第65話 陰でのやり取り

 重い溜め息を吐いてから、浩一は偶々帰宅した住人と一緒にエントランスの自動ドアを通り、部屋へと戻ったが、ここで鍵を持たずに出た事に気付いてオートロックで無かった事と、先程他の住人が居合わせた事に感謝した。本来であれば自動ドアの前で恭子を呼び出して、中からロックを外して貰えば良いのだが、なんとなく応答してくれなさそうな気がしたからである。

 案の定リビングに、恭子の姿と桜が持参した箱は無く、彼女の部屋に向かってみた浩一はドアをノックしようとして躊躇い、次に軽くドアノブを回してみて内側から施錠されている事を確認してから、無言のままリビングに戻った。

 色々有り過ぎて、とてもこのまま食事を続行する気分になれなかった浩一は、脱いでおいた上着のポケットからスマホを取り出し、ソファーに向かった。そして乱暴に腰を下ろしてから、迷わず親友兼義兄の携帯番号を選択する。するといつも通りの、皮肉げな声が返ってきた。


「浩一、どうかしたのか?」

「今、平気か?」

「ああ、構わないが」

「さっき加積夫人が来た。昨年暮れに加積老が亡くなったそうで、彼女に形見分けにな」

 いきなり用件を切り出した浩一に、清人は一瞬絶句してから、しみじみとした口調で感想を述べた。


「そうか……、あのじいさん、くたばってたか。百を過ぎても死なない感じがしてたんだがな」

「……清人」

「何だ?」

「俺は今、好き放題に生きた挙げ句、あっさりくたばった年寄りに、もの凄く嫉妬してる」

「どうしてだ?」

 静かに尋ねてきた清人に、浩一はスマホを耳に当てたまま、中空にぼんやりとした視線を向けながら答えた。


「俺が死んでも、彼女はあんな風に泣いてくれないと思う。精々『良い人だったのに残念ね』程度の事を言ってお終いじゃないかと」

「てめぇ、ふざけんなよ?」

「自虐的過ぎるか?」

 いきなり地を這う様な声音で自分の台詞を遮ってきた清人に、浩一は自嘲的に笑ったが、そんな彼に清人の本気の怒声が浴びせられた。


「違う! あいつを一人で残して、ぽっくり早死にする気かお前は!? そんな気構えしか無いなら、荷物を纏めて今すぐそこを出ろ!!」

 その鋭い口調の叱責に、浩一は目を見開いて固まった。そしてすぐに目を伏せて、自分の不見識について詫びる。


「……悪い。口が滑った」

「二度と言うな。不愉快だ」

「ああ」

 それから少しの間沈黙が漂ったが、再び浩一が口を開いた。


「清人」

「何だ?」

「夫人から、十年契約の事も聞いた」

「それは……」

 それを聞いて、今度は清人が何か言いかけて口を噤んでから、控え目に尋ねてきた。

「……怒ったか?」

 それに浩一が苦笑で返す。


「夫人にも同じ事を聞かれたが、俺に怒る権利があると? お前には感謝してる。どうしてここまで手助けしてくれるのか、正直分からないな」

「お前の事は、真澄と清香の次に好きなんだよ。お前が男で、俺がその気の無いノーマルな男で良かったな」

「いきなり何を言い出すんだ、お前?」

 唐突に清人が言い出した内容に浩一は呆気に取られたが、清人は更に斜め上の発想を口にした。


「そうじゃなかったら、真澄が正妻でお前が愛人で、姉妹か姉弟の泥沼の骨肉相食む昼ドラばりの展開だった」

 そう清人が言い放った瞬間、思わず素直にその情景を想像しかけた浩一は無言で固まった。そして目を閉じてがっくりと項垂れながら、電話の相手の清人に謝罪する。


「…………悪い。今言われた内容、俺の想像力の限界を越えた」

「そこから更に一歩進んで、想像の翼を広げられるか否かが、作家になれるか否かの別れ道だな」

「俺は作家になる気は皆無だから、一歩たりとも踏み出すつもりはない」

「そうか。それは残念だ」

 そうしてどちらからともなく忍び笑いが漏れ、両者でくつくつと笑ってから、浩一はいつもの調子を取り戻し、相手に謝罪した。


「つまらない愚痴を聞かせて悪かった。あと、夫人から姉さんにお礼を言ってくれと言付かった」

「真澄に?」

「『彼女が仲良くして貰っているから』だそうだ。『頼まれた件は承りました』とも言ってた」

「分かった、俺から伝えておく。それじゃあな」

 そこで通話を終わらせた浩一は、気を取り直して残したままの食事に再び手を付け始めたが、その一方で、清人は自室で携帯電話を手にしたままひとりごちた。


「さて……、それじゃあもう少し、あいつの尻を叩いてやるとするか」

 そして直ちにアドレス帳から該当の番号を探し出し、電話をかけ始める。


「清人ですが、葛西先輩ですか?」

「ああ、どうした? 珍しいな、こんな時間に。嫁と仲良くしなくて良いのか? それとも子供ができたら、種馬はもう用無しか?」

 挨拶もそこそこに皮肉をぶつけてきた相手に(相変わらずだな……)と苦笑しつつ、清人は顔を引き締めて単刀直入に切り出した。


「先輩との会話が済んだら、すぐに仲良くしますよ。ところで、悪者になるつもりはありませんか?」

「誰に対しての悪者かによるな」

「浩一に対しての、です」

 そう清人が口にした途端、電話の向こうから嬉々とした声が返ってきた。


「遅いぞ! この悪党が、これまで散々じらしやがって! 俺はどんな事に一枚噛めば良いんだ?」

「今からご説明します」

 完全にやる気満々の葛西に向かって事の次第を説明しながら、清人は(今度こそ完全に、あいつを怒らせる事になるかもしれないがな)と密かに覚悟を決めていた。

 そして大して長くも無い話を終わらせ、詳しい日時は後から相談と言う事にして葛西との通話を終わらせると、タイミング良く授乳後に子供達を寝かしつけた真澄が、寝室から出て来た。


「真澄、ちょうど良かった。さっき浩一から電話が有った」

「あら、何か用事が有ったの?」

 何気なく尋ねてきた真澄に、清人が端的に告げる。

「加積夫人が暮れに旦那が死んだ事を伝えに来て、川島さんに形見分けして行ったそうだ」

 それを聞いた真澄は驚いた様に目を見張ったが、次の瞬間神妙に頷いたのみだった。


「……そう。亡くなったの」

「それから夫人からお前に伝言だ。何だかは分からんが、頼まれた件は応じてくれるそうだぞ?」

「それは良かったわ」

 真澄が加積サイドに頼んだ内容に関して薄々察してはいたものの、清人はそれには触れずに携帯をテーブルに置いて椅子から立ち上がった。


「じゃあ俺は、風呂に入ってくる」

「ええ」

 そして清人が部屋を出て行くのを見送ってから、真澄は自分のスマホを取り上げた。しかし逡巡する素振りを見せてから、思い切った様に番号を選択して電話をかける。そして応答があると、如何にも申し訳無さそうにお伺いを立てた。


「もしもし、柏木ですが。鶴田先輩、今お時間は大丈夫ですか?」

 その問いかけに、真澄が営業三課時代の先輩であり、現在は浩一の下で係長の役職に就いている鶴田が、怪訝な声で応じた。


「ああ、平気だが……、一体どうしたんだ? 直接電話を貰うのは、三課時代以来だよな?」

「その……、鶴田先輩に、折り入ってお願いがありまして……」

「それは構わないが……、何か仕事上の事か? この事を旦那は知ってるのか?」

 益々困惑した様に返してきた鶴田に、真澄は思い切った様に口を開いた。


「これは一人の課長としての依頼ではなくて、柏木浩一の姉としてのお願いなんです。公私混同だと言う事は重々承知していますが、これは主人に頼んでも、どうにもならない問題だと思いますので……」

 そこで真澄は言葉を濁したが、逆に鶴田は腹を据えた様に力強く請け負う。


「分かった。何でも言ってみろ。昔から無駄な事とどうしても不可能な事は、一度も口にした事がなかったお前だ。どんなに無茶な事を言っても、何でも言う通りにしてやろうじゃないか」

「ありがとうございます、鶴田先輩」

 心から安堵した声を出した真澄は、それから電話越しに手短に事情を説明し、依頼した内容を暫くの間口外しない事を念押しした上で、彼にやって欲しい事について、ひたすら恐縮しながら語った。

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