10本目 龍と老人と
屍の幼龍―――
愛しい両親が傍らにいるのだから。
全人属を仇と定めてしまうほど愛しい父と母が。
国家ひとつを滅ぼしてしまうほど、逢いたいと願っていた存在が。
彼の両側に佇んでいるのだから。
──その矛盾に、幼き屍龍は気づかない
彼は両親とともに居る。
だが人属に対する深い怨みも抱いている。
それは両親を無残にも殺されたから。
そして今、再会できた喜びに震えている。
時系列も因果も、全てが矛盾している。
〝両親〟の首が己の身体から突き出していることにも気づかない。
だがそれは彼にとって、とくに問題とならないだろう。
屍が生前の憎悪を迸らせながら、生者に死を振りまく。
とある神の気まぐれによって動く、いずれ朽ち果ていくのだから。
今の彼もまた、同じように矛盾した存在なのだから。
彼の目の前に広がっていた森が開けた。
それは大きな水溜まり────湖だ。
その巨大な『水のマナ』の気配に、龍は不快を覚え、顔を顰める。
火に属する彼にとって、そのあまりに濃密な気配は決して心地よいものではない。
だからこそ、気づくのが遅れた。
濃密な水のマナを隠れ蓑に潜む、
§
湖のほとりに生い茂る草花の茂みに伏せたまま、ゆっくりと、しかし素早く体内魔力を滾らせていく。そうして喚びよせたのは、火の
湖の直近、この濃密な水の気配の中で、火の自然魔力は著しくその特性を衰えさせている。──が、アッシェ・ゼトランスの
荒れ狂い、紅の燐光を振りまく火の自然魔力の中で彼が紡ぐのは、彼が使える中で最高の攻撃魔法。
それは彼の鼓動のように脈打ち、血潮のように熱く滾る。それでいて一片の狂いも隙間もないほど、隅々まで張り詰められ制御した
己の半世紀近い人生を振り返りながら、彼はその魔法名を唱えた。
「〈―――〉」
彼の名を冠したその魔法は──彼が思い描く通りに発動し、屍龍へと向かった。
研ぎ澄まされた炎の切っ先はアッシェと多頭龍の間にある全てのものを焼き尽くす。屍龍がアッシェを認識したのは、その魔法が放たれた後だった。もはや避ける暇も、防ぐ時間もない。
──だがその炎は、龍麟に弾かれることさえなく、虚無へと消え去った。
魔法は、自然魔力のふるまいによって具現化する。そしてその自然魔力のふるまいに志向性を与えるのが体内魔力。
その
熟練魔法士同士の戦闘は『自然魔力の支配戦』と
では片方に、圧倒的な親和性の優劣が存在すれば?
──制御できる自然魔力の量に偏りが生じ、魔法の威力や制御性の差異として現れる。
ではそれが、
アッシェ放った渾身の魔法が、屍龍がただ認識するだけで霧散させられた──それが答だった。
龍と人属との隔絶。埋め難い差。
それをまざまざと見せつけられたアッシェは、しかしその思考を停滞させることはなかった。
元より彼は、その一撃を、〝紅蓮〟として放つ最期の魔法と決めていたからだ。
己の一生──五十年間、恵まれた火属性への適性を強みに生きてきた己の人生、その矜恃への手向けとして。
そうだ。彼の渾身の魔法は、三頭龍となった屍龍に何ら痛痒を与えることも叶わなかった。
だが最高の魔法が放てたことで彼は満足できた。〝紅蓮〟として生きてきた己の人生に悔いはないと、その最期の一撃で断言できた。
水草から体を起こして見上げる彼の前で、三つの龍の首が咆哮を轟かせた。
三種類の咆哮が重なり三重奏となって、それに籠められた憎悪とともにアッシェの身体をビリビリと震わせる。
屍龍はアッシェの眼前で、後脚で巨体を持ち上げた。龍尾をうねらせて上体を持ち上げ、まるで人間のように二足で大地を踏みしめる。そして遥かな高みから、三つの龍頭がアッシェを睥睨した。
だがアッシェはその絶望を前にして、しかし足を進めた。
心静かに。
―――だが断固として。
竦みあがる心と体を、咬み砕かんばかりに食いしばり、捻じ伏せながら。
彼は茂みから、その生身を屍龍の前に晒す。水を吸った裾が肌に張り付く。そして声を発しようとして、
「っ、」
噛んだ。強張った筋肉が、詠唱の邪魔をする。
無理矢理に、意識しながら口を大きく開き、今度こそ発する。
「……其が司るは命のすべて」
舌の痛みを無視する。いや、むしろ痛みがあった方が気が紛れる。そんな強がりが脳裏を掠めるのを自覚しながら、彼は
「生命の揺り篭、或いは旅路、そして行き着く結末。そしてそのものよ」
彼の魔法士としての生き方の中で、ここまで真剣に、これほどまでに長い補助言語を詠いあげたことはない。
そしてその成果は着々と現れ始める。彼の周囲に、先ほどのように自然魔力が集い始める。励起された自然魔力が燐光を放つ。
だがその色は、紅ではない。
「我に従え───〈
その喚び声に応えるように、瑠璃色が震えた。
そして彼の背後、湖の水面が一際激しく波打った。やがて波頭は天を衝く水柱となり、瑠璃色の燐光に導かれるように空を駆けた。
火に圧倒的な親和性を誇る炎龍───それに抗うことのできる種族は存在しない。
だがそもそもの話をすれば、人属が魔力の親和性で優れている魔獣など存在しない。
人属の武器は、ただ多様性のみ。
火で抗えないのであれば───他の属性を用いればいい。
相手より優れる必要はない。ただ、殺せればよいのだから。
だからアッシェは火属性最高の魔法士としてではなく────ただ、人属の魔法使いとして挑むと決めた。
湖から呼び出した数十の水の槍を並べ、アッシェは前へと踏み出した。
それが、戦闘の合図だった。
§
二足で立つ
それをアッシェは、全力で避ける。水槍をいくつか分解し、己の身を護る盾や鎧として再構築しながら、身を投げ出すように跳ぶ。
無様ではあったが、そこまでしてようやく、直撃を免れることができた。
巨大な光条は地面に突き立つと同時に、その熱量を解放する。蒼炎ほどではないとはいえ、枯れた老人を十回は消し炭にしても有り余るほどのエネルギーが荒れ狂う。
自分の皮膚が熱に炙られ急速に乾いていくのを感じながら、しかしアッシェは反撃を選択する。その意志と
だがそれは突如として出現した炎の壁に阻まれた。見やれば三頭龍の右の首――一番小柄な龍頭が、[火壁]に相当する魔術を行使していた。
炎の壁は、水の槍を十も受け止めるとそのエネルギーを使い果たして消え去った。残る十数本の水槍が防壁を突破する。
けれどその生き残った水槍も、次の瞬間にはひとつ残らず蒸発した。左の首──一番大きな龍頭が巨大な火柱を放ったからだ。
しかも舐めるように薙ぎ払われるその炎は、その勢いのままアッシェへと迫っていた。
反撃が成果を得られず、それどころか更なる反撃を受けてアッシェは悪態を吐きたくなる。だがそれ以上に重要な言葉を、彼は翡翠の燐光を纏いながら唱える。
「〈
突如吹き抜けた風が、アッシェの身体を跳ね飛ばす。それを後押しとしながらアッシェは炎の鞭を掻い潜る。
地面に転がるように着地するアッシェ。――同時に彼は魔法を発動していた。
彼が手をついた大地が、琥珀の煌めきとともに
それを三頭龍の左足へと叩き付ける。まるで見えない鎚把を振り回すかのように、岩の槌が弧を描いて龍麟と衝突する。
だがしかし、その鎚尖は鱗によって受け止められる。衝撃によって岩は砕け、ボロボロと破片になって大地に降り注ぐ。
貫通こそできなかったものの、その岩石の持っていた巨大な質量と運動エネルギーは三頭龍へと確かに伝導された。龍尾と二足で支えられ、しかしその上体の巨大さから不安定だった三頭龍が姿勢を崩し、たたらを踏む。
けれど三頭龍は即座に立て直し、それどころか虫でも払うかのように左腕を大きく振るった。
必死に身を捩ったアッシェの鼻先を、巨大な爪が薙ぎ払っていった。空を切った鋭い爪先が大地に突き刺さり、土砂や砂礫を巻き上げ深い爪痕を大地に刻む。
アッシェは安堵の溜息を吐く、暇もなく、全力で三頭龍に背を向け走り出した。先ほどまで彼が居た場所を、横薙ぎに浚っていく龍尾。
小石がアッシェの背中に小雨のように降りかかる。しかしそれに構う余裕はない。アッシェは先ほどと同じように、湖から水の塊を引き出す。直後、火柱がそれに突き刺さった。
龍の吐息に籠められた熱量は、接した水を一瞬のうちに気化させた。大量の水が一瞬で膨大な量の水蒸気となり、更に加熱され、間欠泉のような速度で膨張する。
濃霧が湖畔を白く覆い、視界を閉ざす。
その中を、アッシェは前に進む。だがその霧は膨張するほど超高温に熱せられた水蒸気だ。容赦なく皮膚に吹き付け、表皮をめくりあげる。むき出しになった肉が空気に触れて瞬く間に水分を失っていく。当然、まるで雷撃を受けたかのような激痛が襲ってくる。
その全てをアッシェは無視した。
そして再び魔力を
まず琥珀の輝きが、再び岩の破城鎚を作り上げる。先ほどと全く同じ動作でアッシェはそれを叩き付ける。龍の左足、わずかに龍麟が歪んだ、先の一撃が着弾した場所めがけて。
二度目の衝突。
白い霞を引き千切りながら叩き付けられた岩の鎚は、先ほどの焼き増しであるかのように再びボロボロと崩れ落ちていく。だがその魔法は今度こそ、その課せられた役割を果たしていた。
土くれが琥珀の光とともに崩れていく中に、無数の破片に砕けた紅蓮の龍麟が混じっている。そして剥き出しになった、鱗の下の龍の皮膚。
そこへ翡翠の光を纏った風の塊が叩き付けられる。着弾とともに解放された嵐が真空を作り出し、研ぎ澄まされた刃が剥き出しになった肉を切り刻む。
屍であるのに痛みを感じるのか、或いは虫に刺されたような感覚なのか、中央の龍頭が咆哮を上げた。それと同時に背の翼が激しく打ち付けられる。その力は重量の増えた三頭龍を空に持ち上げるほどではなかった。だが咆哮と合わせた
白の天幕を引き剥がされ、アッシェの姿が
だが既にアッシェは魔法の発動を完了している。
風によって吹き飛ばされていく水蒸気と入れ替わるように、十数本の水の槍が飛翔。屍龍へと突き進んでいく。
そのうちの殆どは、羽撃きの風圧によって吹き散らされ、或いは狙いを過ち無事な龍麟によって阻まれた。それでも四本の水槍が、龍麟が砕けた傷口へと突き刺さる。更に水槍は、その切っ先を肉の隙間へと潜り込ませていく。
その瞬間には、アッシェは詠唱を唱え終えている。従えるのは瑠璃と、紅の光。
発動を龍に認識されれば、それだけで一瞬のうちに制御を奪い取られてしまう。ならばその認識の網を掻い潜り、隙をついて一瞬で発動させればいい。
ただしそのためには、たとえ補助言語を用いても膨大な魔力を消費する。
紅の光が運動エネルギーを散逸させる。瑠璃の光が相対流速を殺す。それによって、水が瞬間的に、強制的に固化される。
「〈
その発動言語とともに、屍龍の肉や鱗が外側へと吹き飛んだ。それらがあった場所に屹立するのは、氷の柱。
皮下に入り込んだ水が凍結し、より大きな容積となって内側から肉や鱗を押し上げた結果だ。
龍が再び咆哮を轟かせる。間違いなく、それは悲鳴だった。長く長く悲鳴を立ち昇らせる中央の首。
それを慰めるかのように寄り添う右の首。
そしてアッシェを憎々しげに睨みつける左の首。
ちっぽけな人属の魔法使いは、確かに龍に痛撃を与えた。
けれどそれは、本当にちっぽけな痛撃。
氷柱は数秒と保たずに溶け去った。それだけにとどまらず、突き破られ切り裂かれた無残な肉の傷口が、唐突に燃え上がったかと思えば次の瞬間には新しい肉と鱗によって覆われていた。
対するアッシェといえば────
「……がはっ……」
酷く咳き込んだかと思えば、喰いしばった口角から赤い血が滴る。
それは屍龍の攻撃が原因ではない。腹部の傷跡がまるで存在を主張するかのように痛みを発する。
アッシェはもともと、サンドウィン内乱で重傷を負った身だ。それを[活力]に似た魔法で騙し騙し保たせていただけ。
だが今のアッシェに、その魔法を使う余裕はない。龍に痛痒を与えるほどの威力と速度を発揮させるには、通常よりも多くの魔力を使う。
自然魔力に語り掛ける度、或いは魔法を放つ度、己の肉体から体温や血液に似たあたたかい何かが流れ出していく感覚を覚える。
それは生命そのものの感覚であり、迫る死の気配だった。
そんな
無理、不可能。或いは絶望。
それでもアッシェは、その
何故なら彼は、教えたからだ。
たとえ絶望を前にしたとしても、手足が動く限り、生きている限り抗える。たとえわずかな希望であったとしても、それは決して絶たれていない。竦む性根を奮い立たせ、合わぬ歯の根から目を逸らしていたとしても、前に進めるならばそれは絶望ではない。
人の形からかけ離れた弟子に、アッシェはそう教えた。
ならば師匠がその言葉を違えるわけにはいかないだろう。
その人間の在り方を、〝異形〟に見せるといったのだから。
アッシェ・ゼトランスは───ただ一つの希望だけを待ち望みながら、三頭龍へと挑みかかる。
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