第8話:胸を揉みしだかれた人生初の経験です
それは撫子のある一言から始まった。
「思春期なんてどうしてあるのでしょう?」
「思春期?」
「はい。そんなもの、さっさと滅びてしまえばいいのに」
「な、撫子さん。いきなり物騒な事を言わないでくれ」
「……すみません。つい本音が」
「本音なんだ。ちょっと怖いぞ」
ふたりはパジャマ姿でテレビを見ていた。
彼は夜遅くまでリビングでテレビを見る事が稀にある。
テレビの内容に興味はなくても、兄の傍にいたいために一緒にいる事は多い。
「なんで、思春期は撫子を敵に回してるんだ?」
「私の邪魔をするからです。兄さんが私を堂々と愛してくれません」
「……それ、思春期と関係あるかな?」
「ある程度の年齢の子供がお母さん離れする時期がありますよね。恥ずかしいという理由で距離を置く、私と兄さんの関係も似たようなものではありませんか?」
「んー、どうだろうか。そこに関係性があるとも思えない」
撫子を愛してくれている。
そのことに疑問は抱いていなくて。
けれども、妹と仲が良すぎる兄という構図を彼は恥ずかしいと感じているらしい。
その態度が撫子はどうしても許せずにいた。
「……し、思春期なんてどうしようもないだろう」
「ならば、明日からは私を愛してると公言してくれます?」
「俺は自分の学校生活を守りたい。あと2年もあるんだ、平穏無事で過ごさせて」
「ほら、これですよ。他人の目を気にして、恥ずかしがって私への想いを隠そうとします。シスコン気味なお兄ちゃんと言う目で見られても気にしません」
「俺が気にするから! むしろ、俺だけが大ダメージをくらってるよ」
「……むぅ。兄さんはもっと自分に素直になるべきだと思いますよ。ひどいです」
撫子は不満げに俯きながら、そっと猛に寄り添う。
ソファーにもたれながらふたりは、お互いに何とも言えない時間を過ごす。
「思い出してください、昔の兄さんはとても私に優しかったんです」
「今でも優しいつもりなんだけどなぁ」
「素直ではない点がマイナスポイントです。減点対象ですよ」
そっと頭を撫でる仕草をしてみせた。
――さりげない、こういう所がホントに優しい人だわ。
他人の目さえければ、恋人のように甘えさせてくれるのに。
周囲の目を気にしすぎて、何もできなくなってしまうのは問題だ。
「懐かしい話でもしましょうか。子供の頃の私は人付き合いが苦手で、いつも兄さんの後ろについて遊んでいましたよね」
「そうだったな。あの頃の控えめすぎる撫子が懐かしい」
「姉さんとは年も離れていましたし、気軽に遊べる相手でもなかったですから。私の世界は兄さんだけだったんです」
いつも、自分よりも少し大きな背中を見つめていた。
誰よりも優しくてみんなに笑顔を振りまいていたから人気もあった。
「あの頃は本当にお友達も少なくて、兄さんだけが私の大切なお話相手でもありました。あれは小学1年の夏の事です。兄さんが転んで怪我をした私を抱っこしてくれました。文字通りのお姫様抱っこです」
「……っ!?」
「ふふっ。兄さんも思いだしていただけたようですね。そうです、怪我をして動けないと泣いてた私を、お姫様抱っこをして連れて帰ってくれました。その時に兄さんは私に言ったんですよ」
怪我の痛みなど、兄に抱っこされてしまって忘れていた。
彼は優しい声色で言った。
『撫子は僕にとってのお姫様だから。ずっと、守ってあげるからね?』
妹を口説き落とすために、甘ったるく囁いた、大和猛少年(8)。
過去のこととはいえ、今聞かされるのは地獄でしかない。
猛は気恥ずかしさに頭をかかえてしまう。
「あ、あぁ~。やめれ。やめてぇ」
「今も、ずっと言葉通りに傍で守ってくれています」
「ち、違うんだ。あれは……」
「あの言葉は今も私の中で、大事な思い出の一つとして残ってます。兄さんにとって私がお姫様だとしたら、私にとってはいつだって兄さんは王子様ですよ」
「や、やめてくれ。俺の過去を暴露しないで!?」
恥ずかしさで穴があったら入りたいと言う顔をする。
もっとそう言う表情が見たくて言葉を続ける。
「まだあります。あれは小学3年生の頃でした」
「まだあるの!?」
「まだまだあります。大好きな兄さんと過ごしたこの15年の人生と言う歳月の間に、私たちはかけがえのない思い出をたくさん持っていますから」
猛との思い出話は尽きない。
思い出すようにして彼女は過去を懐かしみながら、
「当時、初めて海へ泳ぎに行きました。プールの経験はあっても、海を初めてこの目で見たんです。家族で海へ行ったあの日の記憶を覚えていますか?」
「……えっと?」
猛にとっては初めての海ではなかったかもしれない。
そのため記憶を呼び起こすのに時間がかかっていた。
「覚えていないようですね。だとしたら思い出させてあげましょう」
「また何かしたの、俺?」
「はい。海を満喫していた私達ですが、初めての海に浮かれた私はまともに泳げもしないのに、つい浅瀬から沖の方へと出て行こうとしました」
「――ぬ、ぬぎゃああああ!」
突如、彼の痛烈な叫び声がリビングに響く。
どうやら思い出したらしく顔を青ざめさせていた。
二階の方にいた姉の雅から「どーかしたー?」と声が聞こえてきた。
「な、何でもないっす。大声だしてすみません」
ここで雅がこられると問題がややこしくなるのでノーサンキューだ。
「ふふふっ。案の定、私は足のつかない場所で溺れてしまったんです。慌てて兄さんが助けに来ようとしてくれました」
「撫子さん、もうその辺で暴露は……」
「そうです。まだ子供だった兄さんも私を助けるのは困難でした」
「待って。本気で待ってください、それ以上はダメだぁ、言葉にしないで!? 」
我慢できず、猛が撫子の口を押さえようとする。
その手を避けながら過去の事実を伝える。
「兄さんは私の身体に抱きつくようにして助けてくれました。ですが、掴んだのは手でもなく、私のまだ膨らんでもいない胸でした」
「――がはぁッ!」
「そうです、小さくとも兄さんへの想いがつまった私の胸を両手で揉まれてしまったんです。一度ではなく、胸を揉みしだかれた人生初の経験です」
「ち、違うんだ、あの時は必死でセクハラするつもりは一切ありませんでした!」
「分かっています。助けようとした子供が溺れてしまう事もあるんです。水の事故は危険です。兄さんが私の小さな胸を掴んで揉んでしまった事も命には変えられません」
彼は必死だったし、撫子も水の怖さにびっくりしていた。
胸を揉まれたのだと気付いたのは陸に上がってからだった。
ただ、それも幼い心には些細なもので、ドキドキ感しか残らなかった。
「ぽっ。鷲掴みされた私の胸と同じように、私の心も兄さんに掴まれてしまいました」
「あ、あれは救助だ。幼女の胸なんて揉んでない。掴んでもない」
「そうですね。ただの事故です」
頬を赤く染めながら意味深に撫子は言い放つ。
「ですが、私の胸に初めて触れた異性は兄さんというのは事実です」
「……あ、あぁ。そういうことになるかもしれないね。他意はないですが」
「くすっ、兄さんが私のこの胸を大きくしてくれたんです」
「うががが……助けて、誰か俺を助けて。過去の俺を遠慮なく殴り飛ばしていいから」
そのまま、うなだれてしまう。
その姿はちょっと可愛らしくて、つい意地悪したくなってしまった。
「落ち込まないでください。私は嫌がっていません。愛されてると喜んでます」
「俺は今、過去の自分の行いに対して消してしまいたいと泣きたい」
「気にしないでください。過去は消せません。どんな過去も受け入れるしかないです」
シュンッとしてしまった彼に「とどめをさしてもいいですか?」と囁いた。
「とどめ!? ま、まだ何か……あるの?」
「ありますよ。とっておきのが。兄さんは忘れてしまっているようです」
「……人生って長いから忘れたい事ってあると思うんだ」
がっくりと肩を落とす彼に私はその手の上に自分の手を重ねながら、
「小学5年生、あれは春の桜の季節。お花見を一緒に兄さんとしていたんです。すると、兄さんは私に言ったんです」
桜の綺麗な花びらが舞い散る光景を眺めながら、
『撫子は本当に可愛いね。僕にとっては撫子は桜のような可憐な花だ』
その後、撫子の方へと顔を近づけて、
『大好きだよ……撫子は僕だけの妹だから。誰にも渡さない』
思い出すだけで顔を紅潮させてしまう。
大和猛の撫子への独占欲。
そして、猛はゆっくりと彼女の唇に……。
「お、思い出したッ!? 思い出したからそれだけは勘弁してください」
「うふふ」
「ホントにお願いします。誰かに知られたら、俺の人生が、終わってしまう」
「思い出してもらえて何よりです。過去は変えられないから怖いんですよね」
「そのことは誰かに言うつもりは……ないよな。ないよね。ないですよね?」
よほど他人に告げられるとまずいと思っているのか慌てた様子だ。
「言いませんよ。兄さんが私を裏切らない限りはですが。もし、万が一にでも裏切った時は覚悟してくださいね?」
「う、裏切った時?」
「はい。私は兄さんの秘密をたくさん知っています。それらすべてを暴露してしまうかもしれません。社会的な死が貴方を襲うこともあるでしょう」
秘密、と口にした途端に猛は顔色を変えて青ざめる。
「そ、それってどんな秘密? まだ何かありますの?」
「兄さんを社会的に抹殺できるほどの“秘密”もありますよね」
にこやかに微笑みかけると彼はぶるぶると震えながら、
「もちろん、秘密は秘密にしてくれるよな?」
「何も脅かすつもりはありません。共に過ごした年月の分だけ素敵な思い出がある、というだけじゃないですか」
「……嘘だ。その顔は嘘だ」
「ふふっ。兄さんと私が積み重ねて来た年月と想いは濃厚すぎて、他人が間に入れるものではありません。貴方が私を裏切らなければいいだけでしょう?」
「その気が一気に失せました。元からそんなつもりはないけどさ」
「これからも一途に私だけを愛してください、兄さん♪」
愛して、愛されて。
私は心の底からこの関係を楽しんでいる。
この幸せを邪魔する相手がいるというのなら、私は決して許さない。
「私は兄さんが好きです。誰にも貴方は渡しませんよ。そのためならば……」
「……何をするつもりだ? 変なことをたくらんでいないよな?」
思わず身構える兄さんに私は含みを持たせるように、
「さぁ? いろいろと考えているところです。私の高校生活もまだ始まったばかりですからね。兄さんの現状もまだ全て把握してはいないので様子見です」
「そのまま何もしないでいてほしいなぁ」
「それは兄さんの行動次第ですよ」
遠い目をする彼に私は耳元で囁く。
「私の行動が心配ならば簡単な方法がありますよ、兄さん」
「どんな方法ですか?」
「さっさと自分に素直になって私を恋人にしてください」
「それは一番やっちゃダメな奴だからね!」
「何を今さら。もっと愛を深め合いましょう。ちゅー」
「それはダメだからっ。く、唇を近づけない」
降参した彼は恥ずかしがって撫子から距離を取ってしまう。
「あらら。本当に兄さんは照れ屋ですね」
「撫子はもっと照れるべきだ」
「私だって照れ屋ですよ。兄さんの行動にいつもドキドキさせられていますから」
「ぐ、ぐぬぬ……」
彼の言葉や行動のひとつひとつが胸を高鳴らせる。
「兄さんに恋をしてから私の世界は常に幸せに満ちていますよ」
「俺は今、暗黒色の過去に苦しんでる最中だ」
「ホント、あの頃の素直すぎる兄さんはどこに行ってしまったんでしょうね?」
「俺があのままだったら、今頃はやばいことになってただろ」
「いえいえ。愛を深め合い、関係を持ち、禁断のプレイを楽しんでいたのでは?」
「……そんな展開、バッドエンドしかないじゃん」
真面目すぎて考え込むタイプの猛にはその選択肢は難しいようだ。
「兄さんに必要なのは自分の心の扉を解放するカギかもしれません」
いつかはそのカギを再び、手に入れてもらいたい。
猛に望むのはただひとつ。
あの頃の情熱を見せてほしいことだった――。
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