第64話 昔語り
「くそっ……、止まれっ!!」
そしてそのリムジンと正面からぶつかる寸前で浩一はそのボンネットに片手を付き、勢いよく体を跳ね上げた。と同時に変則的な受け身の体勢を取りつつ、勢いを殺す為にボンネット上を横転し、フロントガラスにぶつかる。当然視界を遮られた運転手は仰天したらしく、激しいブレーキ音と共に停車した。
「ばかやろう!! 死にてぇのなら、よそでやれっ!!」
「悪い! 彼女に話があるんだ!」
護衛を兼ねているであろう運転手が降りて鬼の形相で怒鳴ってきたが、ボンネットから滑り降りながら軽く謝罪をしただけで、浩一は後部座席左側に回り込んだ。そして窓ガラスを軽く叩く。
「何か?」
ゆっくりと窓が開いてくる途中でのんびりとした口調で桜が尋ねてくると、浩一は彼女に向かって深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
唐突な謝罪の言葉にも桜は動揺する素振りを見せず、冷静に問い返してきた。
「その謝罪の言葉は、たった今、乱暴にこの車を止めた事に対しての言葉かしら? それとも、他の事に対しての言葉なの?」
「両方です。そして……、ありがとうございました」
彼女の問いに、浩一は一度頭を上げて真摯な顔つきで告げる。そして再び頭を下げた。
(やっと納得できた。あの屋敷に居た時、彼女は幸せでは無かったかもしれない。だけど決して不幸でも無かったという事を)
自分でも不思議な程穏やかな心境にいた浩一の頭上から、ここで楽しげな笑い声が響いて来た。
「……ふふっ、蓮の言った通りね」
そう言って座席に座ったままクスクスと笑っている桜に、浩一は何かそんなに笑われる様な事をしたのかと不思議に思って頭を上げた。
「あの……、何か?」
「あら、ごめんなさい。急に昔の事を思い出したものだから」
すると浩一の戸惑いを感じたのか、桜が謝罪しつつ昔語りを始めた。
「何年前になるかしらねぇ、ある時楓が『最近、店に変な客が来ている』と言い出したの。詳しく聞いたら『椿の事をいつも見てるくせに、絶対指名しない変な若造』だそうで」
(それは俺の事……、だよな?)
そこで再びクスクスと笑われ、当然その人物について心当たりが有り過ぎた浩一だったが、桜が特に自分の意見を求めてはいないだろうと判断し、黙って話の続きを聞く事にした。
「その話を聞いた数日後、楓からその男が来店していると連絡があって、急遽蓮を連れてこっそり店に様子を見に行ったの。そして楓に教えて貰って、その若造とやらを見たんだけど……、私、全然気に入らなくてね。だってあの頃のあなただったら、間違っても私達に頭を下げる様な真似はしなかったでしょう?」
(ばっさり切り捨てられたが、不思議と反感は感じないな。この女性から見たら、当時も今も、俺なんかは青臭いガキに過ぎないだろうし)
含み笑いでそんな事を言われてしまった浩一だったが、表情を変えずに無言を貫き、桜は機嫌良く話を続ける。
「私が『あんなのは問題外よ』と言って帰ろうとしたんだけど、蓮が『確かに現時点では無理でしょうが、十年後はどうなるか分かりませんよ?』と言ったの。正直、私は十年経っても無理だと思っていたのだけれど……。そうしたらその後、その人じゃなくてお友達が椿を『アシスタントにくれ』と言って来たでしょう? もううちの人と爆笑しちゃったわ。あんなに笑ったのは何年振りだったかしら。自分の存在を下手に隠そうとするのも、お友達の無茶な頼みをきいてしまうのも、可愛くて馬鹿馬鹿しくてね。若いって良いわねぇ」
そうしてまたひとしきり笑ってから、桜は急に顔付きを変えて言い出した。
「それでうちの人が『どうしたものだろうな?』と私に意見を求めてきたので、先の蓮の意見を踏まえて十年間、時間をあげてみる事にしたの」
「十年?」
言われた意味が分からずに浩一が怪訝な顔をすると、桜は真顔で続けた。
「ええ。屋敷を出て十年経っても椿が独りだったら、二億で買い戻す約束で外に出したの。お断りしておくけど、うちの人が死んでも私が生きている限り、その約束は有効よ」
(ああ、そうか。そういう事か)
桜の告白を聞いて、浩一は去年から清人が仕組んだあれこれの理由が、漸く腑に落ちた。そして黙り込んだ彼に、幾分からかう様に桜が問いかける。
「聞いていなかった?」
その問いに、浩一は素直に頷いた。
「はい」
「怒った?」
「ええ……。自分自身に、ですが」
「そう……」
薄く笑って応じた桜だったが、ここで思い出した様に付け加えた。
「ああ、そうだわ。あなたのお姉さんに、何かの折にお礼を言っておいて貰えるかしら?」
「姉に、ですか? 何の事についてでしょう?」
「あの子と、随分仲良くして貰っている様だから。それと、この前の件は確かに承りましたと、伝えて貰えれば分かるわ」
「分かりました、お伝えします」
戸惑いつつも了承した浩一だったが、ここで桜が話を終わらせようとしているのを感じ取り、慌てて問いを発した。
「あの、ついでに一つ、教えて頂きたい事が有るのですが」
「何かしら?」
「毎年、彼女の誕生日に、あのケーキ皿で全員でチーズケーキを食べていましたよね? どこのお店の商品でしょうか?」
「あら、椿から聞いたの?」
「はい。あれだけ美味しいチーズケーキは、食べた事がないと言っていましたので」
「……そう」
そこで桜は何故か苦笑いしてから、申しわけ無さそうな顔になって、軽く頭を下げてきた。
「ごめんなさいね。それは売り物ではないの。毎年屋敷の厨房で作っていたのよ」
「そうでしたか。それでは厚かましいのですが、レシピを頂けないでしょうか」
「それも無理なの。主人のお棺に入れて、一緒に燃やしてしまったから」
それを聞いた浩一は、不思議に思った。
「燃やしたって……、どうしてですか?」
「実はうちの人が作っていたのよ、そのケーキ」
「は?」
(今、『うちの人』って言ったか? まさか加積老の事じゃないよな? 何か聞き間違ったか?)
当惑しながら必死に考えを巡らせた浩一だったが、そんな心中を読んだ様に、桜は盛大な溜め息を吐いてから重ねて説明した。
「聞き間違ったんじゃなくてよ? あれを作ったのは、正真正銘、私の夫の加積康二朗。これはね、私達だけの秘密。蓮も楓も椿も知らないわ。似合わないでしょう? あんなナリで、お菓子作りが趣味だなんて」
「いえ、その……、どんな趣味を持つかは、個人の自由かと……」
半ば呆然としながらも、何とか事実として受け入れようと努力を続ける浩一の前で、桜が愚痴を零した。
「使用人や出入りしてる者達に示しが付かないからって、ずっと私が作った事にしていたのよ。だからあの人がお菓子作りに精を出している間、私は一緒に厨房に缶詰になって、他の人間が覗かないように監視してなくちゃいけなくて。私は料理なんかに興味は無いのに、全く、毎回いい迷惑だったわ」
「……ご苦労様です」
料理に対する執念が皆無な母を持つ浩一としては、何となく桜のその反応に既視感を覚え、思わず神妙に頭を下げた。それを見た桜が小さく笑いながら、当時の状況を告げる。
「あの子が屋敷に来て初めての暮れに、色々ケーキを取り揃えて反応を見たのだけど、あの子ったら一番地味なケーキを選んでね。あの子の考える事なんてお見通しよ。それであの人が『他にも色々美味そうな物が有るのに、一番ありふれた物を選びおって』と大層怒ってね。だから『意地でも美味いと言わせてやるぞ』って、何種類か試作して一番美味しくできた物を、あの子の誕生日に出したのよ」
「そう、でしたか……」
「八等分にカットして一つずつ銀紙に乗せて、箱に詰めて、さも貰い物という体裁を装ってね」
そこで浩一は確信しながら問いかけた。
「彼女は美味しいって言ったんですよね?」
「いいえ? そんな事、一言も言わなかったわ」
「……え?」
さらっと言われた内容に浩一は首を傾げたが、桜は説明を加えた。
「ただ、一つ食べ終わった後で、こう言っただけよ。『余っているようなら、もう一つ頂いても宜しいでしょうか?』って。……初めてだったのよ」
急にしみじみと感慨深く語った桜に、浩一は訝しげに尋ねた。
「何が初めてだったんですか?」
「あの子は自分の生活に必要な物や、自分の立場上必要な事柄については、勿論それまでにも口にしていたけど、『何がしたい』とか『これが欲しい』とか、本当に自分の為だけの要求を口にしたのがよ」
「…………」
そう言われて、恭子の普段の生活や思考パターンを思い返した浩一は、それが相当珍しい事であったのだろうと納得して黙り込んだ。その考えを裏付ける内容を、桜が付け加える。
「いつも他人の顔色を窺って、私の影すら踏まない様に、常に三歩下がって歩いている様な状態でしたからね。『味はどうだ?』なんて感想を聞かれない限り、あの頃の椿だったら美味しいとも不味いとも口にしなかったでしょう。それがかなり恐る恐るだったけど『もう一つ下さい』と言ったのよ。もううちの人が、大層喜んでしまってね。勿論、顔になんか出さなかったけど、仏頂面のまま『じゃあ年寄りは要らんから、若いので分けろ』と言って、残っていた三切れを蓮と楓と椿に一つずつ分けたの。その翌年からは、最初から私達夫婦には一切れずつ、あの子達には二切れずつ配ったわ」
その話を浩一は黙って聞いていたが、桜は急に首を振り、残念そうに話を続けた。
「でも……、そういった事はその時一度きりでね。椿は屋敷に居る間、万事大人しく私達の言う事に従って、とうとう自分の意思を表に出す事はしなかったの。だからうちの人は、そのレシピを余計に大事にしていてね。誰にも、私にすら触らせないで、あの世にまで持って行っちゃったわ。全く……、屋敷には世間に流出したら拙い物がごまんと有るって言うのに、そんな物だけ後生大事に持って行って、後始末は丸ごと私に押し付けるなんて、最低の亭主だわ。そうは思わない?」
「あ、いえ……、その……」
どうやら本気で怒っているらしい桜に、浩一は何と言えば良いかと困惑したが、彼女はすぐに笑って謝ってきた。
「だからそのレシピは、もうこの世に存在していないの。ごめんなさいね?」
「いえ、良く分かりました。ありがとうございました」
そこで釣られた様に僅かに顔を綻ばせた浩一に、桜は満足した風情で頷き、別れの言葉を口にした。
「それでは失礼します。もうお会いする事は無いと思うけど、お元気で」
「そちらもご壮健で」
そしてスルスルと窓ガラスが上がり、桜が命じたらしくリムジンは緩やかに発進した。それに向かって浩一は深々と頭を下げて見送ったが、再び顔を上げた時には、その車は彼の視界の中には影も形も見当たらなかった。
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