平穏は幻

 よく晴れた日のこと、用事もなければ遊びたくもなかったので家にいた。誰も声を発さない、冷蔵庫の重いノイズが響くだけの部屋。その静寂を引き裂いてチャイム音が僕の耳に届く。


「はーい、今行きます」

 薄いドアの向こうに投げるように返事をして立ち上がった。廊下を通過して玄関のサンダルを履く。よく冷えたドアノブに手をかけ、鍵を左に回してノブを右に回す。なるだけ丁寧にドアを開ける。


「おひさ!」

「…おお」


 覚えているふりをしたものの、全く記憶にない。

 来客は同じ年頃の女の子、付け加えなくてもいいだろうが、可愛い。特筆すべき可愛さである。

 いやまあ、それはここで問題にはならない。大事なのは『覚えてもいない女の子が突然家に来た上とても親しく接してくる』という眼前にある事実である。


「ごめんね、急に押し掛けて。迷惑じゃない?」

「ん、ううん…まあ大丈夫だと思うけど」

 本来知らない人が急に家に来たら十中八九迷惑なはずなのだが、どうしてか無難な回答をした。大丈夫だと思うって何だ。賃貸だが一応僕は家の主である。

 何も分からないままなのはかなり都合が良くない。とりあえず、どうやってこの場所を知ったかくらいは聞こう。

「しかし、よくここが分かったね」

「ふふ。名刺に住所が書いてあったから」

 待った。それはおかしい。何が、というのは、僕は現在アルバイトで生計を立てている身である。つまり名刺を持つ必要がない状態というか名刺を渡す相手はいないので作っていない。

 分かったのは、彼女が存在しないはずの僕の名刺を頼りにこの家にたどり着いたということだ。

「…ははっ、そういえば渡してたね」

 僕はとぼけてみた。すでに彼女に主導権を握られているのは承知はしていたが、滑稽になるのはいかがなものか。

「もう、そういうところはすぐ抜けちゃうのね」

 彼女はそう言って僕のミスを笑い飛ばしてくれた。いや、このミスはしていない。しかし彼女はなかなか寛容である。腹の中が見えてこないが、少なくとも表面を見れば非常に良い人というのは誰もが抱く感情だろう。


 良い人に見える知らない人、それは詐欺師だ。

 先日立ち寄った本屋で数ページ試しに読んだ本の中にあった言葉だ。この言葉はちゃんと理にかなっている。騙すという行為では相手に自分を信じさせるのが必須である。臭くて身だしなみも整わず口の悪い中年には全く説得力がない。少し顔が悪くても、ワックスで髪を整えてスーツを着ていて言葉が丁寧ならば好印象だろう。

 今目の前にいる彼女で考えれば、口調は砕けているものの悪意は無く、しっかり相手の反応を受けて言葉を選んでいるようだ。もっとも、見た目はともかく悪い気はしない。だとすれば、彼女は詐欺師だろうか。

 雇われていて、しかも組織の新人なので慣れていないところもある。名刺の件はたぶんマニュアル通りの流れと考えれば納得は出来る。あそこでは自分も嘘をついた。

 では、仮に詐欺師だとして、彼女は何を求めているのだろうか。よくドラマとかの題材にされる結婚詐欺だろうか。その場合はデートか、あるいは偽物の両親との対面だろう。結婚を目前に控えると、何かしらの用事で大金をせびられ、渡すとそのまま消えていく。適当な想像でそのくらいか。


「そうそう、今日来たのはね…」

 彼女の方からだ。まだ大事なことを聞いていなかった。ここに来た目的だ。こちらから聞き出そうと思ってはいたが、向こうから切り出したのは好都合だ。

「しばらく泊めてもらえないかお願いしに来たの」

「…泊まる……?」


 想定してない角度からだった。当事者の意図は別として、形式としては同棲だ。普通のカップルでも結構段階を踏むはずなのだが、僕らの場合は初対面である。いや、彼女の中でも…出会って数日で、しかも会うのは2回目とみた。とにかくものすごく早い。


「……」

「…ダメ…かな?」

「あ、いや、その…ダメではなくて」

 冷静に返事を考えていた、いや正確には狼狽えていた僕の顔を彼女は不安そうにのぞき込む。今、ここでダメだと言うのが正解だったはずなのだが、断るタイミングを逃すどころか半ば承認しかけている。

「無理なお願いなのは分かってるけど…昨日ね、お父さんと喧嘩しちゃって、家を飛び出して来ちゃって…」

「もっと親しい友達とかいたんじゃないの?」

「…実は……頼れる友達があまりいなくて」

「しかし…ここに住むとなると、その状態だと…」

 もう住む前提に話を進めてしまっているが、ここで気にしているのは彼女の荷物だ。

 飛び出してきたというのには嘘がないと思う。何故なら、彼女が今持っているのは中くらいの鞄ひとつだけだからだ。

 つまり、そのくらいの鞄だけということは、財布や化粧品や多少の電子機器の用意はある。逆にそれ以外はこれから用意しなければならないということだ。衣服がまず必要、下着に限れば男物は使えない。あと布団、あいにく友人や家族を呼ぶ用事はないので自分で使う1組しかない。それと食べ物も多く用意しなければならない。シャンプーは別のがいるのだろうか。

 最悪、お金は彼女が何とかすればいいのだ。引っかかっているのはそこではない。2人だと、それだけのものを置くには、この部屋は狭い。狭いということで様々な弊害が生まれる。そこだけがネックだった。どうして少ない荷物でこれだけ心配になるかと言うと、仮に彼女がキャリーバッグをひとつ引っ張ってきていれば、それだけで事足りるという証明になったからだ。この部屋はキャリーバッグひとつならまだ問題がないはずだ。

 キャリーバッグだったら住まわせる気だったのか。


「お願い! 1日だけでもいいから! そしたら…」


 プルルルルル!


 電話の着信音が鳴り響く。後ろの固定電話の音ではない。

「まさか…」

 あわてて彼女は鞄に手を入れ、すぐに携帯電話を取り出した。

「…やっぱり! お父さん……」

 彼女は咄嗟に『拒否』ボタンを押そうとした。

 僕はその刹那に頭を回し、意図的に彼女の右手を掴んだ。

「どうしたの? 今電話を切ろうと…」

「出て」

「いや…お父さんとは今話したくないの」

「…この電話に出たら、泊まってもいい。出ないなら……」

「……っ」

 僕は手を離した。彼女は観念したようで、深く溜息をついてから『通話』ボタンを押した。


「…もしもし?」

 彼女は携帯電話を正面に持ったままだ。どうやらテレビ電話らしい。

「カナコ! 今どこにいるんだ!」

「お父さんには関係ないでしょ!」

 喧嘩をしたということに足るやりとりだ。その画面に映っているであろう父親の怒りの表情は簡単に目に浮かぶ。いや、正確にはステレオタイプの父親像の顔に怒りの表情を作らせた。一昨日あたりの朝、テレビの経済番組のインタビューに答えていた出版社の社長をあてがった。

 どうにしろ、想像通りの親子喧嘩である。無関係なので微笑ましい光景として捉えていた。彼女はカナコというのか。

「家を出たところで行く場所もないだろ?」

「ほっといて! 今彼氏のとこにいるの。心配されなくても平気よ!」

「何? 彼氏だと? 聞いてないぞ!」

「言う義務がある?」

 彼女は強気の姿勢を崩さない。父親は意外な事実に戸惑っている。

「ちょっとその彼氏とかいうやつに代われ!」

「いやよ!」

 この刹那、僕は電話に入っていった方がいいと閃いた。ここでの対話がうまく行けば、現在よく分からない状態を打破出来ると考えたのだ。

「あの…」

「えっ? 何?」

「ちょっと貸してもらっていい?」

「別にあなたが話す必要は…」

「いや、将来のこともあるから、なるべくいざこざは避けたい」

「…分かった」

 よくもまあ初対面の女性にこんなこと言えるな。彼女の了承を得て、僕はテレビ電話の先の彼女の父親と対面出来ることになった。彼女はしぶしぶ僕に携帯電話を手渡した。


 適当に相手に話を合わせて、彼女が家に帰るようにしてもらおう。僕は好印象を与える表情をつくり、この事態が収束するという期待をもって画面を見る。

「もしもし、はじめまし…あっ!」

 僕は目を見開き、大きく口を開いた。しまった、次に継ぎ足す言葉を完全に見失った。

「はじめまして。カナコの父親、大泉和秀だ。本来なら君が先に名乗るはずなんだが?」

 画面には、僕の想像していたそれと全く違わない、怒りに満ちあふれた表情が映し出されていた。少しも違わない。その出来事のせいで遅れを取ってしまった。

「…っ! す、すいません! 吉川啓介と申します!お父様のことは先日のテレビで存じ上げております!」

 大泉和秀。そう、一昨日のテレビに出ていて、僕がさっき怒りの表情のリファレンスとして使った顔の、出版社の社長、しかもその出版社といえば、名作漫画を数多く生み出したあの少年誌や、ティーン支持率ナンバーワンのファッション誌を抱える、あの、出版社である。これだけまとまりがなくなってしまうほどすごい人だ。

 こうやって困っている間に、電話の向こうから、お父様と呼ばれる筋合いはないと言われていそうだが、聞き逃した。


「今どこにいるんだ? すぐにこちらのものが向かうから…」

 少し話が進んでいた。向こうの中で。もう深く考えることも出来ず、相手が望むものがそのまま口から引きずり出される。

「あっはい! ここは僕の家でして、住所は…」

「ちょっと待って!」

 という彼女の声とともに、彼女の手が僕の口元に飛んできた。

「言わなくてもいい!」

「何をするんだカナコ! いい加減にしなさい!」

「お父さん! もう私に構わないで! 私は…この人と結婚するの! だからもう家にも帰らない!」

「何だと? 馬鹿なことを言うな!」

「ほっといて!」

 怒りの勢いのまま、彼女は通話を切断した。

 完全に口を封じられているため、誰にも釈明出来なかった。為す術がなかった。いいや、本当はあった。あったけれども、僕になかったものといえば、早さだと思う。


「大丈夫…ああ言ってるけど、たぶん手は出してこないよ」

「…? ああ…そう…」

 心配事はそれではない。違う、それも心配事だ。けれども、焦点を当てるべきなのはそのことじゃない。

「……結婚?」

「うん。ちょっと、逆プロポーズみたいになっちゃったけど……私、あなたと結婚したい」

「はあ……」

「ダメ…?」

「…いや、そういうことじゃなくて……」


 …いや、そういうことなのだ。

 知らない女の子が家にやってきて、その子を匿わなければならなくて、それで、その子と結婚しなければならなくて。

 待った。断る選択肢はいつ失ったんだ?


 ふと、彼女…カナコか。…カナコさんの顔を覗いた。


 瞳は潤い、上唇に力を入れて頬を赤らめていた。


 とりあえず、次にしなければならないことを考えた。ひとまず、時間がほしいことが分かった。


 カナコさんを玄関に待たせて、僕はリビングの食卓に置いてある携帯電話を持った。電話帳から店長の携帯電話にかかる電話番号を探して発信した。

 今なら、今日のアルバイトを休みにするくらいの交渉は何とかなると思った。

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