第15話 喜び花咲き、暴君の影

「にゃうん~♪」


 気まずい沈黙を誤魔化ごまかすためにコーヒーカップを手にした香ちゃんでしたが口元に寄せただけで鼻腔びこうをくすぐるその香りに思わずニヤけてしまうのでした。誠司くんが飲むのを待たずに至福の一杯にくちづけします。


「……にぃぃ……んん~っ!」


 特製コーヒーを口にするとニヤけ顔から一瞬だけシタり顔に変わり、それからクシャッとした笑顔で身もだえする香ちゃん。彼女の表情はコロコロと移り変わってゆきます。 


「美味しそうだね、香ちゃん」


「うん~~!! 美味しいよぉ! 店長さんは天才だよぉ♪」


 クネクネにゃんにゃんと余韻よいんひたっている香ちゃんを誠司くんは少し呆れた顔で見守っています。香ちゃん当初の目的を忘れていますね、コレは。


「って! 誠司くんも飲みなよ!? 美味しいからっ、実際っ!」


 噂をすればなんとやら。どうやら思い出してくれたみたいです。ブンブンと手を振って飲め飲めとうながし始めます。これがお酒だったらアルハラというやつになるのでしょう。


「うん」


「さぁ、さあさあっ!!」


「香ちゃん、ちょっと静かにして」


「……はい」


 香ちゃんテンション上がり過ぎですね。

 気を取り直して誠司くんがコーヒーカップを口元へと運んでいきます。


「………」


 ブンブンブンブン 


「………」


 ブンブンブンブン じぃ~~~!!


「……香ちゃん。手、ブンブンしないで。あと、見過ぎ」


「……にゃい」


 無言なら無言で騒がしい香ちゃんでした。ご飯を目の前に「待て」を言われたワンチャンのように自分の様子をうかがう香ちゃんから少し顔をらしてから誠司くんは今度こそコーヒーを口にしました。


「え? これ、コーヒーか……?」


(にぃぃぃっっ!!!)


 うまいまずいの前になにかの間違いじゃないかという表情を浮かべている誠司くんですが、特製コーヒーに対して悪い印象を覚えていないことは間違いないようです。その様子に香ちゃんの身体と心がポカポカと喜びにき立ちます。


(私の匂い、染みてく溶けてく混ざっていく……!)


 匂いという形で想い人の身体の芯まで自身の存在を寄り添わせることに香ちゃんの盛盛ケモケモは最高潮に達し、喜びの華が咲き誇ります。そして、だらしない笑みがこぼれました。


「えへっ、ニャァイ」 


 あれこれ言いながら不思議そうに再度コーヒーを口にする誠司くんの姿に香ちゃんの喜びは大きく広がってゆきます。匂いという移ろいゆくかすかなものが静かに、深く彼を包み込んでゆく様はひだまりのなかのまどろみに似た穏やかなものでした。


(ああ……! 幸せぇ!)


 そしてそれらが渦巻き混じり合ったとき、香ちゃんは幸せを胸に抱きました。それはまだ小さく相手には届いてはいませんが揺るぎない確信でした。


 私には、この人なんだ……!

 

「……っと」


 もっと幸せになりたい。幸せにしたい。一緒に。

 そう思った途端ぞわっと香ちゃんの身体のナカで欲望が咆哮ほうこうしました。それは目の前の幸せに手が触れていないせいで切ない音色をかなでます。


(やっば! 正直、辛抱たまんない……鼻血、出てないかな?)


 思わず鼻へ手の甲を寄せて確かめる香ちゃんの眼はいまや完全に肉食獣のそれです。心象風景は穏やかそのものなのに香ちゃんの表情はいまやハンターの顔です。


「美味しいよ。こんなコーヒーあるんだ……って、香ちゃん? どうしたの?」


「えっ!? えぇ、っとぉ……」


 珍しくハイテンションな誠司くんの瞳が香ちゃんの姿をとらえるとスワッと見開かれ、彼の身体はピシリと固まりました。一方、香ちゃんの瞳は泳ぎまくってます。クロールどころかバタフライしような勢いで。


(君を押し倒したいですっ!! じゃ、なーーいっ!! そうだけど! そうじゃないっ!!)


 即物的で唐突な熱情をなんとか抑え込んだものの、その先の言葉が見つかりません。伝えたい想いはハッキリしているのに、それをいま伝えるべきでないこともまた明確でした。そんなジレンマのなかでどんな言葉を紡げばいいのか分からず香ちゃんはただアウアウするばかりです。


(えっと、アレ? あれ? どうすれば!? ※※※※※※※どうしよどうしよ!?)


 だいぶテンパッてますね。頭の中であっちとこっちの言語が混線こんせんしちゃってます。こうなってはおしゃべりどころじゃありません。感情の咆哮ほうこうと答えの見えない思考が渦巻いたグチャグチャに香ちゃんはあっと言う間に溺れてしまいます。

 溺れかけているのならまづは落ち着いてジタバタしないことだというのは理屈ですが、溺れかけているのだから錯乱さくらんしてただジタバタしているのだというのが我らが香ちゃんの実情です。


「えっと、えっと……その」


「あの、香ちゃん……?」


 急にキョドり始めた香ちゃんに誠司くんが手を伸ばしかけます。獣人の優れた五感がその様をゆっくりと香ちゃんに展開していきます。


(近づく、触れる、彼の手……触れたい。でも、それはダメ。抑えられなくなる。でも、でも……避けれない拒めない。だって、触れたいから。でも、それはダメで……)


 時の流れが間延びした世界で思考はカラ回りするばかりで何も決断できないままの香ちゃんに誠司くんの手が迫ってきます。


(う、うう……!)


 誠司くんの手が触れようとしたまさにそのとき、突然舞台のまくが下りました。


(あれ? コレって……)


 タンッ


「失礼します」


 それは慣れ親しんだ甘くてピリリとからい匂い。大好きな友達の ― ちいさな暴君がまとうマントでした。靴音を鳴らし、誠司くんと香ちゃんの間に割って入って来たのはまほよさんです。


「そろそろ六音さんには戻ってもらいます。今日の所はここまで……そういうことでお願いします」


 静かに、けれど有無を言わせぬ雰囲気で告げてまほよさんは香ちゃんの頭に手を乗せます。途端に世界は元の姿を取り戻し香ちゃんの意識も平静を取り戻します。


(ま、まほよちゃ~んっ!!)


 わしわしと頭を撫でられながらまほよさんの後ろ姿にヒーローめいた格好良さを覚える香ちゃん。見ると隣には店長も控えています。見た目だけなら虎のる狐ですが、この小さな狐さんは実際に大虎を従えてやって来たのでした。


「そういうわけだ。話し足りないかと思うが香くん、戻って欲しい」


「あっ、はい……」


 店長の言葉に香ちゃんは立ち上がろうとするものの、軽く腰砕けになっているせいでなかなか上手くいきません。そこへすかさず手を差し伸べてくれるのはやっぱりまほよさんです。


「あ、ありがと、まほよちゃん」


「どういたしまして、


「ふぇっ!?」


 普段呼ばれない苗字呼びに驚いた香ちゃんですがまほよさんと目が合った瞬間、全てを悟りました。


※※あっ※※※やっばい……※※※※※※※※※めっちゃ怒ってる!!)


「さっ、行きましょうか。


「う、うん、了解だよ、馬堀さん」


 どう応対したものかと悩みとりあえず相手に合わせて苗字呼びする香ちゃんですが、その瞬間まほよさんの眉がヒクつきます。


「………」


 ギュッ!!


「いだゃいっ!」


 まほよさんは何も言わずに介添かいぞえに絡めていた腕で器用に香ちゃんのわき腹をつねりました。

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