第17話 大人な唇、小さな優しい手、暴君の残り香

「カオ」


 香ちゃんの顔を包み込むように撫でながらまほよさんが顔を近づけます。香ちゃんは動けません。まほよさんの静かに燃える瞳とぷくりと柔らかそうな唇が迫ります。いくら背丈は低くてもその唇は大人の女性のものです。唇が首筋に当てられます。柔らかい感触で触れたそれは熱を伴いわずかな圧で香ちゃんの肌を吸い上げ、み込もうと震えます。


「ん、んんっ! だめっ! まほよちゃん」


 抵抗を試みますが途端に鋭い痛みが走ります。まほよさんが歯を立てたのです。


「それ以上暴れるなら、あとつけるわ。わかるわよね、カオ?」


「!!!」


 首筋に突然キスマークなんてつけて接客に戻れるはずがありません。ましていまは誠司くんがいます。香ちゃんは無我夢中でコクコク首を縦に振ります。


「……また誠司のこと、考えてる」


 顔に巻き付けるように腕を絡めてまほよさんが視線を自分に向けます。


「いまは私だけを見なさい。ううん、私の匂いだけを感じなさいがいいかしら?」


 そう言って指先でケモ耳をもてあそびながら彼女は器用に自分のシャツの胸元をはだけさせます。


「まほよちゃん、そんな……!」


「あんたにとってそっちの耳がどんなものかは知ってる。匂いを通じて相手の心が理解できるくらい敏感なセンサーなんでしょう?」


 まほよさんの言う通り香ちゃんのケモ耳は聴覚をつかさどる器官ではありません。先ほど店内の状況を察知してみせたように鼻以上に繊細に匂いを感知して相手の感情の揺らぎ、ときに心の音色さえも聞き取ることの出来る第六の感覚器官なのです。


 それゆえこの子に与えられた名前は『六音香』なのです。


 けれど鋭敏な感覚はときに心にとって毒ともなります。相手の心に触れることが出来るということは自身の心もまた剥き出しになってしまうも同然だからです。

 人がひしめき合って暮らす世界は香ちゃんにとって息苦しいどころのものではありません。感情の奔流ほんりゅうが致死量の毒となって心をむしばんでしまうのです。


 まほよさんがはだけたシャツをパタパタとあおります。つつましい膨らみと下着が見え隠れしていますが香ちゃんにとってはそれどころではありません。ケモ耳にまほよさんの匂いがじかに触れようとしているのですから。


「い、いや……」


 怖い。

 剥き出しの心は怖い。

 知ってしまうことが怖い。傷つくのが怖い。

 これで傷つくことを知っている。これでたくさん……傷ついたから。

 震える香ちゃんの爪がみるみるうちに伸張しんちょうし鋭くとがりだしました。怯えた握りこぶしにその爪が食い込もうとしています。


「私から逃げないで、カオ」 


「え?」


 けれどその爪は香ちゃんに刺さることはありません。そうなる前にまほよさんの小さな手がキツく深く絡められていたから。 


「大丈夫、だから」


 香ちゃんの動きが止まりケモ耳にまほよさんの感情においが触れます。


 甘く優雅な香り。初めて会った日から彼女はいつもいい匂いでした。女磨きを欠かさない彼女の髪も肌もピカピカで上品な香りが漂っていました。

 甘酸っぱい香り。小柄で働き者な彼女の身体は熱く汗ばむこもしばしばです。じゃれ合うときにツンと鼻をくすぐるその匂いが好きでした。

 からさを覚えるほどの刺々しい匂い。激しい情を抱えた彼女の怒りはときに香辛料のような匂いで香ちゃんを痺れさせます。


 いま彼女の胸の内には苦々しい香りが立ち込めています。嫉妬の心は何もかもを焼き尽くした後の灰のような香りです。けれどそれだけの熱を発したのは、香ちゃんが好きだから。

 そしてその『好き』はいまも温かいままでした。


(私を……私のことを。わた、しの……?)


 感情の波に飲み込まれそうになる香ちゃんの意識にとても懐かしい匂いが触れます。とても懐かしいのになんだったのかも思い出せない匂い。それはとても当たり前で……香ばしくて。


「コ、ヒィ……?」


「そっ、目ぇ覚めた?」


 焦点が合い始めた瞳にまほよさんが映ります。彼女は香ちゃんを頭を胸に抱きながらケモ耳に息を吹きかけていました。 


「なに、してるの?」


「わかんないの? あんたのケモ耳もいい加減ねぇ」


 まほよさんの意図が掴めず匂いに再び耳をませると香ちゃんは気づきました。


「……私の匂い?」


「そーよ、私も飲んだからね。あんたのコピルアク」


 そう言われるとそんな気がします。自分の匂いだから懐かしくて当たり前です。


「カオ、あんたと私はもうとっくに繋がってんのよ」


「え?」


 香ちゃんと絡めていない方の手で優しく頭を撫でながらまほよさんが続けます。まるで子供に枕もとで童話を読み聞かせるお母さんのような柔らかな声で。


「相手の心の内が分かってしまうのは怖いでしょうね、きっと。けど、分からないまま過ごすっていうのも結構怖いもんよ?」


 うなずきとも身じろぎともつかないほどの香ちゃんの動きにまほよさんの指先がトントンと髪をつついて応えます。


「誰も彼も怖がってるわけね。まあ……あんたと同じって人は少ないから大変なんだけど」


 言いながら遠くを見つめたまほよさんの視線が香ちゃんのケモ耳へと戻ります。その頭を抱きかかえ胸に押し当てます。ギュッと瞳を閉じてそれから「けどね、」とまほよさんは続けます。


「私たち……私とあんたは、一緒にいたでしょう?」


「……うん」


「私だけじゃなくて店長や雲雀とかもね。とっくにお互いの匂いが交りあった場所に私たちはいる……だからひだまりは……少なくとも私の隣は、六音香あんたがいてもいい場所なのよ」 


「………」


「あんたは時々、ぶつかってきたいのか逃げたいのか分からないときがあんのよ。コピルアクのことにしても誠司くんのことにしてもね」


 まあ仕方ないことかもしれないけどね、と苦笑してからまほよさんは香ちゃんに顔を上げさせ微笑みかけます。


「ここは大丈夫な場所なんだから、逃げなくていいの。ううん……逃げないで」


 その想いが胸に響いた瞬間、香ちゃんの瞳から涙がこぼれました。誰も知らない場所にため込まれていた痛みが忘れていた時間を思い出したかのようにあふれれ出ます。


「まっ……ぼょ、ぢゃ……んっ!」


 心のままに香ちゃんはまほよさんに飛びつきました。そしてワンワンと泣き出します。けれどここには香ちゃんの感情をさえぎるものはなにもありません。

 この子の涙を抱きとめてくれる、ひだまりの小さな暴君が君臨するだけでした。


○●○●○●


 ちーーんっ


 泣き止んだ香ちゃんが差し出されたティッシュで壮大に鼻をかんでいます。ちょっと香ちゃん流石さすがにそれはないじゃという感じですが、どうも変ですね。よく見ると香ちゃんはまほよさんを直視出来ていないし何度も鼻かみの仕草を繰り返してます。照れてますね、コレは。


「ちょっとは落ち着いた?」


「う、うん……なんとか」


 腰に手を当てて香ちゃんを見下ろすまほよさんはまったくと嘆息たんそくします。


「大体ね、カオ。あんたいままでどれだけダイレクトに私たちの体にマーキングしてきたと思ってんの?」


「そ、それは……!」


 これは香ちゃんのコピルアクを振舞った回数とイコールです。それなり以上の回数ですね。


「ほんとは不安で寂しくて皆に匂い付けしたがってるクセに、いつもいつも『ケモってないケモってない』なんて言って……!」


「う、うう……!」 


 返す言葉もないようです。


「さっきも言ったけど突進か逃走の極端な2択じゃなくて、ゆっくり進んでいけばいいのよ……ここからね」 


「まほよちゃん……!!」


 そう言ってほほ笑むまほよさんは太陽のようで香ちゃんの表情も明るく華やぎます。これはもう、まほよさんのことは暴君などと呼べないかもしれません。

 

「………」


 パァァッと輝く瞳で自分を見つめる香ちゃんをしばらく眺めていたまほよさんが不意にグイッと近づきます。


「私からもカオにマーキングしとくわ」


「へっ?」


 まほよさんが香ちゃんのケモ耳をパクリと口に含みました。それから、やらしい舌の動きでレェロレロォリと香ちゃんの敏感なところをかき回し始めました。


「んにゃ!? うにゅぅぅぅんっ!!!」 


 すかさずにもう片方のケモ耳も指でこねくり回しています。ご丁寧に汗ばんだ胸元の熱をすくい取ってから。


「にゃぁっ!! あっ、ああ!!」


 今度は香ちゃんが身悶みもだえしても攻めの手をめません。やっぱりこのロリはとんでもない暴君です。


「にゃっ! あ、あ、あっ、ああ……!」


○●○●○●


「ほら、いつまでも休憩してないで着替えてから来なさいよ?」


 サボりを叱責する調子の台詞せりふを残してまほよさんは更衣室を後にしました。

 残された香ちゃんはというと。


「んっ! んん!」


 床の上で体を丸めてビクンビクンしています。


「ひ、ひどい……誰にも触られたことないデリケートな場所なのに……」


 悶えながらも自分でケモ耳を撫でて気を落ち着かせようとしています。


「ふぇぇぇ……敏感な場所、なのにぃ……」


 ビクンビクン


「まほよちゃんの愛情ラヴ、刻まれちゃったぁ……!!」


 倒れたまま体を痙攣させている香ちゃんの瞳のなかでハートマークがキュンキュンしています。

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