第93話:最後の一線を越えてみましょう


 デートを終えて、何事もなく帰宅した。

 話があるといったのは、お風呂上りのあとの事だった。

 猛がいつものように撫子の髪をタオルで拭いてくれる。


「……今日はとても楽しいデートでしたね」

「俺は映画でぐったりしたよ」

「あら、最終的にホラーを選んだのは兄さんでしょ」

「選択肢が狭すぎたんだ」

「でも、絶望系のホラーは久しぶりじゃないですか」

「最後まで脱出できずに死んでいく、あの後味の悪さが何とも」

「ホラーですから。ちょっと人が死にすぎた感はありますけど」


 それでも、映画を見る間、撫子の手を離さずにいてくれた。

 怖がりな撫子のために、彼は安心させようとしてくれたのだ。

 その優しさが好きだ。


「……それで改めて、お話とは何でしょう?」


 タオルをしまうと、彼は撫子に向き合う。

 真面目な顔をしながら、語り始める。


「例の噂の件なんだけどさ」

「悪意ある噂を流している相手の事ですか?」

「うん。実はその相手から接触があったんだ」


 彼は今まで隠していたことを話し始めた。

 電話してきた相手側から条件を出されたこと。

 それが飲めない場合は両親に告げられること。

 聞けば聞くほどに呆れるしかない。


「まったく、陰湿なストーカー気質の女性ですね。許せません」


――私と別れろだなんて、他人に言われる筋合いなんてない。


 この10年間の片思いがようやく実った。

 撫子の気持ちを踏みにじらないでもらいたい。

 幸せを壊す相手は許せない。


「もしも、両親にバレたら、最悪の場合……引き離されるかもしれない」

「……お母様は私達の交際を認めないでしょうからね」

「それ以上に父さんにも迷惑をかけるしな。だから、いろいろと考えたんだ」


 世界を敵に回すことが猛の負担になっている。

 彼は家族を犠牲にできない。


「考えたという事はまさか……?」

「その条件を飲む、という事も想定してみた」

「嫌ですよ、絶対に嫌ですっ!」


 懇願する撫子を複雑な表情で見下ろす。


「俺だって嫌だよ」

「他に方法はないんですか」

「恋人のふりとか、淡雪さんにも協力してもらうかもしれない」

「そっちの方が余計に嫌です。あの人に兄さんを渡したくありません」


 不満のあまり猛を睨みつける。


――よりにもよって、あの人とか。最悪すぎ。


 その瞳が怖くて、彼はしどろもどろになりながら、


「た、例えば、だよ」

「最悪の例え話をしないでください」

「いろいろと考えて、どれが一番いい選択肢なのか考えてる」

「……私と別れる事を前提に話を考えていませんよね?」


 妹に恋をする。

 それは猛にとってどれだけ心を痛め続けてきたものか。


「答えてください。まさか、これがラストデートなんて言いませんよね!?」


 必死に詰め寄り、彼に問いただす。


「もうひとつの選択肢。……バカなことを考えていませんよね、兄さん」


 そう、撫子から離れて距離を置くなんて、バカげたことを――。

 

「兄さん。私と距離を置くつもりではありませんよね?」


 脅迫相手に屈して関係を戻すなんて言い出さないように、強い口調で言った。


「選択のひとつとして考えている」


 顔色を曇らせて、彼はそういう事しかできなかった。


「考えているって、そればかりじゃないですか」

「実際にそうなんだから、そうとしか言いようがない」

「……兄さんは私を捨てるんですか?」


 せっかくなれた恋人関係でも、彼にとってはその程度の気持ちなの?


「違うよ。違うんだ」

「何が違うんですか? 結果としてそうじゃないですか」

「だったら、俺はどうすればいいんだよ!?」


 苦悩する猛がリビングに響き渡る声で叫んだ。

 悩んでも、悩んでも、答えが出なくて、苦しくて。


「今回の件は俺が原因だ。他人にバレるきっかけを作ってしまった責任がある」

「……結果的にです。何かも貴方に背負わせるような真似はしません」

「相手の要求を飲む以外に俺達に何ができる?」

「いくらでも、できることはあるはずです」

「このままじゃ、ここでの居場所も、家族の関係さえも失う事になるんだぞ」


 必死に居場所を守りたい。

 その苦労は理解できる。

 だとしても、彼に対して怒りのような気持ちを抱く。

 小さくため息をつきながら、叱責するような口調で言い放つ。


「――いい加減にしてください、兄さん!」


 思わず声を荒らげ、猛に思いをぶつける。


「居場所? 家族? そんなものを失うことを恐れて何になるんですか!」


 確かに撫子達は追い詰められている。

 けれども、それで相手の言いなりになるのはただの敗北だ。


「これまで、私は全部を捨ててきたんです。友情も、家族も、兄さんの愛のためなら誰とだって敵対して、切り捨ててきました。これからだってそうします」


 撫子には親友と呼べる相手がひとりもいない。

 猛に対して好意を抱く子が撫子を利用して、接近しようとしたことがあった。

 

――あの時から他人を信じられず、友達も数えられるほどしか作らなかった。


 人を信じない、猛のためなら人間関係さえ捨ててきた。


「貴方は私の事を強いと言いました。違いますよ、失うものが兄さん以外にないだけです。ありとあらゆるものを私は捨てて、今、兄さんの前にいます」


 彼を失うことは撫子の“生きる意味”がなくなること、そのものだ。


「私には兄さんしかいないんです。兄さんだけしかっ!」


 必死の想いを彼にぶつける。


「私と同じ気持ちではないんですか? そうしてはくれないんですか?」


――兄さんは違うの? 私ではない、誰かを求めるつもりなの?


 こんなことで、壊されたくなんてない。


「兄さんに私は必要ないってことですか?」

「……そうじゃない。俺は撫子を守りたいんだ。そのためなら」

「守ってませんよ。兄さんはいつまでも、甘い考えの理想主義ばかり。世界に嫌われるのが怖い、家族が壊れるのが怖い。それが貴方の弱さです」

「あぁ、そうだな。昔からずっと俺は弱い」


 彼が撫子に弱音を吐いたときのことを思い出す。


「誰にも嫌われずに、この愛を選ぶことはできないんですよ」

「覚悟は決めてるはずだった。でもさ、両親だけは裏切れない」

「ならば、裏切ってください」

「……撫子?」

「私のために家族を、何もかも捨ててください」


 それをしろと言うのが無理だとは分かっている。

 誰よりも優しい人だからこそ。

 酷だと分かっていても、猛には捨ててもらいたい。


「……私の事を愛していますか?」

「愛してるよ。もうずっと前から」

「だったら、その想いだけを残して、あとはすべて捨ててください」


 猛に抱き付いて、はっきりとした言葉でそう囁いた。

 身体が震えながらも、はっきりとした言葉で、


「兄さんの苦しみも、悩みも、心の痛みもよく分かります」


 心の中で悩み苦しんでもがいている。

 撫子と別れる事を選ぶことを悩むことで、どれだけ辛い想いをしているのかも。


「どんなにみっともなくても。必死にあがいて、もがいてでも、この愛を手に入れる覚悟は貴方にないんですか?」

「俺は……」

「全てを捨てでも私を選んでくれないんですか?」


 今ならば、まだこの関係を止めることができる。

 そんな事さえ猛の態度からは感じられる。


「私はこの温もりのためなら、何でもできます。家族を捨てろと言われたら捨てますし、他人に何を言われても気になどしません」


 執着心がないわけじゃないし、他人に対して冷たい感情を持ってるワケでもない。

 

――ただ、必要ならば何を捨ててでも兄さんを私は選ぶ。


 それだけのこと――。

 撫子は猛しかいらない。


「まだ引きかえせると思っているのなら、それをできないようにしてあげます」

「何をするつもりだ?」

「最後の一線を越えてみましょう。それなら、もう引き返せませんよ」


 彼に全てを捨てる勇気を与えられるのは撫子しかいない。

 ソファーに押し倒すようにして、想いを伝える。


「さぁ、兄さん。思い切って超えてしまいましょう」


 身をゆだねるようにして、撫子は彼にもたれかかる。


――どんな形でも私を抱けば、彼も決意が固まるに違いない。


 どんな時でも、猛の事だけを思って生きてきた。

 真っすぐな撫子の想い。

 猛はそれを受け止めてくれるのか――。


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