第55話:今の私達には何ができると思う?



 祖母と猛の直接対面。

 紆余曲折を経て、彼女を許して救われた。

 長年、苦しみ続けた事から解放されて、すごく晴れやかな顔をしていた。

 須藤家の呪縛は無事に終わることができそうだ。

 しかし、その時、淡雪は猛の本質に気づいてしまった。

 

――猛クンだけが救われていない。


 彼は相手がどんな過ちを犯しても、人を許してしまう人間だ。

 かつて、淡雪が自らの嫉妬心にかられて騒動を起こした時も。

 お祖母様を含めた須藤家の罪も。

 彼は全てを許してしまった。


『人を憎むよりも、愛していきたい』


 それが彼の信条なのだろう。

 淡雪には真似のできないすごいことだ。

 だからこそ、以前から淡雪は彼のそう言う所が気になっていた。


『猛クンは優しすぎるのよ。嫌な事も全部我慢して、他人に優しくしてしまうから』

『そんなつもりはないけどなぁ』

『無自覚なのかしら。そういう所も好きだけど、私は貴方の優しさには撫子さんに似た危機感も抱いているわ。貴方は優しすぎて、自分を我慢しすぎてるんじゃないかって』


 そう感じた理由を今回の事で淡雪は納得できた。

 時に綺麗事だと他人が言うかもしれない事を平然とやってのける。

 それは彼の優しさだと思っていた。

 

――違ったんだわ。心の傷は見えないから気づけなかった。


 やはり、親から引き離された幼少期の事は彼に致命的な心の傷を作っていた。

 彼は“他人”に対してしか優しくできない。

 “自分”には優しくなれないと言う事に気づいてしまったんだ。





 夏休みが間近に迫るため、時間があまりない。

 淡雪は夏の前にこの問題だけでも解決したいと思っていた。

 

「ちょっといいかしら。大和撫子さんを呼んでもらえる?」

「撫子さんですか? 分かりました」

 

 放課後のホームルームが終わってから一年生のクラスにすぐに向かった。

 まだ帰り支度をしていた彼女は淡雪の顔を見るや否や、


「……ついに最終決戦ですか? いいでしょう。ここで決着をつけます」

「決戦はしないわよ。年下の子をイジメて泣かせるのは私の主義じゃないもの」

「なんで貴方の方が勝つって決まってるんですか!」

「だって、撫子さんは打たれ弱いもの。正論を並べて論破したらすぐ泣いちゃう」


 ぐぬぬと彼女は悔しそうな顔をする。

 

――いけない、今日はこの子と戦うためにきたわけではなかった。


 考え方がお子様なので相手にすると淡雪までつい引き込まれてしまう。

 

「撫子さん。放課後の貴方の時間をちょうだい。私に付き合って」

「……嫌です。私、女の人とデートする趣味はありません」

「私もない。冗談抜きで、貴方にとっても大事な猛クンについての話がしたいの」


 ここでまだ言い争いをしている時間がもったいない。

 彼女は淡雪の目をジッと凝視すると、やがて携帯電話を取り出した。


「兄さん、ごめんなさい。今日はお友達に遊びに誘われてしまって一緒に帰ることができません。……えぇ、ありがとうございます。楽しんできますね」


 適当な理由をつけてこれから会う予定だった猛との約束をまずは断ってくれた。


「これでいいんですね?」

「いろいろと勘と理解が良い子で助かるわ」

「貴方の事は気に入りませんが、兄さんの話ならば別です。とりあえずの休戦協定です。なので先輩の態度次第では再び開戦ですよ」

「今はそれでいいわ」


 大事なのは彼女と落ち着いてゆっくりと話をすることだ。

 淡雪達は図書室へと場所を移動することにした。





 図書館の奥には雑談をしても迷惑にならないように区切られたスペースがある。

 淡雪は事前に用意していた本を何冊か机の上に並べた。


「先日の須藤家の話は聞いてる?」

「兄さんが須藤家と和解できたとは聞いています。許さなくてもいいと私なら思いますが、許してしまう所が兄さんです」

「そうね。彼のおかげで我が家は長年の呪縛から解放されたの。それはそれでハッピーエンドに終わるはずだった。私があることに気づくまではね」


 淡雪は彼女に猛の本質について尋ねてみる。


「撫子さん。貴方は猛クンの優しさについてどう思うかしら?」

「兄さんは優しい人ですよ。私と一緒に毎日お風呂に入ってくれます。最近はちょっと嫌がるようになりましたが、以前はタオルすらもつけずに入ってました。ふふふ」

「……さりげなく喧嘩を売ってくるのはやめてくれない?」


 その件だけは許せそうにない。

 一度、彼女とは決着がつくまで戦争がしたくなる気持ちを押さえる。

 

「真面目な話ですか? 兄さんは争いを好みません。彼の優しさは生まれ持ったものでしょう。人を思いやり、人の痛みを理解してあげられる心の優しい人です」

「それよ。彼のそういう所が危ないと思った事は?」

「いえ。どういう意味でしょう?」


 彼女は以前から彼にある危機感というか違和感のようなものを抱いてた。

 それが何なのかを淡雪は理解した。


「今回の事で確信したことがあるの。あの人には怒りと言う感情がまずないわ。人を憎むと言うことも。人に対してネガティブな印象を抱けない」

「……人を嫌いになれない、ということでしょうか」

「人に優しくするというのは下心があるものよ。他人に優しくして、自分をよく見てもらいたい。支えてあげたり、救ったりするのも同じこと。人ってね、誰だって愛されたり、認めてもらいたいから、他人に優しくするの」

「まぁ、人間の善意なんてそんなものですよね」


 それが普通の人間というものだ。

 何の下心もなしに優しくいられる人間と言うのは稀だ。

 彼はそんな普通とは違う。


「エンパシーと言う言葉を知ってる?」

「いえ、初耳です」

「エンパシーとは共感力の事なの。共感者の事をエンパスとも呼ぶ。この能力自体は誰もが普通に持ってるものよ。他人に対して共感する事は誰でもあるでしょ」

「共感力……」


 共感力とは人に対する鋭敏さようなものだ。

 例えば、人の相談や悩み事をまるで自分の事のように共感してしまう。

 常に場の雰囲気や空気を読みすぎてしまう。

 そういう人間は共感力や感受性が強いということ。


「兄さんはエンパシーが強い人間だと? 空気を読みすぎる?」

「異常とは言わないけども、彼は他人に対しての共感力が過ぎるの。人の痛みも悲しみも、全部、自分の事のように感じてしまう。それを優しさだと私達は一言で片づけて、これまで勘違いをしてきたのよ」

「でも、違った。それは優しさではなかったと言いたいんですか」

「彼は“感情の共感”というものが大きいの。悪い意味を含めて」


 他人に対して人間は共感する生き物だ。

 人が微笑んでいれば、自分も嬉しくなる。

 楽しんでいる人を見れば、自分も楽しくなる。

 悲しく涙を流す子がいれば、自分も悲しくなる。

 それが嫌だから、周囲の人を笑顔にしようとする。

 人間として当たり前の感情と共感。

 けれど、物事にはある程度の限度というものがある。

 その共感する気持ちが彼は普通の人よりも明らかに強すぎる――。


「つい空気を読んで、自分の言いたいことを言えなかったりすることは撫子さんにはないわよね。どんな状況でも絶対に自分を突き通す子だもの」

「……あえて空気を読まないだけです」

「はいはい。貴方はもうちょっと共感力があった方がいいわ」

「くっ。須藤先輩もそうじゃないんですか?」


 同じく返す言葉はない。

 

「貴方よりは相手を思いやれるけども、猛クンほどではない」

「どっちもどっちですね」

「私達には理解できないかもしれないけど。猛クンはね、他人という存在の感情を自分の感情のように感じてしまうことがある。悲しんでいる人がいれば、自分の悲しみのように感じてしまう。喜怒哀楽すべて、他人と同調しやすいの」

「場の雰囲気にのまれやすい所もあります。確かに兄さんってば、すごく流されやすい性格ですからね。いろんな意味で」


 誰に対して怒ることもなく、何かあっても許してしまう。


「思い返してごらんなさい。私のせいで問題を起こした椎名眞子さんも許した」

「アレは貴方が黒幕でしたからね。眞子さんも被害者みたいなものでしょう」

「……こほんっ。とにかく、彼は何でも許す。受け入れてしまうの」


 それはただ一言で優しさと呼ぶべきものではない。

 撫子は自分の黒髪を撫でる仕草をしながら、


「兄さんは相手の立場に立って物事を考えられると思っていました。共感力が強いと言う事は逆に言うと、傷つきやすいって事でもあるんですね」

「そういうこと。人の喜びも痛みも、通常の人よりも何倍も鋭敏に感じてしまう」


 他人に対して優しすぎた。

 思いやりがあるのは良いことだけども、それが行き過ぎてる面がある。

 共感力が強い子は自分の感情よりも他人の感情を優先してしまう。

 そんなことを続けていれば心は必然的に疲れるし、壊れることもある。

 それを淡雪達は危惧していた。


「兄さんは人から嫌われることを極端に嫌う人です。それは幼い頃に須藤家で受けた仕打ちが原因だと須藤先輩は思ってるワケですね?」

「トラウマって言うのは、消えてなくなるわけじゃない。実の母から引き離された子供が受けた心の傷。それは彼に無意識に他人から嫌われたくないという意識を生んだのかもしれない」


 本来ならば怒るべきところを怒らない、というか怒れない。

 誰しも、人が怒れば、相手との亀裂を生んでしまう。

 人間関係が悪くなる、相手に好かれない。

 そういう負の感情を招きたくなくて、彼は怒ったりしないのだ。

 はぁ、とため息をつく撫子は、

 

「相手の心情を深く理解してしまう。共感力の強さが兄さんの問題だったなんて……」

「猛クンは我慢強いの。嫌な事も全部我慢して、仕方ないと思ってしまう。今回の件でも、きっと彼はたくさんの我慢をさせてしまったわ。そして、その我慢は自分のためじゃない。相手のためなんだから余計に辛い」

「我慢なんてし続けていたら、いつかは疲れ切ってしまいます。どこかで発散させないと……兄さんの優しさは諸刃の剣と言う所ですね」


 どんな事情があっても相手を悲しませたくない、という心が働く。

 それは一見すれば、すごく優しくて思いやりがあり、素敵な人に見える。

 だが、それは彼自身には負担もかけ続けてきたはずだ。


「私の中でも気になっていたことに説明がつきました」

「理解してくれてよかったわ」

「ただし、須藤先輩の方が兄さんの本質を理解していたのが悔しいですね。恋人の私以上に彼を理解しているなんて負けた気分です」

「それは貴方が他人の事を思いやれないだけだから気にしないでいいわよ」


 淡雪の言葉に珍しく彼女は「ですね」と凹んで見せる。

 

「あら、今日は素直だわ」

「確かに貴方の言う通り、私は視野が狭いので。他人に優しい人になります」

「良い心がけだわ。素敵な女子になりなさい」

「上から目線が気に入りませんが!」

「ふふっ。それで本題なのだけど。猛クンのために、今の私達には何ができると思う? それを一緒に考えてみない?」

「一緒に、ですか? 私と先輩が?」


 淡雪が今日、撫子を誘ったのはこれが目的だ。

 猛に対して何かをしてあげられるのは彼女達しかいない。

 淡雪達、2人の妹が兄を救ってあげられるはず――。

 

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