第63話 桜の来訪
「社長? どうかされましたか?」
「いや、大した事はないんだ。邪魔してすまないね。気にしないでくれ」
「はぁ……」
唐突に営業一課に姿を現した雄一郎に社員達はすぐに気が付き、何事かと視線を向けた。そんな多少居心地悪い視線を一身に受けながら、雄一郎は課内でただ一人、自分の存在を全く無視して仕事をしている浩一の席に歩み寄る。
「あ~、その、何だ、浩一」
しかし父親が恐縮気味に声をかけてきたにも係わらず、視線を向けようともせずに手元の書類を精査しながら冷たく言い切る。
「仮にも一企業のトップの自覚がおありなら、公私混同は避けて下さい。業務中の呼称は、役職名でお願いします」
「あ、ああ、確かにそうだな。……それでは浩一課長」
「はい、何でしょうか? 柏木社長」
そこで漸く顔を上げ、自分に視線を合わせてくれた事に雄一郎は安堵しながら、控え目に申し出た。
「その……、君と折り入って話があるのだが……、少し時間を取って貰えないだろうか?」
すると浩一が真顔で問い返す。
「それは業務に関するお話でしょうか?」
「いや、プライベートだが……」
「それなら私の方にお話を伺うつもりはありません。業務の邪魔ですのでお引き取り下さい」
「いや、浩一、あのな」
尚も弁解しようと口を開きかけた雄一郎だったが、浩一は興味を失ったように再び手元の書類に目を落とし、淡々とした口調で告げた。
「業務中は役職名で呼べって、入社の時にほざいたのはてめえだろ。グダグダ言ってないでとっとと失せろ。目障りだ」
「……お邪魔しました」
取りつく島もない息子に肩を落として雄一郎が退散すると、営業一課内では驚愕した部下達の囁き声が満ちた。
「おっ、おいっ! 今のって」
「ホントに課長が言ったのか!?」
「ありえない……。公私の区別を付けてるのは前からだが、社長に対してあんな暴言吐くなんて……」
「社長と喧嘩でもしたのか?」
「したというか、どう見ても現在進行形だろうが」
そんな事から数日のうちに、柏木産業内で《社長親子不仲説》がまことしやかに囁かれるようになり、二人の仲を心配した社長派の重役達に纏わり付かれるなどして、微妙に浩一の苛立ちが増加していく事になった。
(ムカつく……。あの親父、俺の視界にチョロチョロ入って来やがって。鬱陶しい事この上ない)
未だに和解する気などサラサラ無い浩一が、昼間の出来事を思い返しながらマンションに辿り着くと、エントランスの自動ドアの前で、和装の総白髪の女性が佇んでいた。そこまで見事に正絹の着物を着こなす女性を今までマンション内で見かけた事が無かった浩一は、恐らく来客だろうと見当を付け、鍵を取り出すのを止めて彼女の方に歩み寄った。
(どこかの部屋の来客か。ドアが開いたら一緒に入るか)
しかし誰かが背後から近付く足音と気配を察知したらしい彼女が振り返った為、浩一は驚愕して反射的にその足を止めた。
「……あら? 柏木さん、ですよね? あなたのお姉さんと愉快な作家先生の結婚披露宴で、お顔を拝見しましたわ」
にこりと上品に微笑む相手を凝視しながら、浩一は物も言えずに固まった。
(加積夫人!? どうしてこんな所に!?)
しかし彼女は浩一の戸惑いなど意に介せず、無邪気とも言える笑顔で頼んでくる。
「ちょうど良かったわ。椿を呼び出して開けて貰おうかと思っていたんだけど、ここを開けていただける?」
それを聞いた浩一は、脳内をフル回転させて何とか声を絞り出した。
「……彼女と約束でも有るんですか?」
「いえ、ちょっと驚かせようと思って、アポ無しで来てしまったの。今日は居ないのかしら? それなら出直しますけど」
(彼女は留守だとしらばっくれるか? ……いや、そうしたら俺が居ない時にまた来るかもしれないから、今通した方がどうとでも対処できるな)
そう判断した浩一は、漸くいつもの表情を取り戻してから、鍵を取り出しつつ足を進めた。
「いえ、中に居るはずです。今開けますので、お入り下さい」
「ありがとう」
そして操作盤の鍵穴に鍵を差し込んでロックを解除し、桜を手振りで促してから、自分も奥に進んだ。そしてエレベーターを待ちながら、隣で紫の風呂敷包みを手に提げて佇んでいる彼女の姿を盗み見る。
(しかし今まで全く音沙汰が無かった筈なのに、一体何の用だ?)
疑問は尽きなかったが、エレベーターに乗り込んでから、桜は親しげに声をかけてきた。
「こんな遅くまで、お仕事をしていらしたの?」
「はい、多少手こずっている案件がありまして」
「課長さんも大変ねぇ。体調管理には十分気を付けないとね」
「そうですね。自己管理も仕事の内に入りますので、気を付けています」
そんな世間話をしながら廊下を進み、玄関の扉を開けた浩一は、彼女を中へと促した。
「……どうぞ、お上がり下さい」
「ありがとう。お邪魔するわね」
そうして加積夫人である桜が優雅な所作で草履を脱いでいると、奥から物音を聞きつけて出迎えに出た恭子が、驚愕の声を上げた。
「浩一さん、お帰りなさ……、奥様!?」
「こんばんは。元気そうね、椿」
対する桜は余裕の笑みで挨拶したが、恭子は如何にも予想外といった感じで狼狽していた。
「は、はあ……、今年の冬は、まだ一回も風邪をひいてはいませんが……」
「あら、何よりね」
「その……、どうして浩一さんと奥様がご一緒に?」
彼女の反応で、どうやら本当に抜き打ちの訪問だったらしいと分かった浩一は、一応都合を聞いてみた。
「俺は偶々下のエントランスで一緒になったんだ。君に会いに来たと言うのでお通しした。何か拙かったかな?」
「いえ、拙くはありませんが……。あの奥様? どうしてこちらに?」
当惑しながら訪問の理由を尋ねた恭子だったが、ここで廊下に佇んだまま、桜が軽く顔を顰めた。
「そんな事より、椿。疲れて帰って来た柏木さんに、さっさとお夕飯をお出ししなさい。まだ食べておられないんでしょう?」
「確かにそうですが……」
「椿の手が空くまで、ソファ-にでも座って待たせて貰うわ。早く支度なさい」
「は、はいっ!」
問われた浩一が正直に答えると、桜は「そら、見なさい」とでも言わんばかりの顔つきで恭子に言いつけた。すると彼女は弾かれた様に台所に向かって駆け戻り、桜は「では、お邪魔します」と浩一に一言断りを入れて奥へと進む。そんな彼女の背中を、若干納得できない表情で見つめながら、浩一もリビングへと進んだ。
そして桜がソファーに落ち着き、浩一がオープンカウンターに接したダイニングテーブルに落ち着くと、恭子が手早く夕飯を並べた。
「お待たせしました」
「ありがとう。その……、ここで食べていても構わないのかな?」
「それは……、奥様に聞いてみないと。必要があれば私の部屋で」
「別に柏木さんに聞かれて拙い話をしに来た訳ではないから、そこで食べて頂いてても大丈夫よ?」
「はあ……、そうですか」
困惑気味の恭子の台詞を遮り、少し離れた所から言ってきた桜に、浩一は少々意外な思いをしながら食事を食べ始めた。そして手早く茶を淹れた恭子が、桜にそれを出して彼女の向かい側に腰かける。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとう。頂きます」
そうして一口味わってみた桜は、細かい皺が浮かぶその顔を、嬉しそうに綻ばせた。
「なかなか良い茶葉を使っているわね。淹れ方も忘れていない様で何よりだわ」
「恐れ入ります」
そんな一見社交辞令的なのんびりとした会話を聞きながら、浩一は密かに(さっさと本題に入ったらどうだ?)と苛ついていたが、ここでいきなり桜が本題に入った。
「それで、今日ここに押し掛けた理由なんだけど……。実は、うちの人が、昨年の暮れに亡くなってね」
「……え?」
(何!?)
サラッと言われた内容に、恭子と浩一は完全に思考が停止し、固まった。そんな二人の反応など気にも留めず、桜は片手を頬に当てて愚痴っぽく零す。
「もう、最後まで傍迷惑な人だったわねぇ。秋からは寝たきりになっていたけど、暮れも押し詰まってからポックリだなんて。本当に後始末が大変だったんだから」
その他にも何やらブツブツと文句を口にしている桜に、漸く気を取り直した恭子が、謝罪しながら頭を下げた。
「あの……、お悔やみ申し上げます。すみません、全く存じ上げませんで」
しかし桜は、それに笑って手を振りながら答える。
「あら、そんな事気にしなくて良いのよ? もともと死んだら最低限の人間にだけ知らせて、密葬にする様に指示を受けていたから、一般への告知等もしなかったし。それでも鼻が利く連中はポロポロ押し掛けてきたけど」
「そうでしたか……」
(加積老が死んだか……。姉さん達の披露宴の時には確かに車椅子だったが、元気そうに見えたがな。ひょっとして……、最後に彼女の顔を見に来たのか?)
未だ呆然としながら頷いた恭子を横目で見ながら、浩一は何とも言えない心地になった。するとここで桜が、持参してきた風呂敷包みを持ち上げて恭子に差し出す。
「それでね? 四十九日の法要も済ませたから、遺言にあった通り形見分けをしようと思って来たのよ。あなたにはこれなんだけど、気に入らなかったら捨ててしまって構わないわ」
素直にその包みを受け取った恭子は、桜に向かってお伺いを立てた。
「今、ここで中を見させて頂いても宜しいですか?」
「勿論よ。どうぞ」
鷹揚に桜が頷いたのを確認して、恭子は膝に乗せた包みの風呂敷を解いた。その中から現れた白木の箱にかかった紐も解き、蓋を開ける。
そして恭子が中を覗き込んだ時に不思議そうな顔をしたが、その中から平べったい物を取り出し、包んでいた紫色の布地を開けた所で動きを止めた。
(何だ? 茶碗かと思ったら皿? 骨董品か何かか?)
少し離れたテーブルから様子を窺っていた浩一には詳細は見えなかったが、どうやら皿らしいという事だけは分った。その推理を裏付ける言葉が、恭子の口から漏れる。
「……奥様」
「何かしら?」
「これ……、ケーキ皿、ですよね」
「ええ、そうだけど。それが何か?」
何故か恭子は手元の皿に視線を固定したままであり、そんな彼女を見ながら桜が事もなげに答える。しかしそれで浩一は(単なるケーキ皿?)と訝しんだ。
「この箱……、お皿を二枚だけ入れておくには随分深い作りですから……、他にもありましたよね」
「ええ。元々は五枚組だったんだけど、三枚は割ってしまってね」
(何だ? そんな中途半端な物を、彼女への形見分けにするのか?)
飄々とそんな事を言ってのけた桜に、浩一は半ば怒りににた感情を抱いた。しかし女二人の会話は更に続く。
「このお皿、以前お屋敷で使った覚えがあります。縁の蔦模様に見覚えが……」
「そうね。あの人が結構気に入っていたし。使うのは年に一回だけだったけど」
「中央に別な模様があったんですね。いつもケーキの下の銀紙を広げて食べていたので、全然気が付きませんでした」
「そうね。その模様、小さいものね。気が付かなくても無理はないわ」
「……残りの三枚、割れていませんよね」
「さあ……、どうかしら?」
(どういう事だ?)
何故か他の三枚について確信している口調で言った恭子に、その意味を捕えかねた浩一は本気で首を傾げた。そして更に予想外だった事に、そこで桜があっさりと立ち上がる。
「それでは用事が済んだから帰るわ。お邪魔様でした」
「え? あの……」
桜が軽く会釈したにも関わらず、恭子は両手で掴んだ皿から視線を離さず、黙ったままかつての女主人に挨拶も返さなかった。それだけでも異常だったのに、玄関に向かった桜を追いもせず、浩一は慌てて立ち上がって後を追う。
「加積さん、もう宜しいんですか?」
草履を履いていた桜にそう尋ねると、彼女は振り返って浩一に小さく笑いかけた。
「ええ。用事は済んだから。さようなら。ちゃんと鍵をかけて下さいね。最近は物騒だから」
「はい、失礼します」
そうして目の前で閉まったドアに鍵をかけ、浩一は困惑しながらリビングへと戻った。
(どうしたんだ? 彼女が見送りもしないなんて……)
いつもならばそんな非礼な事をする筈が無い恭子の元に戻り、戸惑いながら声をかけてみる。
「恭子さん? 夫人が帰ったけど……」
そこで漸く浩一は、恭子が無言のまま泣いているのに気が付いた。皿を手にしたまま目を閉じ、溢れ出た涙が頬を伝って、顎からポタリと皿に落ちる。その落下点に目をやった浩一は、先程の二人のやり取りを頭の中で反復させた。
(さっき言ってた中央の模様って、パンジー? 確かにこの大きさなら、完全にケーキの下に隠れて…………。そういう事か!?)
反射的にリビングボードの上の鉢植えに目をやった浩一は、先程ソファーに座っていた時、桜がその辺りに視線を向けた時微笑んでいたのを思い出したと同時に、その意味を完全に理解した。そして無言のまま玄関に向かって駆け出す。
(あの皿、元々二枚組じゃなくてきっと五枚組。夫妻と、愛人三人の五人分)
そして急いで靴を履いて、玄関から外へと飛び出す。
(中央にパンジーの絵柄。彼女の実家の事を調べたのなら、彼女の母親が毎年庭に咲かせていた花の事だって知っていた筈だ。あの何の銘も入っていない箱。きっと彼女の誕生日に使う為に、わざわざ特注した一組)
そしてエレベーターの前まで走った浩一は、一階にあるそれに盛大に舌打ちしてから、箱が上昇してくるのを待たず、すぐ横の階段を四階分駆け下り始めた。
(別に派手に祝ってやったわけじゃない。ただ彼女の誕生日に、ただ一緒に彼女が好きなケーキを一緒に食べてやっただけ。……その日だけは彼女の為に、全員予定を繰り合わせて。本当にただ、それだけの事)
息を乱して駆け下りながら、浩一はかつて恭子の誕生日に加積邸で見られていただろう光景を、どんな容貌をしているのか知らない他の二人の愛人を含めて、不思議と思い浮かべる事ができた。
(だけど俺は、彼女に何をした? 中途半端なプライドと独り善がりの正義感で彼女をそこから出すだけ出して、何回一人で誕生日を過ごさせたんだ!?)
少し前、恭子から「あれ位美味しいチーズケーキは食べたことが無い」と言った時の顔を思い返しながら、浩一は涙が出そうになるのを堪えた。そして一階まで下りてエントランスを駆け抜け、正面玄関から表に出ると、ちょうど横のマンション専用駐車場から、桜が乗って来たと思われるリムジンが出て来た所で、まさに左折を終えて加速しようとしている所だった。それを見た浩一は、殆ど何も考えずに道路に飛び出した。
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