第97話 脱出


 セイバーと手提げ鞄を左手で纏めて持ち、全神経を集中させながら右手でドアノブをそろりと回す。

 玄関の外からゾンビの姿を見た時は窓の外をぼーっと眺めていたので、そこから一切の動きを見せていないコイツは、まだこのドアに背を向けているはずだ。


 二体のゾンビの動きに細心の注意を払いながら、毎秒一センチメートル程のスピードでドアを押す。

 キィキィとドアの軋む音が鳴らなかった事には神に感謝したい。

 開けたドアの隙間から顔を覗かせると、またもや強烈な腐乱臭が鼻の奥にガツンと襲い掛かって来た。

 吐き気を堪えながらゾンビまでの距離や古民家の屋根に向かえる窓の位置など、部屋の状況を確認する。

 部屋に入って左手側にある逃走用の窓には鍵が掛かっていて、窓の位置も簡単に飛び越えられそうな高さではない。

 本棚として使用されている三段ボックスを倒して、踏み台にした方が良さそうだ。


 逃走手順を確認したところで、正面に佇むゾンビの背後へ息を殺して慎重に詰め寄る。

 俺より背が高くてズタズタに引き裂かれた衣装を纏っている。

 肌は青白く左肩が大きく損傷していて、ブヨブヨした紫色の体内の様子が窺える。


 コイツを倒さずに逃走用の窓から出るのは無理だろう。

 右手でセイバーのグリップを力一杯握り締め、覚悟を決める。

 ゾンビの後頭部を破壊して、速攻で本棚を倒して窓の傍まで移動させ、鍵を開けてから隣の屋根に飛び移る。

 何度も何度も頭の中でシミュレートして万全を期する。

 気付かれる前に……コイツを倒す!


 れる、俺なら殺れる! 

 ぅおりゃーー! 死ねぇーー!


 実際に叫ぶわけにはいかないので、心の中で雄叫びを上げながら、ゾンビの後頭部目掛けて渾身の力でセイバーを振り下ろした。


 バキッ!


 背後から後頭部をぶん殴られたゾンビは、その衝撃でガシャンとガラスを突き破り、窓から落ちそうになりながらジタバタともがいている。 

 セイバーはグリップの少し上の部分から真っ二つに折れてしまい、切っ先は窓の外へと飛んで行ってしまった。


 ……アレ? 何だか俺が思っていたのと違う。

 イメージでは篠が切りつけた時みたいに、ブシュッと頭が吹き飛ぶと思っていたんだが……?

 何故だ? 俺の技術が足りないのか?


 シミュレートと全く違う結果に戸惑ってしまい、その場から動けなくなってしまった。


 「ゥ……ゥガガァ……?」


 後頭部を殴られたゾンビも、頭を押さえながら首を横に振っている。


 ……そうか分かった、セイバーだ。セイバーのスイッチを入れるの忘れていた。

 水を纏う前のセイバーで普通に殴っただけだ。そりゃゾンビにも効かねぇよ。 

 普段からの訓練不足が露呈してしまったなぁ……。

 ――って今はそんな悠長に考え込んでいる場合じゃねぇ! すぐにこの場から逃げねぇと!


 慌てて三段ボックスの本棚を窓際に向かって倒し、ブルブルと震えて思うように動かない手で窓の鍵を開ける。


 「ゥガガ……ゥガァーー!」

 「ゥガガァーーー!」


 殴られたゾンビに加えて、物音で異変に気付き階下から駆け上がって来たもう一体のゾンビも襲い掛かって来た。


 「ぎょぇぇーー!」


 間一髪のところで窓が開いた。

 グリップ部分だけになってしまったセイバーをゾンビに投げ付け、俺を掴もうとする手をギリギリで躱しながら、窓のサッシに足を掛け大きく踏み切った。

 古民家の屋根にドスンと転がり、鞄の中からボロボロと小さな備品が転がり落ちる。

 当然そんな物をいちいち回収する時間なんてない。無視だ無視!


 「ゥガガァーー!」


 二体のゾンビも俺の後を追い掛けて来て、窓から古民家の屋根にドスンと転がり落ちた。

 やややべぇよぉーー! 誰か助けてくれーー!


 鞄を手に道へと飛び降りようとして、軒先ギリギリでブレーキを掛けて踏み止まる。

 というのも、こうして屋根から道を見下ろすと……思っていた以上に高い。


 あ、危なかった。

 思いきり踏み切ってジャンプしていれば大怪我するところだった……。


 「ゥガァーー!」


 一体のゾンビがすぐさま背後から飛び掛かって来たので、姿勢を屈めた状態から道へと飛び降りた。

 着地と同時に受け身を取るようにゴロリと転がり、足に伝わる衝撃を逃がす。

 鞄を抱え直して起き上がり、足や体に異常がないかを簡単に確かめてみたけど……うん、何とか大丈夫そうだ。

 俺ってこんな事も出来たんだなぁ。

 ちょっと自分を褒めてやりたい。


 背後から飛び掛かって来たゾンビは、勢いそのままに屋根から落下してしまったみたいで、玄関先で首が変な方向に曲がった状態で寝転がっていてピクリとも動かない。


 ドスン!


 すぐさまもう一体のゾンビが屋根から降りて来て、コイツは両足で踏ん張るようにしてしっかりと着地を決めた。

 テレビの前で突っ立っていた方のゾンビだ。

 顔の半分が爛れているというのもあるけど……正面から見てもやっぱり性別不明だ。


 「ゥガガァー!」

 「ぎぃやぁぁーー!」


 そこからは猛ダッシュだ。

 フラフラで足がもつれそうだけど、こんな所で転べば殺される。


 「ガフッ……ガフッ……」


 俺の背後数メートルにピタリと張り付いて振り切れねぇ!


 なんとか角を三つ程曲がると、セイバーを構えて漁業センターの前で見張りをしている霧姉の姿が視界に入った。


 「き、きき霧姉! たた助けてくれー!」

 「……何をやっとるんだ……ったく」


 セイバーのスイッチを入れて、俺とすれ違うようにゾンビに向かった霧姉は、一太刀でゾンビの頭を吹き飛ばした。


 ぐ、ぐぅ。俺があんなにも苦労したのに、あっさりと……。

 霧姉のくせにカッコイイじゃねぇか。


 「……ったく、しっかりしろ。何があったのだ? 雄ちゃんの帰りがあまりにも遅いから心配していたのだぞ?」

 「わりぃ。た、たた助かった。ちょっと色々あってよ……。休憩しながら説明していいか?」


 無事に戻って来られた安堵感からなのか、全身の力が抜けてしまい、その場にしゃがみ込んでしまった。


 「無茶するんじゃない、馬鹿タレが……」


 霧姉はそんな俺の頭をセイバーで軽く小突いた。


 ……みんな本当にすげぇよな、ゾンビと戦っても平気でいられるんだから。







 「――からよ、そのゾンビが迫って来るまで、あまり時間がねぇと思ったんだ」

 「そういう場合でも一人で行動するのは危険だ。次からは絶対に一人で無茶するんじゃないぞ?」 


 漁業センター内で反省会を行っている。

 やっぱり俺一人で行動するのは危険だし、ああいう場合は一度漁業センターまで戻って来て、霧姉か瑠城さんを連れて二人で行動した方が良かったそうだ。


 「それはそうとよ……まさか泉さん、をウォーターウェポンに使うのか?」

 「ぞうだよ……っぐしゅん!」


 俺がと指差したのは……小型船の船外機。

 つまりエンジン部分だ。

 さては部室に置かれていた巨大段ボール箱の正体はコイツだな?


 「……もうぢょっと時間が掛かるから、待ってて……チーン!」


 俺が回収して来た冷却シートをオデコに貼り付けた泉さんは、鼻をかみつつとても辛そうに作業している。

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