第14話 疲労困憊。三

 それはさておき、と下野が俺に向き直った。

「お弁当、食べるよね?」

「いらない」

「まぁ、私の選んだものが君の好みではないのかもしれないけれど。だったら、すぐにでも買いに行くよね? さっきの話ぶりだと、これまでよりはお財布に余裕があるみたいだけど」

 下野の言葉に、沈黙を返す。横を向いて視線を合わせないようにしていると、下野が俺の肩を掴んできた。俺の前に座り、小さい子供諭すような口調になった。

「食べないのは、ダメ。身体を壊して、死んじゃうのもダメ。君の求める芸術は、命を削るようにしなければ作れないのかもしれないけれど、それでもダメなものはダメなんだよ。だってほら、君が死んだら、その……」

 下野が、頬を赤く染める。それは、部屋の暑さだけが原因ではないように思えた。

 当然だ。俺が死ねば、俺の作風で作られた作品は、もう二度とこの世にあらわれないことになる。俺の芸術が、最上級に素晴らしいものだとは言わない。だが、俺にしか作れないものだって、この世には確かに存在しているはずだ。下野が本物の価値を知っている人間ならば、俺が死ぬことを恐れる理由もよく分かっているはずだし、そこまでの芸術バカだということを俺に悟られるのが、恥ずかしいのかもしれない。

 本当はほかの理由があることも、俺は十分に想像していたのだが。

 食べないという選択をする勇気はないし、そもそもする必要性は見当たらない。下野が言うように、俺は自殺志願者ではないのだから。だが、ただ弁当を渡されるというのでは、俺の中にしこりが残る。だから、「せめて、金だけは払わせてくれ」と言った。

「どうして?」と、下野が不思議そうな顔をする。なぜだ。

「どうしてと言われても、そりゃ、お前に奢られたくないからな」

「いいじゃないか。私にもお金持ちごっこをさせておくれよ」

「もう既に金持ちだろうが。なんだ、家を追い出されでもしたのか」

「そんなわけないじゃないか。言葉の綾だよ、もう」

 下野の頬が、再び小さく膨れ上がる。下野の頬は、触れたくなるような可愛らしさと、触れてはならないような美しさに満ちている。西洋人のような鋭さと、東洋人のような丸みを帯びた頬。それが、とても愛らしく見える。

 ぶつぶつと呟き、何かを考え込んでいた下野が、顔をあげた。やはり俺には、笑っているときの下野の方が美人に見える。

「思い出したよ、私。ほら。パロトン? という奴だよ」

「パトロンだろう」

「あー、それだよ。やー、テストのせいで、頭の中がおかしなことになっちゃって」

「下野。お前って、実はあんまり」

「バカって思ったな? 一瞬でもバカって思っただろ!」

 闘志に燃える目で、下野が俺を睨みつけてくる。本当に、部長みたいな奴だ。分かりやすくて、人付き合いの苦手な俺でも積極的なコミュニケーションをとることが出来る。演技が出来るほど、下野は計算高く動くことが出来ないようだし。

 そんなことが出来る奴なら、俺はとっくの昔に、下野のことを嫌いになれていたはずだ。

 テスト終了後の、ハイなテンションの下野と喋るのは苦労する。気を抜けば、俺も笑ってしまいそうになる。心が軽くなって、俺が背負っていたはずの痛みが、すべて消えてしまう気がする。だから俺は、下野のことを嫌いにならなければならないのだ。

「……で、お前は金を受け取るつもりがないのか」

「当然じゃないか。あ、でもね、代わりと言ってはなんだけどね……」

 下野の視線が、俺の部屋の中で回る。下野と一年間、不毛なやり取りをした俺ならば、その視線の意味が分かる。下野のことを、他の誰よりも濃い感情と共に見つめていた俺だから分かる。下野は俺の絵が欲しいらしい。どうして俺の絵を、ということを考えないわけではない。理由を尋ねても、ちゃんとした答えが返ってきた例がないからだ。いつか、本当のことを話してくれる日は来るのだろうか。それまで、俺の心は平静を保つことが出来るのだろうか。下野という人間のすべてを知らないだけに、それはとても、難しく思えた。

 とりあえず、下野が言わんとすることは分かった。何より、目を輝かせながら俺の絵を指さす、その姿勢が下野らしい。普通は貪欲に見られないよう、少し顎を引いて上目遣いになったりもするものだが。

 下野も部長と同じで、回りくどいことは苦手らしい。

 俺は下野に、小さく頷きを返す。それだけで言いたいことが通じたのか、下野は俺の部屋にある、あらゆる絵を眺め始めた。放っておけば、そのうち作品にキスをし始めるのではないかと思うほど、下野は絵画に顔を近づける。目が悪いという話を聞いたことはないから、細部までしっかりと塗りこんであるのかどうかを見ているのかもしれない。

 一応、美術展に出す作品には手を触れないようにとだけ告げて、下野の動向を見守る。

 実際に美術展に出す作品を、下野が選んでしまったらどうするのか。そのときは、何も躊躇うことなく渡してしまえばいい。なぜならその作品は下野にとって、他に劣るところのあるものであるに違いないのだから。流石の下野も、美術展に出す作品をよこせとは言ってこないだろう。つまり、今の下野が選ぶ作品は、他の作品と比べてランクが低いから、これは出品用でないに違いないと判断された作品なのである。

 だから、下野が選んだ絵を渡すときに、躊躇わないようにしなくてはならない。

 俺の絵を舐めるように見つめる下野を、ぼんやりと眺める。絵を見ることに熱心な下野は、とても無防備だった。自分よりも高さがある作品を見るときはつま先立ちになり、床に作品が置いてあるときは躊躇なくしゃがみこんで、作品と正対する。

 自分の絵を隅々まで余すところなく、その上強い好奇心を持って見られているというのは、心の中を覗かれているようで緊張する。作品展に出品するときもこれだけ緊張したことはないから、やはり下野は恐ろしい。何より恐ろしいのは、下野が、純朴な少女のようにも見えることだ。それでも時々見せる仕草に、女性としての下野を意識してしまう自分がいて、吐き気がする。

 他の女性には、何も感じない。心が躍るような、押さえつけなければ気が狂ってしまいそうな感情は、下野にしか抱けない。だから、俺は、下野のことが。

 ……やはり俺は下野のことを、嫌いにならなければならない。

 その下野が、振り返った。心臓が、小さく跳ねる。

「どうしても、ひとつに絞らなくちゃダメかい?」

「……あぁ、そうだ。緩めると、際限がないからな」

「そうか。うーん、だったら、私はこれを選ぶよ」

 下野が、一枚のスケッチを指さす。それは、一ヵ月も前に描いた、下野の絵だった。

 思わず、吹き出しそうになる口を押える。五臓六腑が口から旅に出てしまうところだった。最早、悠長なことを言っていられない。俺が、下野に嫌われてしまう。そんなことを考えて、内臓に焼かれたような痛みが走る。激痛と呼ぶに相応しい痛みだった。

「ね、いいだろう?」と無邪気な顔で訪ねてくる彼女から、俺はスケッチを奪い取った。わざわざ自画像を選ぶとは、どれほど心臓が強いのだろう。普通なら、気持ち悪いと思う方が先じゃないのか。それを、笑顔で受け入れる心の広さは何に起因しているものなのか。

 ただ芸術が好きというだけで、人はここまで物事を受け止められるようになるのだろうか。

 作品を見られてしまった手前、それがどんな絵だろうとも、隠すわけにはいかない。扇情的なものを選ばれなかったのが、せめてもの救いだ。ただ、そのまま渡すには少しケチをつけたくなる完成度の作品だったために、許可をもらってから書き加える。鉛の黒と、画用紙の白。擦れて混ざり合ってはいても、スケッチを構成する色はその二つだけだ。本当に、この絵でよかったのだろうか?

 裸の作品を渡すことは俺の中の芸術家にとって許しがたいことで、近くにあった安い額縁を掴む。折れ目や皺のつかないよう丁寧に作品を嵌め、裏に薄い木の板を当てて、下野に手渡した。

「ほらよ、たい」「大切にするよ! やったー!」

 人の言葉を遮ってまで、宣言をするようなことではないと思う。それでも、嬉しくなってしまう。相手は下野なのに、もっと、嫌いにならなければならないのに、俺の描いた絵を抱きかかえて喜ぶ下野を見ていると、どうしても嬉しくなってしまう。

 自分の作品を大切に扱われる。

 そのことが、嬉しくないはずがなかった。だから俺は、下野に惹かれてしまっているのかもしれない。『恋をすると、芸術は本物に近づくんだぜ』と、爺さんに言われた言葉を思い出す。胸の奥が、むずがゆくなる。無理矢理下野に金を握らせるわけにもいかない。だから、仕方なく絵を手渡しただけなのだと言い訳を積んで、俺は自分の中で区切りをつけた。

「ところで、君はどっちのお弁当がいい? 実を言うと私は両方とも」

「二つ食べるつもりで買ったのか?」

「違うよ! いや、出来れば味見をさせてほしいかなー、と」

「そんなことか。自由にしてくれて構わないよ」

「そう? ありがとう」

 礼を言われる筋合いはないが、言われると言われた分だけ心が柔らかくなる。

 下野は、心の整体師の免許でも持っているのだろうか。

 二人でお互いの弁当を突っつきながら、絵について語る。一人だと浮かべることの出来なかった情景が、脳に刻み込まれていく。湧き上がってくるというよりは、風景の方が、俺に会いに来てくれているような感じだろうか。

 どうしても我慢が出来なくなって、弁当を食べながら、絵のスケッチを始めた。下野は困ったような、しかし嬉しそうな表情をしていた。

 スケッチにも、俺は手を抜かない。抜けるはずがない。どのように描きこむか、来月見返しても思い返せる程度には、細やかな描写をする。早く描く技術は、スケッチのときにこそ活かされるべきだ。時折、下野も食べる手を止めて、俺の手元を覗き込んでくる。距離が近づくたび、心臓に甘い痛みが走った。

「しかし君、絵を描くのだけは早いね」

「……お前は俺の何を知っているというんだ」

「いや、お弁当食べるのも結構ゆっくりだし、学内を歩いているときも、他の人よりはのんびり歩いているような気がする」

「そうか? 俺としては、普通に過ごしているつもりなんだが」

「それはそれでいいんじゃないかな。余裕を持つのは、いいことだ」

 下野が、俺に微笑みかけてくる。柔らかなそうな髪が、部屋を抜ける風に揺れた。

 下野薫は、どこまでも美しい。神成雄鹿が、僅かに涙を滲ませるほどに。

 下野に悟られないように、俺は首を横に振った。下野の方を向こうとしたが、顔を見ることは出来なかった。なぜか、恥ずかしい。俺の願いが汚いことを、既に自分自身では分かっているからだろうか。しかし、言わずにはいられなかった。

「下野」

 彼女の名前を呼んでから、俺は伝えたかったことの、ほんの一部を口にした。

「俺が絵を描けなくなったら、俺を絞め殺してくれ。芸術家になれなかった俺は、きっと、死よりも苦しい人生を送ることになるだろうから」

「いや、それは私を犯罪者にしようということ?」

「まぁ、そうなるな」

「そこは否定しようよ」

 ふはは、と二人で目を見て笑う。声高らかに笑った後は、下野が俺の頭を撫でてきた。子ども扱いをされているような気がしたが、下野には俺の言わんとすることが伝わらなかったのだろうか。

「俺は真面目な話をしたというのに、どうしてお前は、俺の頭を撫でてくるんだ」

「それは、君が私の理想の作家さんだからだよ」

「……その言い方はやめてくれよ」

 胸が、本当に、苦しくなる。

 下野が俺の頭から手を離し、自分の弁当を食べ始めた。俺も、一枚目のスケッチを終わらせる。二枚目のスケッチに取り掛かろうとしたところで、ふと気付いた。直前までの話とは一切の関係がない話になってしまうが、大丈夫だろうか。

 気にする必要もないか、と考えを改める。

「……下野。ちょっと、聞きたいことがあるんだ」

「ん?」

「お前、どうやって俺が住んでいる場所を……まさか本当にストーカーを」

「違うよ、部長さんに聞いたんだ!」

「部長? ……じゃ、なんで聞いたんだ」

「えっと、暑中見舞い、とか?」

「普通は葉書を出すだろうが。まぁ、なんとなくは想像できるけれど」

 俺の言葉に、下野がフリーズした。喉を詰まらせたらしく、むせ始める。ふたを開けたお茶を手渡しながら、俺は自分の妄想を語る。恐らく、間違ってはいないはずだ。

「部長が、俺を心配していたんじゃないのか。俺、変な生活をしていたから。昔から、あの人はお節介だったし」

 口元を拭って、下野が言う。

「君と部長さんは、古い付き合いなのかい」

「知らなかったのか? まぁ、部長が言ってないだけか。俺と部長は昔からの幼馴染、みたいなものなんだよ」

 俺は昔、部長のことを兄貴と呼んで慕っていたし。

 下野にとっては初耳のことだったらしく、目を丸くしている。

「すごいね。幼馴染が、二人とも同じ大学なんだ」

「学部は違うけどな」

「分かっているよ。でも、君があの大学を選んだのは、部長さんが関係するんだろう?」

「お前なぁ。それを知って、どうするつもりだ?」

「どうもしないよ。いいじゃないか、楽しくおしゃべりをしよう?」

 仕方ない奴だ、と頬を緩める。緩んでしまったことに、胃が痛くなる。未知のものに対する恐怖で、身体が小さく震え始める。こうして面白おかしく下野との会話を楽しめるのは今日が最後だと、心の奥底で決めた。

 そんな、夏の一日が終わっていく。蝉の声など聞こえないくらい、俺を圧殺する心の声が聞こえないくらい、美しく柔らかい音が聞こえる。

 下野の声が、近くで聞こえた。

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