2本目 〝私〟


その姿は、一言で表すならば、ただ〝異様〟と称すべき姿だった。

十本やそこらではなかった。いくつもの、そう、数えるだけで震え上がるような悍ましいほどの触手が犇めき、蠢き、絡み合い、揺らめいている。ただひたすらに醜悪で、しかし一つ間違えば淫靡と倒錯した感覚を覚えてしまいそうな冒涜的なそれは嫌悪感を掻き立てる緑色をしていた。それらがぶつかりあう音が、或いは攀じれる音が地の底から招くような唸り声にも聴こえる。

極めつけはそれらの緑色の触手の根本―――触手に覆われて見えない肉の塊―――に一つ爛々と輝き、こちらの光全てを飲み込もうとするかのごとき深淵を湛えた瞳。まるで誘うように揺らめくの瞳だった。

この世の全ての害意と歪さを集めて悪意で煮たてたような存在が、私だった。私が、私を見つめていた。


森の中の開けた場所に揺蕩う大量の水、そう―――湖の水面に映ったそれが、私が初めて知った自分の姿だった。


§


母娘を置き去りに木々の間を進んでいく私の心の中には、表現できない感情が渦巻いていた。

私は、私が誰だか知らない。私が何なのか解らない。

けれど私はきっと、あの母娘と、会話したかったのだ。

しかし自分のことさえ解らない私には、彼女たちを怖がらせるだけだった。そもそも、言葉を発することができなかった。

私が発することができたのは、制御することもできない唸り声。まるで肉と肉が擦れあい軋みながらたてる悲鳴のようなものだった。

だから私は、何よりもしたかった会話を断念し、その場を去った。

まるで敗北したかのような悲しさを感じていた。


そうして木々の間を―――心情的にはとぼとぼと―――進んでいた私は、ふと開けた場所で碧色を見つけた。先ほどの娘をまた思い出して、悲しさとか寂しさとか喜びとか、きっとそう述べるべき感情を抱きつつ覗き込んだ私の視界に映ったのが、私の姿だった。


私には、記憶がない。

あの少女の碧の瞳を見つめていた、それ以降は覚えている。だが、それ以前は?

あの母娘に会う前私が何をしていたのか。それ以前、私は何をしていたのか。その一切の記憶がない。

そしてこの姿も、こんな『大きな瞳と数え切れないほどの緑の触手』を、見た記憶がない。

なのにやはり、違和感だけは感じる。


私は湖面へと傾けていた視界を持ち上げ、自らの触手を眺める。

自らの〝手〟に、或いは〝姿〟に、違和感を感じる。

けれど、その理由がわからない。


だから、考えた。

考えて、そして『たとえば』を思いついた。そう。仮説を立てた、というのだろう。


もしかしたら私は、以前はこのような姿ではなかったのかもしれない。

その記憶が母娘に会う前の〝喪われた記憶〟の中にあって、それが違和感を感じさせているのではないか、と。

もしかしたら私の手は、彼女たちのような、手だったのかもしれないと。


そう、私は、彼女たちに強い興味を抱いている。会いたい。話したい。会話したい。瞳を見たい。触れたい。たくさんの感情を混ぜ込んだ欲求が、彼女たちに向いている。

それが、私の以前の姿が、彼女たちと似ていたからなのではなか、と考えた。

それは願望でもあった。そう思ってしまうほどに、彼は憧れていたのだ。


だから〝私〟はそれらの仮定を立てたとき、自分でもそれとは気づかぬうちに自らの生きる目標を決めていた。

自らの〝喪われた記憶〟に近しいかもしれない彼らと、もっと近づきたい、と。

五体を持ち、二足で歩き、両腕を使い、口で言語を紡ぎ、双眸でこちらを見つめる―――そう。〝人間〟と関わりたい、と。


自らの姿を知った。生きる目的を得た。

そのときはじめて〝私〟は〝私〟となったのだ。


§


けれどそのときの〝私〟は、未だに解ってはいなかった。

自らの身体にある無数の〝触手〟―――それを持つを、この世界の人間が何と呼んでいるのかを。

『卑猥なるもの』

『忌むべきもの』

『性欲の権化』

『女性の敵』

『憎むべきもの』

そして〝私〟―――縦横奥行き各3メートルを超える―――も、相応の感情を向けられることになることを、私は知らなかった。



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【但し書き】

① 〝私〟が〝人間〟になることはありません。

② 〝私〟は〝人間〟ではありません。

③ この作品は〝転生系〟〝転位系〟〝憑依系〟、いかなるものでもありません。


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