第五十七話

「えっと、すまん河合。状況が呑み込めて無いんだけど」


 とりあえず言うと、河合はあわわと顔を上げる。


「ご、ごめんね、いきなり……」

「い、いやそんなに慌てなくてもいいぞ。お、落ち着け」


 あまりの河合の忙しなさと、脳内が混乱しているせいで俺まで声を詰まらせてしまう。落ち着けと言うのは半ば俺に対する言葉でもあった。

 しかしそのうち気が静まったのか、河合は次第に視線を落とすと、申し訳なさそうに尋ねてくる。


「その、中学の頃、覚えてるかな……わたし、忍坂くんにひどい事言っちゃったよね……?」


 ひどい事……あまり多く河合とは話していたわけではないから、ひどい事と言われれば恐らくあの一言くらいしかないだろう。


――私、あなたの事嫌い。だから、あまり関わらないで!


「えっと、ちなみにどの事か聞いていいか?」


 だいたいの見当はついていたものの、一応尋ねてみる。


「その、忍坂くんの事嫌い、関わらないでって」

「なるほど……」


 やっぱりそれで合ってたか。


「本当そんな事思ってなくて、それでもそんな事言っちゃって、ずっと謝ろうと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて、結局卒業になっちゃって……。それでも図書交流会で会えたからチャンスだと思ってたんだけど、結局言い出せなくて……その、本当にごめんなさい」


 河合はまたしても深々と頭を下げる。後に残るのは何とも言えない空気。

 ただ、その所作から河合が決して冗談で言っているわけではない事はひしひしと伝わって来た。同時にどこか身体の奥のどこかが少し融解するのを感じる。

 

「まぁ、なんだ。とにかく頭を上げてくれ」


 とりあえず顔を上げてもらうと、揺れる瞳がこちらを向く。

 その不安そうな眼差しを見ると、昔の記憶が頭を掠める。


 そうだ。そういえば河合と初めて顔を合わせた時もこんな目をしていた。丁度あかりが河合を引き連れてきたころだ。それまで河合は誰とも目を合わせようとせず、また不登校気味なのも相まって、俺はまともにその顔を見た事がなかった。


 だから初めて見た時はついつい見入ってしまったからよく覚えている。その他の人に怯えたような目を。


 だからこそ勘違い野郎特有のヒーロー願望というか無責任な責任感というか、とにかく自分がどうにかしてやらないといけないとか思ったりして多少積極的に話しかけるようになったんだったな。まぁ途中で拒絶の言葉を言われてからはやめたけども。


 しかし、河合曰くその言葉は本心ではないらしい。にもかかわらずどうしてそういう事を言ったのか気にはなるが、今かける言葉は別の言葉だろう。高校になった今、河合は変わろうとしている。なのに中学の頃の河合に、あの目に戻しちゃだめだ。


「河合の気持ちはよく分かった。でも大丈夫だ。俺は気にしてない。許すっていうのもなんか違う気がするけど、そんな感じで」

「ほ、ほんと!?」

「当たり前だろ? ていうか嫌われてると思ってたのにそれが誤解と分かって嬉しくない人なんていないさ」


 俺のせいで気をもんでほしくないので努めて明るめに言うと、河合は「そ、そっか」と詰まり気味に言いながらもふわりと頬を緩める。先ほどの憂いた目も今は影を潜めていた。


「えと、その、ほんとに、許してくれるの、かな。今までのわたしを」


 河合は少し恥ずかしそうにもじもじ小ぶりのツインテを揺らしながらもそんな事を尋ねてくる。当然答えは決まりきっていた。


「もちろん。むしろ俺こそ河合が色々気にしてくれる羽目になった事を謝りたいくらいだよ」


 実際、それは本心だった。これまで河合は俺の事が嫌いだから避けているのかと思っていたが、実は俺の事を考えて気をもんでいたからこそ避けていたという。それは要するに俺みたいな野郎に気を遣ってくれていたという事で、もちろん多少嬉しくもあるが、やはり申し訳なさの方が大きい。


「お、忍坂君こそ、気にしないでいいよ」

「そう言ってくれると助かる。ただまぁこのままっていうのも申し訳ないしそうだな、何か頼み事でもあったら言ってくれ。可能な範囲なら聞くからさ」


 言うと、河合はふと目を伏せた。

 何かまずい事でも言ってしまったかと不安になっていると、河合がおもむろに口を開く。


「え、えと、それじゃあ一つだけいいかな……」

「いいぞ、何でも言ってくれ」


 あかりならともかく河合の事だ。あまり実現不可能な事は言ってこないだろう。

 次の言葉を待っていると、やがて河合は顔を上げると、その頬は少し火照っているような気がした。


「その、お付き合いとか、してくれたら嬉しいかなって……」

「え?」


 河合はなんて言ったのだろうか。別に俺の聴力に問題はないはずだ。それとも突発的に何かおかしなことになってしまったのだろうか。


「今、なんて?」


 確認のためにもう一度尋ねてみると、河合は一層顔を紅くする。


「えと、お付き合いしてくれないかなって……」


 河合はぷしゅ~と湯気が立ち昇るほど赤面している。

 お付き合い。確かに河合はそう言っていた。


 お付き合いって、え? まさかそっちの……? いやいやいや、そんなわけ無いか。無いよな。うん。まったく俺の頭はどんだけお花畑なんだか。これはあれだな、ラブコメでよくある誤解パターンだ。お付き合いっていうのはショッピングとかそういうのでしたーってやつ。きっと数秒後には河合が慌てて訂正してくれるに違いない。やったぜ! かつて願っていた青春ラブコメ展開だ! 


 というわけで数秒待つと、案の定河合は胸に手を当て少し乗り出し気味に言葉を続ける。


「じ、実はわたし、中学の頃から忍坂君が好きでした!」


 打ち砕かれた。

 俺はあかりとは違ってそれなりに空気感は読めるし、国語もむしろ得意な部類に入る。というかあかりが特殊なだけで、普通の人なら誰だって想像できるだろう。

 その好きの意味を。


 ただ、まだ確定できるかと言えばそれはそれで早計な気がする。何せあまりにも急すぎる。普通こういう気持ちは例えば何度か遊んだり話したりしてそれでようやく伝えるものじゃないのか。あるいはそれは俺がヘタレなだけなのだろうか……。


 まぁ確かに、俺と河合はよく昼飯を共にしたり教室移動を共にしたりはしてたか。ただそれは例外なくあかりがいる時であり、しかも仲良くという感じでもなく、いかにも他人という感じで、話した事なんて全くと言っていいほどなかった。それほどまでに当時の俺と河合の壁は厚かったのだ。


 だからこそ、この告白は俺にとってあまりにも唐突だった。


「河合、」


 とにかくあまり間が空くのはよくない気がしたので、名前を読んでみる。

 河合は、僅かに肩をピクリとさせ、上目がちにこちらを覗き込んでくる。その所作は控えめな河合らしくもあり、また保護欲をそそるその様は世の男性の多くはときめくのだろう。しかも河合は顔も可愛い。


 一度保留して誰かに尋ねてみるべきか? 姫野さんか、あかり……は無いが、何樫とかに尋ねてみれば、この急な告白がなんたるか分かるかもしれない。


 ……いや。よしておこう。

 もし仮に何か河合が間違って、それで急にそう言ってしまったと判明するのならそれでいい。けど、もしこの告白は河合の本心だったのだとすれば、遅らせる事はあまりに酷い仕打ちだろう。何故なら、何を聞いたとしても、いくら遅らせたとしても俺の答えは変わる事が無いのだから。


 そもそも、これが何かの間違いにせよ、本心にせよ、俺が言うべき言葉は一つだけだった。


「すまない、俺はその気持ちには答えることができない」


 言うと、河合が僅かに吐息を零す。その瞳は僅かに揺れている気がした。

 どうかこの河合の気持ちが間違いであってほしい。それならきっとそんなに時期を置かずに河合は気付くはず。

 だからこの場は我慢だ。一過性のものに違いない。


 場に重い空気が漂う。

 手元のコーヒーの湯気は出来た時よりだいぶ少なくなっているようだった。

 河合を直視できず揺れないコーヒーの水面を眺めていると、ややあって、小さな声が耳に届く。


「そう、だよね。やっぱりわたしは駄目、だよね」


 河合が僅かな微笑を浮かべる。


「……悪い」


 言葉を繕えば繕う程墓穴を掘りそうな気がして、何も考えられず返答もつい素っ気ないものになってしまう。流石によくないか?

 今からでも何か付け加えるべきかと言葉を探そうとすると、伏し目がちに河合が言う。


「ううん、わたしの方こそ、ごめん。普通の子はいきなりそういう事言ったり、しないんだよね……」

「それは、どうなんだろう……」


 正直分からない。俺自身に限って言えばそんな気もするが、それはあくまで俺の主観だ。正しい保証なんてどこにも無い。

 しどろもどろな返事をしてしまうが、河合の中に既に答えはあったらしくきっぱりと言う。


「普通、言わないと思う」

「そ、そうか」


 以外にも決然として言うので少し戸惑ってしまうが、それはつまり少なくとも俺の抱いた感想を河合も自覚していたという事になる。だとすればどうして河合は。

 疑念が胸中に生じるのを感じていると、河合が不意に立ちあがる。同時に、その姿が交流会の時の河合と重なった。


「今日は呼び出してごめんね。わたし、そろそろ行くよ」

「えっ、ああ」

 

 河合が自らの分の代金を伝票に添えると、椅子を机に入れる。


「今までの事は……忘れてくれると嬉しい、かな」


 それだけ言い残すと、河合は足早に店を去ってしまう。

 その背中は小さいにも関わらずどうにもたくましく、それでいて何か不自然な違和感を纏っている気がした。



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