第2話
翔が目を覚ますと、そこは見知らぬベッドの上だった。ズキズキと、小さく痛む頭に手を当てながら、起き上がる。周りはカーテンに覆われているようで、外の様子はわからない。
どこかふわふわした意識のまま、翔はそっとカーテンを開けた。周囲には同じようなベッドが置いてあるが、誰かが使っているような痕跡はなかった。個々に仕切ることができるカーテンはすべて纏められていて、ベッド横にある引き出しの上にも何も置かれていない。視線を足元に向ければ、ご丁寧にスリッパが揃えられている。室内は全体的に柔らかい色調で、どこかの病室のような雰囲気だ。けれど、ここが病室だとしても、翔にはそこで寝ている理由に全く覚えが無かった。思い出そうと考えても、頭が痛むだけで何もわからない。
……なんで、だろ。
しばらく考えても、何も思い浮かばなかった。ただ、ざわざわと落ち着かない気分になるだけだった。考えても仕方がないことなのだろう。わからないものは、わからないのだから。
痛みを追い払うように左右に頭を振ってから、深く息をついた。このまま部屋でじっとしていても埒が明くわけではないのだ。部屋から出て誰か人を探すべきだろう。このままでは、状況把握もままならないのだから。
気合を入れるように、軽く拳で胸を二回叩くと、翔はそっとベッドから抜け出した。覚束ない足でスリッパをやっとのことで履くと、立ち上がって、グッと腕を伸ばす。身につけている服もまた見に覚えがなかったが、知らぬふりをした。
……なにも、わからないや。
じわりじわりと広がっていく言いようのない感情から目を背け、部屋で唯一の扉へ歩を進める。
距離はさほどなく、扉の前にはすぐにたどり着いた。扉の前に立ち止まって数回、呼吸を整えるように息を吸って吐く。扉を開けるのには少しばかり勇気が必要だった。気持ちを落ち着けて、意を決して扉に手を伸ばす。
けれど翔が取っ手を掴むその前に、勢い良くスライドした扉が大きな音を立てた。目の前で、綺麗な紫の目をした少女が、ぽかんとしている。きっと翔も、同じような顔をしているに違いない。
「ああよかった、目が覚めたんだ」
我に返ったのは少女のほうが早かった。
「無茶してごめんね。怪我の方はサワラ……じゃない
心配そうな顔をして少女が言う。けれど、その言葉に翔は違和感を抱かずにはいられなかった。翔は彼女と会ったこともないし、見かけた覚えもない。それに怪我をした記憶もなければ、彼女が言う組織が何なのかも見当もつかないし、謝罪されるようないわれもない。
けれども、少女は心配してくれているようだったから。翔はただ、首を横に振った。
「頭が痛い程度で、他は平気です」
「そっか、頭痛だけなんだね。よかった、他に痛いところが無いみたいで。……頭痛は、不慣れなのに行使しすぎたせいだから、どうすることもできないらしいんだけど」
と、ホッとしたような、どこか困ったような笑みを浮かべて言う。一体、何を行使しすぎたというのだろうか。彼女の言葉は、翔にはわからないことばかりで、聞きたいことがどんどん増えていく。それと同時に、翔は言いようのない不安がせり上がってくる気がした。だから、それから逃れるように、問う。
「あ、あの、すみません。ここは何処ですか」
目覚めてから最初に抱いた疑問を。それが一番、心を軽くするだろうからと。
「うん? ああ、そういえばまだ何にも言ってなかったっけ。自己紹介すらしてないなんてバレると、怒られちゃう」
「ばーか。既にバレてるっつーの」
少女の後ろからニュッと現れた人物が彼女を小突いた。緑みを帯びた青い髪をした、同年代ぐらいの少年だ。
「なによー。ちょっと、うっかりしてただけじゃない。小突かないでよ、月影! ていうか、なんでいるわけ」
「ああ? そいつが目覚めたら、セージさんが連れてくるよう言ってただろうが。あんまり遅いんで、迎えに寄越されたんだよ。そろそろ目が覚める頃合いだって
「ああー……、そんなことも、言っていたような、気がしないことも、ないかな」
「おい、お前が連れて行くって言ったんじゃなかったか」
「ごめんって。玲奈から彼が起きるって聞いた時はちゃんと、そのつもりだったんだけど。でも、いざ会うとなると、ね。怪我人だったのに思いっきり、殴っちゃったの気まずくてさー、扉開けるのにすこーしばかり時間がかかってね」
少女が罰の悪そうな表情を浮かべて、段々と俯いていく。ついには
「そんなことだろうと思ったよ。だから、見に行ってこいって命令受けたわけだし。別に、セージさんも怒っちゃいねぇよ」
「あっ本当! よかったー!!」
さっきまでの表情が嘘のように彼女は明るい声で言った。
「……
「なによう」
「はぁ。……なんでもない。っと、わりいな。ほったらかしにして。君の質問にまだ何も答えていなかったな」
「あっ、いえ、お構いなく」
「くっ、ふふ。ふははっ。なんだそれ」
「あー……。相変わらず月影の笑いのツボって変ね」
急に話を振られて咄嗟にでた言葉に、彼は笑った。
「……いい子だなあ」
小さく彼が何かを言ったが聞き取れなかった。
「笑ってごめんな。っとそうそう、君を呼んでいる人がいるんだ。その人が、君がここにいるわけを話してくれるよ。悪いけどついてきてほしい。さっきの質問にはその道中に答えるからさ」
「……わかりました。連れて行ってください」
どこに連れて行かれるのか、誰が呼んでいるのか。わからないことに不安が無いわけではなかった。ここがどこなのかさえ、まだ教えてもらえていないのだ。けれど二人が悪い人物には到底思えなかったから、ついていくことを自分で決めた。悪い人物に思えなかったのは、二人が同年代に見えるから、親近感を覚えたのかもしれない。こちらに、拒否権なんて無いも同然だろうとも思う。けれど誰が何を言おうとも、これは翔の意志だった。
*
部屋の出入り口からようやく離れて、今は人通りの少ない廊下だ。少年が前を歩き、その後ろを二人並んで歩いていた。
「さて」
と、少年が口を開いた。
「ここはヒーロー組織ベルダーの基地、その本部だ。農業区に居住区、訓練施設に医療施設、研究施設。っとまあ、色々あっから、うっかりはぐれたりしないようにな。どっかの島がまるまる基地になってるらしくてさ、超広いから」
「冗談抜きで、メンバーもたまに迷子になるからね」
彼はまるで軽いことのようにポンッと言い放った。ヒーロー組織ベルダーといえば、有名所だ。数多あるヒーロー組織の中でも古株なうえに、多くの活躍を残している。十年ほど前にあったという、ショッピングモール立てこもり事件でも、大活躍だったという話だ。
「……ってことは二人もヒーロー?」
「そうよ」
あっけらかんと少女は言った。思わず問いかけた質問にあっさりと肯定されしまい、背中に冷や汗が流れる。通常知り得ない情報を与えられてしまい、驚きを隠せない。
ヒーローは、顔出ししている所もあれば仮面などで隠していたりと組織によって違う。
ヒーロー組織ベルダーは、表立って顔出しをしているメンバーなど殆どいないと聞いている。顔を隠していなくても、事件の後にはどんな顔をしているかあやふやになるそうだ。写真や動画に活躍を撮っても、それは有効なようで意味をなさないらしい。だから、本来は知りえないことだ。それなのに、至極あっさりと認められてしまった。その事実が翔には重かった。ヒーローと知り合いになれたという喜びよりも、やばいものを知ってしまったのではという気持ちが、はるかに高い。あっさりと教えられる状況とは、一体どんなことになっているのか、考えるだけで憂鬱になるというものだ。
「……それって、僕が知っても問題になりませんか?」
声は震えていたように思う。
「全然問題ないけど」
「そこら辺のことも、あとで教えてもらえるさ。今は我慢してくれ」
「……はい」
その答えは到底、納得できるものではなかったけれど、後ほど教えてもらえるというのならば、是非も無しだ。教えてもらえさえするのならば。
「ああ、そう言えば、まだ自己紹介すらしてなくて悪いな。俺は
「私は
ぼそり、と。沙織は小さく言葉を付け足したが、小さすぎて聞き取れなかった。すると、何故か明文が立ち止まり、沙織の腕を引っ張った。そしてこちらから少し距離をあけて、コソコソと何か話し始める。今、気がついたが、彼は黒い手袋をしているようだ。よく見れば首元も服に覆われて、肌の露出は極端に少ない。
「……おい、木本」
「……いいでしょ、別に」
「いや、お前。同学年相手に名前呼びにさん付け強要って、結構アレじゃね」
「えっ嘘。どうしよう、年下だとばかり思ってたのに」
「……どうして、年下だと思ったかは知らないが。木本、お前学生証を見てないのかよ」
「…………見てない」
「その上、制服さえ視界に入っていなかったと。いや、あの辺りに行くことねえから、気付かないのはわからないでもないが……、というか誰も伝えてないのは敢えてか?」
「……もういい、諦める」
「そうか」
何を話していたのか、明文がそう頷くと、こちらに帰ってきた。
「悪いな、コソコソして」
「いえ、気にならないわけではありませんけど、お構いなく」
「いや、本当にすまない。君の名前を聞いてもいいかな。俺のせいで、君の自己紹介の番を潰してしまった」
眉を下げて重ねて謝る明文に、翔は首を振った。決して気分がいいわけではないけれど、要らぬことを知るよりかは断然いいのだ。そう先程思い知ったばかりなのだから。
「いえ、本当に気にしないでください。僕が部外者なのはわかっているので。それから、僕の名前は
「歳は?」
「15ですけど」
「誕生日はまだ来てない?」
「そうですが」
質問の意図がわからないままに答える。
「そっか。じゃあ、俺たちと同い年だ。敬語、禁止な」
「えっ、はい。わ、わかった」
「じゃあ自己紹介終わったし、もうすぐ着くから行こうか」
敬語を取り払った言葉に、笑顔で頷いて明文は言った。
「ちょっと! そこは、私のフォローをするとこでしょ」
「知らないな、そんなこと」
「じゃあ、なんであんな質問してたのよ。少し期待したじゃない」
「それは、あれだよ。時間稼ぎ。今が一番いいタイミングなんだよ」
「なにの?」
「セージさんの」
何について話しているか、これっぽっちだってわからなかった。けれど、ポンポンと会話が弾むさまは、面白くて笑ってしまった。
「あらら、笑われてしまった」
「月影のせいよ」
「ごめん、面白くてつい。仲良いんだな、二人」
「仲良くなんてない!」
「まあ、長い付き合いだからな」
「はははっ、二人で言ってること違うじゃん」
「……多少、緊張が解れたみたいでよかったわね」
拗ねたような沙織にそう言われて、翔は自分が緊張していたのだと、気が付いた。
「そう言えば、僕を呼んでいる人って」
誰、と。そう聞く前に、
「着いたよ、ここだ」
明文の声が被った。立派な扉の前に立ち止まり、コンコンと、
「セージさん、明文です。例の彼を連れてきました」
そう声を掛けると、扉が勝手に開いていく。
「ああ、それも言ってなかったっけ」
横にいる沙織が言った。
「この部屋にいるのはベルダーのトップよ、事実上のね」
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