第61話 フォロー

「もしもし?」

「あ、浩一さん、今、大丈夫ですか?」

 清人の予想通りそれは恭子からの着信だったが、浩一は短く断ってそれを切ろうとした。


「全然大丈夫じゃない。取り込み中だから切る」

 まさか常には無い乱暴さでぶった切られるとは予想していなかったらしい恭子は、電話越しに焦り捲った声を上げた。

「え!? ああぁ、すみません、ちょっと待って下さい! 実はほんの少しだけご意見を伺いたい事がありまして!」

「……手短に」

 浩一の状態がいつもと異なるのは短いやり取りでも十分把握できた為、恭子はきびきびと用件を口にした。


「はいっ! 実は今日、近所のスーパーが挽き肉全品二割引の特売日なんですが、今日の夕飯にハンバーグ、あんかけ肉団子、餃子、肉そぼろ、鶏団子鍋、その他諸々挽き肉使用の料理で、何が食べたいですかっ!?」

「……挽き肉?」

「はい!」

 一瞬当惑した浩一に、恭子が力一杯答える。すると浩一は壁際に放心して座り込んでいる父親と、それを庇う様に控えている清人を冷たく見下ろしつつ、淡々と告げた。


「そうだな……、いっそ挽き肉にしたら、気が晴れるかもな」

「は? どう言う意味ですか?」

「いや、こっちの話だ」

(やっぱり電話の相手は彼女だと思うが、挽き肉って……。このシチュエーションで何の話をしてるんだ!?)

 浩一の呟きしか聞き取れない清人は顔を引き攣らせたが、浩一は無表情のまま話を続けた。


「じゃあ何が良いですか? それによって買う物が牛か豚か鶏か決まってきますので……」

「何でも。任せる」

「えっと……、それじゃあハンバーグを作る事にして、牛肉を買いますね。それでソースはデミグラス、和風醤油、おろしポン酢のどれが良いですか?」

「血が滴るデミグラスソース」

(だから、この極限状態で、何の話をしてるんだお前達は!?)

 本格的に怒鳴って問いただしたい気分になった清人だったが、電話の向こうでも先ほどから浩一の異常をはっきりと感じ取っていた恭子が、困惑しきった声を出してきた。


「あの……、浩一さん。デミグラスソースに血は入っていないと思います」

「そうだったか? まあ、どうでもいい。それじゃあ」

「あ、あのっ! 最後にもう一つ質問が!」

「何?」

「デザートに食べたい物はありますか?」

「君」

「………………はい?」

 何かの聞き間違いかと思わず間抜けな声を出した恭子に、浩一はすこぶる冷静な声で会話の終了を告げる。


「冗談。じゃあ切る」

「あのっ! 浩一さん!?」

 慌てて呼び掛ける恭子の声を無視し、今度こそ浩一は通話を終わらせスマホを元通りしまい込んだ。

「…………」

 そして再び冷え切った視線を向けてきた浩一に、雄一郎と清人は肝を冷やしたが、ひとしきり全く関係の無い会話をした事でやる気が削がれたのか、無言のまま部屋を出て行く。それと入れ代わりに、蒼白な顔の大江がドアを開けて入って来た。


「今、浩一さんが出て行かれましたが、どうなさったんですか!?」

「取り敢えず血を拭き取るので、濡れタオルを持って来て下さい。それと、社長は派手に転んだ事にして、医務室に連れて行きます」

「分かりました。それは構いませんが、清人さんもお怪我をされてますよね?」

「大丈夫か?」

 心配そうに大江が尋ねた事で、漸く思い至ったらしい雄一郎も具合を尋ねてきたが、清人は苦笑しながら二人を宥めた。


「何とか折れてはいませんし、見えない場所ですから心配要りません」

 そこで携帯の着メロが鳴り響き、それが自身の携帯で真澄用に設定している《花のワルツ》だった為、雄一郎に断りを入れる。

「すみません、真澄からですので」

「ああ」

 そしてまだ失調している雄一郎を大江に任せて通話ボタンを押すと、かなり切羽詰まった真澄の声が清人の耳に飛び込んできた。


「もしもし? 清人、大丈夫!?」

「真澄? ここで何が有ったか知ってる様な口振りだな。どうしてだ?」

 軽く目を見張って驚いた清人に、真澄が電話越しにたたみかける。


「さっき大江さんからお母様に、浩一が社長室でお父様と清人相手に大暴れしてるって連絡が入ったの。それでお母様から『大至急恭子さんから浩一に電話をかけさせなさい』と言われて、わけが分からないまま適当に理由を付けて恭子さんに二・三分浩一と話して貰う様に頼んだんだけど、一体どういう事? お父様も清人も無事でしょうね!?」

(玲子さん、流石です。相変わらず抜け目が無いと言うか何と言うか……、何をどこまで知ってるんですか?)

 大江からの報告で浩一と恭子を直ちに結び付けた上、その時点で最善の処置を取った義理の母に、清人は内心で感嘆しつつ傍らを振り返った。


「大江さん、お義母さんに報告してくれたんですね。適切な処置でした」

「いえ、私はもうどうして良いか分からず、狼狽えてしまいまして。玲子さんだったら何とか対処してくれるかと思ったものですから」

「十分冷静に判断されてますよ」

 まだ動揺している顔付きのまま、雄一郎の顔を拭いていた大江を宥めつつ賞賛すると、話が分からずに苛ついた真澄が、声を荒げて呼び掛けてくる。


「ちょっと清人、どうしたの!?」

 その怒声に、清人はしみじみとした口調で応じた。

「いや……、今回は、女性四人の見事な連携プレーで事なきを得たな、という話だ」

「お願いだから分かるように説明して!」

 殆ど悲鳴じみた声を真澄が上げた所で、清人が端的に事情を説明した。


「要は、彼女の事が分かってお義父さんがプチ切れ状態になったら、あいつが見事にブチ切れたってだけの話だ」

 それを聞いた真澄は、電話の向こうで深い溜め息を吐いた。


「それを、体を張って止めてくれたわけね」

「ああ。危うく殺されかけたがな。頭は冷えたと思うから、取り敢えずは大丈夫だろう」

 その状況判断に真澄は気を取り直し、これからするべき事を口にする。


「そう……、分かったわ。怪我をしたのよね。ちゃんと診て貰ってよ? それから恭子さんにはかなり無茶苦茶な事を言ってお願いしたから、これからもう一度電話をかけて誤魔化しておくわ」

「ああ、頼む。俺はこれからお義父さんを連れて、医務室に行く」

 そうして真澄との通話を終わらせた清人は、未だ顔色の悪い義父を見下ろしながら、無意識に溜め息を吐いた。



 夕刻、いつも通り夕飯の支度を始めた恭子だったが、その日はすっきりしない気持ちのまま、黙々と作業を続けた。


(結局、今日の《あれ》は何だったのかしら? いきなり『内容は何でも良いから、今すぐ浩一に電話して!』って真澄さんに懇願されたのには驚いたけど)

 そんな自問自答をしながら手早く調理を続け、冷ましておいた炒め済みの玉ねぎを加え、他の材料と一瞬にボウルの中でハンバーグのタネをこね始める。


(それ以上に、浩一さんの言動が変だったものね……。会議中とかにかけてしまった雰囲気では無かったけど)

 殆ど無意識にこね続けているうちに、適度に粘りが出て来たそれを見下ろした恭子は、思わず手を止めてしみじみと考え込んだ。


(何とか冷や汗もので、二分位会話を引っ張ってみたけど……。真澄さんが再度電話してきて説明してくれた理由が、『浩一のスマホの恭子さん用着メロを知りたかったから、清人が居る前で鳴らして欲しかった』って、もう支離滅裂で意味不明だし)

 そこまで考えた恭子は、首を左右に振って溜め息を吐いた。


「幾ら考えても分からないから、もう止めよう。やっぱり真澄さん、先生と結婚してから色々毒されてるみたい」

 そう結論付けた後は順調に調理を続け、後はハンバーグのタネを成形して焼くだけの状態になった所で、彼女の携帯が着信を知らせてきた。急いで手を洗ってタオルで拭いた恭子がそれに駆け寄ると、ディスプレイに浮かび上がった名前を見て項垂れる。


「噂をすれば影……」

 しかしグズグズしていたら後が怖い為、すぐに気を取り直して通話ボタンを押した。


「はい、川島です」

「即刻、荷物を纏めてそこを出ろ!」

「はい?」

「取り敢えず一泊分の用意で良い。ホテル代も後から出してやるから急げ!」

 挨拶抜きでの問答無用な無茶振りに、清人の意地の悪さと気紛れには嫌と言うほど慣れている筈の恭子も、さすがに面食らった。


「あの……、先生? いきなり何ですか。せめて理由を聞かせて頂けません?」

「今営業一課まで様子を見に行ったら、浩一がくそ真面目に仕事をしてるんだ。定時を過ぎたってのに、明日までに仕上げないといけない文書が有るからって、黙々と残業しやがって。これだからくそ真面目な奴はタチが悪い。さっさとトンズラして適当に憂さ晴らししとけってんだ、あの馬鹿が!」

 そんな八つ当たりじみた清人の愚痴を聞いた恭子は、携帯を耳に付けたまま遠い目をした。


「お話を聞く限り、浩一さんはサラリーマンの鑑だと思います。爪の垢を貰って煎じて飲んで下さい」

「冗談を言っている場合か!?」

「訳が分からない事を喚いて無いで、私にも分かる様に説明して下さい!」

 声を荒げた清人に恭子も怒鳴り返す。それで幾分冷静さを取り戻したらしい清人は、若干言いにくそうに、声を潜めて話し出した。


「実は……、今日社内で、ちょっとしたトラブルがあってな」

「それを知ってるって事は、明らかに先生が絡んでますよね?」

 思わず突っ込みを入れた恭子だったが、清人は気を悪くする事も無く肯定する。


「確かに責任の一端はあるが、直接の原因は俺じゃない」

「それで? 察するに浩一さんがすこぶる不機嫌なのにそれ押し殺して仕事をしているので、帰宅したら一気に反動が出そうだと?」

「……そんな所だ」

 如何にも憮然とした口調で返答してきた清人に、恭子は思わず溜め息を吐いた。


「以前にも似た様な事で、先生から連絡を貰いましたね。確か……、先生が抜き打ちで真澄さんの代理を務める事になった時、浩一さんの怒り具合は五段階評価の3か4で、逆恨みで会社で切りつけられた時は最高レベルの5だったと思いますから、今回も5ですか?」

「今回は、五段階評価だと10だ」

 それを聞いた恭子は、心底うんざりした口調で言葉を返した。


「先生……、日本語は正しく使いましょうね? 腐っても作家なんですから」

「腐っていないし、つまらん御託はいい。命が惜しかったらさっさとそこを出ろ」

「あのですね……、浩一さんを血に飢えた殺人鬼みたいに言わないで下さい」

「似た様な物だ」

「先生じゃあるまいし……。必要性が認められませんので、お断りします。第一、せっかく準備した夕飯が無駄になりますから」

 精神的疲労感を覚えながら恭子が結論を告げると、清人が苛ついた様に声を荒らげた。


「夕飯と命とどっちが大事だ!?」

「実感の無い生命の危機より夕飯です! 死ぬ間際に『やっぱりあの時きちんと食べておくんだった』と後悔する様な死に方だけは御免ですし、今日の料理はどれもなかなかの出来映えなんですから!」

 はっきりきっぱり断言した恭子に完全に毒気を抜かれたらしい清人は一瞬黙り込み、次いで諦めた様に会話を締めくくった。


「分かった、もう良い。お前の好きにしろ。一応忠告はしたからな」

 そこで通話を終わらせた恭子は、携帯をダイニングテーブルに置きながら、思わず愚痴を零した。


「全く……、どういう事よ」

 しかし一人で文句を言っていても始まらないので、清人からもたらされた情報を基に、これから起こり得る状況を考えてみる。

「取り敢えず、この前みたいに気まずい雰囲気で食べるのは勘弁したいから、今日は先に食べておこう」

 そう結論付けた恭子は、中断していた調理を再開するべく、キッチンへと戻った。

 それから無事ハンバーグも焼き終え、その他のおかずも並べて一人「うん、上出来上出来」と満足しながら夕飯を食べ進めたが、完食し、浩一の分は冷蔵庫に保管し、後片付けも済ませた段階になっても何の連絡も入らない事に、恭子は少々不安になってきた。


「それにしても……、これまで遅くなる時は、絶対連絡を入れてくれてたのに。やっぱり浩一さん、普通じゃ無いわね。それとも……、まさか帰宅途中に通りすがりの人に喧嘩をふっかけて、乱闘騒ぎになってるとか……」

 そんな事を口走ってから、恭子は盛大に頭を振ってその考えを打ち消した。


「有り得ない……。駄目よ、幾ら先生が変な事を言ってきたとしても洗脳されたら。これって新手の罠かしら?」

 自分自身にそう言い聞かせていると、玄関の方から物音が聞こえて来た為、恭子は浩一が帰ってきたかと安堵しながら、玄関に向かった。

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