書かれるもの、書かれないもの

 心理士(師)の仕事は幅広だ。というより、正確には心理士(師)が置かれる職域が幅広にわたっている。個々人の観点から見れば、短期間では「全ての職域においてそれなり以上のオールラウンダー」となることは難しく、その心理士(師)がどこに所属してきたかによって専門性がほぼ決まってくる、といっていい。高齢者デイサービスの専任職員と、幼児の療育機関の専任職員では、別の専門性になるだろうことは、容易に想像がつくものと思う。無論、両者の臨床には共通点もあるが、本題でないのでここでは述べない。


「検査は好きか」と同職の心理士(師)から尋ねられることがある。ここでいう検査とは、心理検査のことだ。医療機関などで実施される心理検査と、インターネットで簡易にできる性格診断のようなものは混同されることが多い。しかしそれらはもちろん別のものである。インターネットのある時代にあって、検査のネタバレがないとはいえないが、本来は版権フリーのもの以外、大っぴらには公表してはいけないことになっている。また、インターネットでひろく流通している性格診断のようなものは、医療機関等でアセスメントの根拠として用いられることはない。それはいわゆる「当たる、当たらない」とは別の理由による。ひろく流通しているものは学習による結果の恣意的操作がより可能であるという点で妥当性に欠く、ということから、用いられないのだ。例外は、認知症の検査ぐらいだろうか。なお、認知症の検査が何故例外になりうるのかは、そもそも平易な記憶を問う項目が多い故だろう。練習効果をあげること自体記憶の力が乏しければ難しい。こういった検査は「できる」ことよりも「できない」ことに、より意味が見出されるものである。ほか、検査の信頼性と妥当性の担保には、標準化という手続きが用いられるが、説明が長くなるので割愛する。

 ともあれ、検査が好きか、と問われて、心理士(師)の答えは「好き」か「嫌い」かに二分することが多いように思う。「どちらでもない」という中庸な回答に出会ったことは、個人的には一度もない。振り返ってわたし自身は、というと、その答えは、「好き」になる。

 強く申し上げておくが、これはどちらがよいという類のものではない。「嫌い」であってもどこに見せても恥ずかしくない優れた所見を書く心理士(師)は掃いて捨てるほどいる。逆に「好き」であっても——いや、これ以上はやめておこう。日々研鑽が必要なのは、どの心理士(師)においてもそうなのだから。

 検査が好き、な話のつづきに戻ろうと思う。

「検査が好き」と口にしたとき、先輩はやっぱりな、と言いたげに口の端を上げると、わたしを、或るかたちに、角張った、既成の入れ物のかたちに切り取った。その音を確かにわたしは深奥で聞きとった。言語で表現できる水準のものを好きと言って憚らない、それで仕事ができていると思っている若輩者、そのような器にわたしを入れて、心なしか先輩が安心したのではないか、わたしはそのように推し量った。先輩はそのままの口の形で言う。「おれはよ、検査、苦手だから」と。実際、先輩の検査報告書は何について言っているのか、文章だけではわかりかねることが度々あった。わたしはその先輩に検査報告書の指導を受ける立場であった。提出した報告書は書類の上に置かれたまま、別の書類が重ねられていく。待てど暮らせどなかなかOKが出ず、もうすぐ結果を聞きに来院されるのだからと先輩を急かしてしまったことも一再ではない。「あなたは、文章は上手だと思うよ」。先輩の言う「文章は」の部分にわたしは少なからず傷ついた。褒め言葉に見えて、先輩の重視するポイントを脅かすことがない、かすめてすらいない、そういう空気を微かに感じた。そのことに若干苛立ってもいた。

 わたし自身がこのように受け取る屈託に心あたりはある。先輩の個別療育は、掛け値なしに素晴らしかった。優れた噺家のごとく、間合いが命、の職人技だった。自閉的な子どもが楽しそうな声を出し、先輩を見て反応を求めるようになり、人に求めることの芽ぶきがきっとあることを予感させた。嬌声のうちにあっという間に過ぎてしまったかのような時間の中でも、言葉かけも、選ぶ玩具も、後から考えればすべて説明づけることが可能だった。なぜあのときああしたのですかと言語的に問えば、先輩は首を傾げた後、決まって「そのときはなんかそうするのがいいと思ったから」と答える。その口吻からは、言語に変換し得ない水準で天賦の何らかがあることへの自覚が匂い、わたしは再び微細な苛立ちを覚えた。そうは言っても、幾度もそのような瞬間を目の当たりにすれば、子どもの新たなる能動性を引き出すことにおいておそらくどう頑張ってもこのひとには敵わないだろう、ということをわたしは徐々に認めるようになっていった。おもしろいことに、指導らしい指導を受けた記憶がないが、わたしが先輩を認めるにつれ、いつの間にかわたしはフリーパスで検査報告書を出してよいことになった。

 随分昔のことだ。

 そこにあったのは感情のやりとりだけのことでもなかったと思う。書きえないものについて、追求する姿勢のことでもあった、半分そう思いたいところもある。書かれるものと書かれないものについて思うとき、わたしがせめてできることは、検査報告書を記すとき、立体を立体としておくことを、また時間経過の可能性を、ある意味諦め、文字でその立体と経過のアウトラインをできるかぎりなぞることだ。ラインを引くというのは、切り取る行為で、えいやっ、と決めるしかない領域である。意識にのぼる次元の検査目的への回答のみならず、読んだ人の、特に検査を受けた当人の、言語外のことがらも言語を通じて動き出すように尽力することが、せいぜいである。

 検査報告書を作成するにあたり、情報の次元を文字におとし、断腸の思いをもって切り取られるものを諦めるとき、亡霊のようにあの先輩を思い出す。梅の木には梅が咲き、桜の木には桜が咲く。諦めてからはじまるものもある。そしてもがいたあげく諦めて手放したその残骸が後になって役だつことが少なくない。いや、むしろその落ち穂たちこそが、特定のオリエンテーションがなく、定期異動がつきもので領域を跨がざるをえないこの身をはからずも助けてきたのだった。

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粗品ですが 和泉眞弓 @izumimayumi

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