第8話
七月
ふっと悪寒がして顔を上げると、窓から見える空が赤黒く焼けていた。きれいだと思うべきか、禍々しいと思うべきか、一瞬迷ってしまう。
最近はずいぶん日が長くなってきたけれど、それでも必ず夜はやって来た。夜、それ自体は嫌いではないのに、私はどうしても夜の気配が好きになれない。好きになれないというよりも、はっきり言って嫌いだ。
紙パック入りのカフェオレをストローで吸う。しかし既に中身は無くなっていて、ずうずうと不快な音がするばかり。
はやく帰りたい。
帰ったところですることもないし、夜の気配から逃げられるわけでもないが、それでも、はやく帰りたいと切実に思う。
「あ、読んだ? どうだった?」
声の方を見ると、嬉しそうな顔をした先輩が身を乗り出している。
はやく帰りたいのは日が落ちてきたからであって、決してこの人のせいではないのだと自身に言い聞かせ、私は必死で笑顔をつくる。
「あの、まだ、あともう少しです」
村田だったか、田村だったか、いや、後藤だったかもしれない。
よく覚えてはいないけれど、とりあえずは先輩とだけ呼んでおけば問題はないと思う。私にNのことを教えてくれた、二回生のマンガ研究会の先輩。
私は手元にある、先輩の描いた作品に目を落とす。
問題があるのはこちらだった。
どこから、何を、どう言って良いのか、わからない。小説もマンガも、多少は読む。だからおもしろいとかつまらないとか、その程度の簡単な感想なら言えると思った。
描かなくてもいい。読んで、感想さえ教えてもらえたら、まずはそれだけでいいからという話でサークルに入ってみたのに。
まさか何の感想も浮かばないマンガがあるなんて思ってもみなかった。
「どうかな? おもしろい? それとも……」
「まだです。あともう少しですので……」
先輩一人きりだったマン研には部室に当たる部屋が無い。
だから、このサークル活動はラウンジの片隅で行っている。
お昼時にはあんなに混雑するラウンジなのに、放課後の今はほとんど人がなく閑散としていた。同じラウンジでも時間帯によってはここまで雰囲気が変わってしまうなんて、不思議な感じがするというよりもなんだか気持ち悪い。まるで知らないうちに、どこか変な世界にでも紛れ込んでしまったみたいだ。
ちらりと見れば、窓際のいつもの席にいつも通りの様子でNが座っている。いつ見ても本を読んでいるけれど、一体どんな本を読んでいるんだろう。
「読めた? どうかな? 読み終わったかな?」
「……ええと」
何か言わなければ、とは思う。
でも、何を言ったら正解なのかわからない。
どんなキャラクターがいて、どんなストーリーなのかは、だいたいわかる。上手くはないけれど一コマ一コマ丁寧に描かれているから、何がどうなっているかもわかりやすい。キャラクターたちの性格もよく出ている。物語の展開に難しいところはなく、読みにくさはないのだけれど、それだけだ。
おもしろくもなければつまらなくもない。
何かしないと、と思ったから。
何かしないと、何もないと思ったから。
だから、行動してみたはずだった。人付き合いが苦手で、面倒くさいことが嫌いで、だからこんな私でも何とかなりそうなところを選んだつもりだったのに。
何かしないと、と思ったこと。それ自体はたぶん間違いではなかったはずだ。
なら、間違えたのは入るサークルだったのだろうか。いや、サークル選びを間違えたのではなくて、そもそも私なんかがサークルに入ろうとしたことが間違いだったのかもしれない。
「読めたかな? 感想、はっきり言ってもらって大丈夫だから」
「……」
出来ることなら何もかも放り出して、もう一度元からやり直したい。やり直したところで上手くいくかはわからないけれど、少なくとも今の私よりはもっと正解に近い答えを出せるんじゃないかと思う。
日が沈んでいく。
じわじわと存在の主張を始める夜の気配が鬱陶しい。
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