第62話 笑顔の裏側

「浩一さん、お帰りなさい。今日は遅かったですね。お疲れ様でした」

「……ただいま」

 予想通り靴を脱いで上がり込んでいた浩一に声をかけると、抑揚の無い声で短く返され、それに多少たじろぎながら恭子は慎重に言葉を継いだ。


「ええと……、晩御飯は食べて来ましたか?」

「食べてないが、食欲が無いからいい」

「……そうですか」

(なんだか……、あからさまに怒ってはいないけど、浩一さんのテンションが低いし、醸し出す雰囲気が怖い……)

 どうにも適切な対処の仕方が分からず、恭子は曖昧に笑いながら再びリビングに向かって歩き出した。


「じゃあお風呂は沸いてますので、好きな時にどうぞ」

「君は?」

「え? 何がですか?」

 背中から唐突にされた問い掛けに、恭子が思わず足を止めて振り返ると、何故か浩一はその場に鞄を投げ捨てる様に落とし、更に乱暴な動きでコートを脱ぎ捨てている所だった。そしてスーツのジャケットを勢い良く脱ぎ捨てながら、問いを重ねる。


「夕飯。食べた?」

「はい、お先に頂きました」

「それは良かった。じゃあ一緒に風呂に入ろう」

「は?」

 予測不可能な話の流れに、恭子が完全に呆けていると、その手首を浩一が掴んで浴室に向かって歩き出した。そして空いている方の手でネクタイを緩め、器用に片手だけで抜き取ったそれを廊下に投げ捨てながら、当惑している恭子に淡々と告げる。


「え? あの、ちょっと浩一さん? 一緒にって、どうして……」

「俺が全身くまなく、綺麗に洗ってあげるから」

(な、何? 本格的に浩一さんが壊れた?)

 いつもの浩一なら間違っても口にしない言葉の数々に、恭子は本気で危機感を覚えた。その為、意識を他の物に向けてみようと、廊下を指差しながら注意を促してみる。


「浩一さん! さっきの上着、あのままだと皺になりますよ?」

「こんなケチが付いた服、後から纏めて捨てるから気にするな」

「気にするな、って……」

(いつもの浩一さんと違い過ぎる……。先生の言う通り、今夜だけは避難しておくべきだったかしら?)

 盛大に舌打ちしながら言われた台詞を耳にして、恭子は何時間か前の自分の選択を、ほんの少しだけ後悔した。そしてあっさりと脱衣所に連れ込まれ、機嫌が悪いと分かりきっている浩一を刺激しない様にと、無言で服を脱ぎ始める。

 しかしセーターとスカートを脱ぎ、ブラウスのボタンも外し終わった所で、同様に背後で服を脱いでいた筈の浩一の動きが感じられなくなった為、ふとそちらを振り返った。すると上半身裸の状態で、無言で佇んでいた浩一とまともに目が合う。


「あの……、何か?」

 怖い位真剣な表情で見つめられ、幾分怖じ気づきながら問い掛けてみると、浩一は彼女に向かって一歩踏み出し、両手を伸ばしてブラウスごとキャミソールを足元に滑り落とさせて小さく呟いた。


「綺麗な身体だから、じっくり見たいと思いながら見ていた」

「……ありがとうございます」

 一応礼の言葉を述べた恭子だったが、僅かに顔が引き攣るのは避けられなかった。しかしそれには気付かなかった様に、浩一が更に距離を縮めて恭子を抱き締める。


「本当に……、綺麗だ」

 吐息の様に漏らされたその言葉に、恭子は完全に諦めの心境に陥る。

(何かもう……、浩一さんの次の行動が予測できない)

 そしてされるがままになっている恭子の耳元で、浩一が誰に言うともなく、低い声で呟いた。


「誰が……、……のやつ………、……わら……、か……」

 一体何を言っているのかと恭子は訝しんだが、下着を身に付けただけの自分の背中に回された腕が、妙に冷たくて血の気の無い事に気が付いた。


(随分、腕が冷えてる?)

 理由は分からないまでも、恭子は自分も浩一の背中に腕を回して体温を確認しながら、このままこうしているよりも、もっと建設的な事をするべく穏やかに声をかけた。


「浩一さん、身体が冷えますよ? 早く入って温まりましょう」

「……ああ」

 そこで身体を離して自分を見下ろしてきた浩一の顔を見た恭子は、咄嗟に言いたい事を飲み込み、多少事務的に告げた。

「先に入っていて下さい。メイクを落としてから入りますから」

「分かった」

 そうして洗面台の鏡越しに、浩一がスラックスとボクサーブリーフと靴下を乱暴に脱ぎ捨て、ドアを開けて浴室に入って行くのを見届けてから、恭子は溜め息を吐いてクレンジングクリームを手に取った。


(相変わらず醸し出す空気は物騒だし、普段と全く行動パターンが違うのに……)

 そんな事を考えながら泡立てた物を顔に塗り込んだ恭子は、鏡を見ながら困惑しきった呟きを漏らした。


「……どうしてあんな、泣きそうな顔をしてるんだか。文句も何も言えないじゃない」

 それから勢い良く水で顔を洗い流し、素顔に戻った恭子は、再び鏡を覗き込みながら自分の感情を持て余す様に言葉を漏らす。


「面倒臭い……。どうしてプライベートで、こんな風に悩まなくちゃいけないのかしら」

 そんな愚痴めいた事を口にしながらも、恭子は浩一にとことん付き合うべく、身に付けていた物を全て脱ぎ捨てて浴室に繋がるドアを開けた。



「……ぅん? 煩いなぁ。誰から……」

 翌日、爽快とは程遠い寝覚めになった恭子は、その原因である鳴り響いている電話の呼び出し音を解消すべく、のろのろと上半身を起こして固定電話の子機を探した。それがベッドから少し離れた場所にある机にある事を思い出し、盛大に舌打ちしてから目を擦りつつベッドから降りて立ち上がる

 全裸のまま歩み寄ったものの、どうせ誰も見ていないからと子機を取り上げた恭子は、そのままカーペットに座り込んで電話に出た。


「もしもし?」

「まだ寝ていたか? 携帯にかけても繋がらなかったしな」

 その声に、さすがに恭子は気分を悪くしながら言い返す。

「先生……、朝っぱらから電話してこないで下さい。相手の迷惑って物を少しは考え」

「今は十時だ。小笠原物産を辞めて、フリーの時で良かったな」

「…………」

 淡々と事実を述べた清人に、壁に掛けてある時計で時刻を確認した恭子は黙り込んだ。すると電話の向こうから、呆れているらしい清人の声が伝わってくる。


「だから昨日、一晩出ておけと忠告しただろうが」

「確かに、五段階評価の10だったらしいのは認めますが、本当に何が有ったんですか? 社内で揉めたのなら、やっぱり相手は先生ですよね?」

「違う。俺じゃない」

「じゃあ誰ですか。真澄さんは育休中で今柏木産業にはいませんし、浩一さんは余程親しい人以外に対して、そうそう感情を露わにするタイプとは思えないんですが?」

 幾分八つ当たりじみた発言をしてしまった恭子だが、清人はそれを綺麗に無視した。


「その話はもう終わりだ。……ところで、恭子」

「なっ、何でいきなり名前呼び!? 何かの新手の罠ですか!? 今度はどの方向に突き落とす気ですかっ!?」

 これまで一度もされた事の無い呼びかけに、恭子は一瞬で眠気が吹き飛び、警戒心も露わに清人に噛み付いた。それに清人が疲れた様に溜め息を吐いてから告げる。


「……どうでも良いだろう。偶々、名前で呼びたくなっただけだ」

(怪し過ぎる……)

 次に何がくるのかと緊張感を漲らせながら恭子が様子を窺っていると、清人が真剣な声音で意外な事を言い出した。


「いいか? 良く聞け、恭子。お前、今俺に、何かして欲しい事は無いか?」

「……いきなり何ですか?」

「何でも良いから。今、俺は殊勝にも、お前に対して申し訳無く思って、反省している所なんだ。大抵の事なら聞いてやる。良く考えて、遠慮無く言ってみろ」

 その申し出に、恭子は即座に応じた。


「それなら一つ、お願いが有るんですが」

「何だ?」

「今すぐ電話を切って下さい。眠いので二度寝したいんです」

「…………」

 恭子にしてみれば結構切実な要求だったのだが、そう口にした途端、電話の向こうの清人が沈黙した。そのまま十秒程が経過し、苛立ってきた恭子が呼びかける。


「先生? 何黙ってるんですか」

 するとその呼びかけに、自嘲気味の清人の声が返ってきた。

「はっ、俺とした事が、随分焼が回ったな……。一瞬でもお前に、情緒的な事を期待した俺が馬鹿だった……」

「何気に失礼だと思うんですが?」

 恭子はさすがに気分を害しながら言い返したが、清人は気を取り直して一人で話を進めた。


「まあいい、好きなだけ寝てろ。夕飯は六時にデリバリーを二人分手配しておくから、それまでには起きろよ? それじゃあ邪魔したな」

「何なのよ、一体……」

 唐突に通話を切られ、恭子は憮然としながら子機を戻し、再びベッドの布団の中に潜り込んだ。そして何となく先程の会話の内容を思い返してみる。


「でも、先生じゃないなら、誰と揉めたのかしら? 浩一さんは意外に人の好き嫌いがはっきりしてて、さほど関心の無い人に対しては笑顔を浮かべつつ内心でバッサリ切り捨てるタイプだと思ってたんだけど」

 そんな事を考えているうちに、恭子は彼の家族構成に思い至った。

「盲点……。お父さんが社長さんだったわね」

 そしてそれを踏まえ、更に考えを進めてみる。


「そうなると……、ひょっとして先生が絡んでいる、揉めた原因って私、かしら?」

 そう口に出して呟いてから、恭子は(恐らくそうだろうな)と確信した。


「やっぱり問題だったかしらね。先生も浩一さんも気にしてないみたいだったけど……」

 そしてこれ以上考えるのは無理とばかりに目を閉じる。


「失敗したかな……」

 寝返りを打ちながら呟いたその言葉は、恭子自身も気が付いていなかった。


 リビングのドアを開けて姿を現した浩一は、これ以上は無い位気まずそうな表情で、微妙に恭子から視線を逸らしながら帰宅の挨拶をしてきた。

「……ただいま」

「あ、浩一さん、お帰りなさい」

 しかし恭子はいつも通りの笑顔で出迎えて来た為、中途半端な笑みで問い掛ける。


「その……、恭子さん?」

 何か言おうとした浩一の声を遮り、恭子はてきぱきと皿を運んで夕食の支度を整える事に集中した。


「すみません、今日のお夕飯は全部、出来合いの物なんです。先生がレストランのコース料理のデリバリーセットを、二人分送りつけてきたもので」

「ああ、そうなんだ……。別に俺は構わないから」

 当惑しながら了承の言葉を返すと、恭子が安堵した様に笑い返してくる。


「良かった。あ、それから、昨日冷蔵庫にしまっておいたおかず、朝に食べてくれたんですね」

 そう言われて、浩一は漸く固い表情を緩めた。


「せっかく作ってくれたんだし、無駄にしたら悪いから」

「でも、朝からハンバーグを焼いて食べて行ったりして、胃がもたれませんでした?」

「大丈夫だったよ? 昼もちゃんと食べたし」

 浩一は何気なく言葉を返したが、恭子はそこで彼の全身に目を走らせながら、しみじみと言い出した。


「……本当に浩一さんって、意外性の固まりですよね」

 その如何にもしみじみとした口調に、浩一は我慢できずに小さく噴き出す。

「そうかな? 自分では平凡だと思っているんだけど」

「じゃあ平凡の言葉の定義は後から二人で討論する事にして、早速食べませんか?」

「そうしようか」

 恭子の提案にそう応じた浩一の笑顔は見慣れたいつも通りの物で、恭子は心の底から安堵した。


 結局、前日の行為云々とその原因についてはうやむやになったものの、元からそれを追及する気は無かった恭子は、取り敢えず浩一の態度が従来通りに戻った事を素直に喜んだ。


(うん、今はまだ、このままで良いわよね……。そのうち先生や浩一さんの方から、言って来るだろうし。私はどこでだって、何をしたって生きていけるもの……)

 そして恭子もいつも通りの笑顔を心掛けつつも、そう遠くない時期にこの生活に終止符が打たれる事になるのを予感し、何故だか気分が重くなっていくのを止められ無かった。

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