」
「いらない」
映美は、怒りにまかせ階段を勢いよく昇って行った。
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