第13話 疲労困憊。二

 下野が部屋に入ってこなかったのはいいが、このまま放置しておくわけには行かない。芸術バカは風邪をひかないかもしれないが、熱中症にはなる。俺もそうだ。下野だって長時間外にいれば、必ず体調を崩してしまうに違いなかった。となると、結局は下野を家に上がらせる他はないように思う。

 しかしわざわざ、風呂に入る必要があるのだろうか? 俺は気分転換に、軽くシャワーを浴びることが多い。ほとんど無意識のうちに水を浴びていることもあって、気付いたらシャツが濡れていたりもする。だが、水道代が、などと腑抜けたことは言っていられない。全ては芸術の為なのだ。汚れと汚さは別物で、俺は汚い身体で芸術に触れたくはないのだ。ちなみに、空腹感に苛まれることによって筆が加速することが多いので、俺が飯を食わないのも芸術のためである。嘘だ。

 本当は、飯を買いに行くことが面倒になるくらい、絵を描くことが好きなだけなのだが。

 熟考した挙句、シャワーを浴びることに決めた。冷たい水を浴びたことで飛び跳ねる心臓を押さえつけながら、身体の表面の汗と熱をなかったことにする。鏡を見て髭をあたり、部屋の隅に積まれていた清潔な服を着て、履き慣れたジーンズを履く。覚悟を決めて鍵を解き、そっと扉を開いた。

「……あれ」

 だが、そこに下野の姿は見当たらなかった。どこへ行ってしまったのだろうと、左から右へ首を回す。白い、人を超えた何かがいるように見えた。

「お、出てきた」

「ひっ!」

 後ろに飛び退く。すると、拗ねて頬を膨らませた下野が、扉の隙間から覗き込んできた。少し、怖い。誤魔化すように扉を開けると、下野はそっぽを向いてしまった。

「……ひっ、って何だい。人をオバケみたいに」

「いると思ったところに居なかったから、吃驚したんだよ」

「そうなの? まぁ、許してあげようかな。私は心が広いし」

 ストライクゾーンの間違いではないのだろうか。下野は、お嬢様のような見た目がからストーリトの少女のような雑食性を見せる。絵画の趣味も、俺にはよく分からない。綺麗なものから気持ちの悪く吐き気を催すような死を象った絵まで、彼女はすべてに愛を注いでいるような気がする。

 その下野が、腕を大きく広げた。白いワンピースが太陽の光を吸って、いつもより笑顔が眩しく見える。まぁ、とりあえずだ、と彼女は口火を切った。

「ふふふ、遂にこの日がやってきたようだね」

「せっかく綺麗な服着ているのに、どうして悪役チックなんだよ」

「さぁ、私を家に招き入れるがいい!」

「無視するな。お前は吸血鬼か」

 下野が笑ったのを見て、俺は部屋へと戻る。後ろを、下野がついてきた。

 扇風機が壊れていることを下野に告げ、風通しを良くするため、玄関は隙間を開けたままにする。人が二人向かい合って座るだけのスペースは用意されているが、ワンピースを履いた下野が床に座るのは、ビジュアル的に許せない。トウで編まれた椅子があればそれに座ってもらいたいのだが、生憎と俺の部屋に、そんな小洒落たものは置いていない。近所には、売っているところすらなかった。

 人が二人腰かけられる程度のソファーに下野を座らせて、俺は床に座る。下野を見上げるような形となった。物珍しげに部屋を見渡す下野を見つめながら、思う。

 本当に、富豪と奴隷のような位置関係だ。

「なんで君は隣に座らないの? スカートの中を覗きたいの?」

「お前、本気で言っているのか」

「いや、軽いジョークのつもりだったのだけど。見たいなら一億万円よこしな!」

「お前、軽口がすごいな」

「そうだよー、ようやくテストが終わったからねー」

 お嬢様であるという自負もあってか、下野は単位を落とさないために必死になる。下野と部室で鉢合わせることがなかったのは、そういうのも理由の一つだったのかもしれない。いや、テスト期間中は部室を開けないという話をしておいたから、俺や部長が入り浸っていたのを知らないだけなのだろうけれど。

 下野がどこからか取り出したビニール袋は見なかったことにして、その服装を眺める。他の一切の色が混ざらない純粋な黒色をした髪を、今日の下野はポニーテールにしていない。いつもがポニーテールであるだけに不思議な気持ちにならないわけではないが、やはり下野は髪を下ろしているときの方が美しい。残念なことに、下野にはポニーテールが似合わないのだ。俺はポニーテールが好きなだけに、なぜか悲しい。

 そして下野は、純白のワンピースを身に着けていた。その白が眩しくて、俺は目を細めてしまう。若い女性にはあまり見られない、脛まで隠す長いスカートが印象的だ。普段の快活な格好とは違い、今の下野は藍色のベルトで腰回りを引き締め、清楚なお嬢様といった格好をしている。顔貌が整っているだけに、ただ、美しいとしか感じられない。

 やはり俺が、下野を絵に描いてしまうのは。

 こいつが、綺麗すぎるのが原因だ。

「……あ、あの」

「なんだよ」

「あんまり見つめられていると、少し照れる、というか」

「そ、そうか。済まない」

 なぜ下野が顔を赤らめる必要があるのだろうか。そして、どうして俺が謝らなくてはならないのだろうか。女性を注視していたという点を考えれば確かにそうなのかもしれないが、下野だって俺の作品を横から観察することが多いわけで、えぇい、どう足掻いても言い訳だらけの醜い脳内になってしまう。俺は、そんなことを考えたいわけじゃないのに。

 そもそも一つだけ、下野は大きな勘違いをしている。

 俺が下野に見惚れていたのは、いや、見惚れていたこと自体は認めるのだが、俺が下野に言いたいと思ったことは、そういうことじゃない。俺が言いたかったことはもっと別なところにある。下野を正面から見上げて、言った。

「どうしてお前は、麦わら帽子を被ってないんだ?」

「帽子?」と言って、下野は頭に手をやった。思案するように目を閉じ、しばらくの間、動きを止める。そして唐突に立ち上がった。スカートが僅かに捲れ上がり、下野の膝が見える。健康的な色をしていた。下野が前かがみになり、輝く眼が、俺の目と鼻の先に来る。

 俺は下野に驚いた。ワンピースを着た胸元が緩かったことと、下野の胸が、予想していたよりもずっと豊かだったことに。俺の視線の行く先を知らずに、下野が小さく拳を握る。

「分かったよ、夏の三点セットだね!」

「いや、三点セットというわけじゃないんだが」

 下野も、大切な忘れ物に気付いたようだ。胸元から視線をあげると、下野が期待に満ちた顔で俺を見ていた。ちょっとした説明を欲しがっているらしく、瞳の光が色あせない。

 見てはいけないようなものを見てしまったような気がして、俺は慌てて目を逸らす。淡い肌の色を見た後に、そんな目をするのは卑怯じゃないか。俺の心が穢れているということが、あまりにもはっきりと分かってしまう。

 だから俺は、下野を遠ざけなくてはならない。

 そんな言い訳を繰り返しながら、俺は持論を語り始めた。

「夏に美しいのは、鮮やかな緑を持つ植物たちだ。青い空を背景にしたとき、緑は普段とは違った顔を見せる。そして、緑に似合う色というのは、俺は白だと思っている。緑は黒の側面を持つ色で、俺は色の対比で美しさを引き出そうとすることが多いからな。綺麗な黒髪、純白のワンピース、そして美人と来て、どうして麦わら帽子を被ろうという発想がないんだ。美人に麦わら帽子という組み合わせは、とてもいいものなのに」

 どうだ、と難しい顔をしている下野に問いかける。下野は、握っていた拳を胸にあてた。

「……聞き間違えかな。私が、美人? ホントに、そう思っているの?」

「こ、言葉の綾だろうが。深く考えるんじゃないよ」

「そうかー、私が美人かー……うへへー」

 真夏の暑さで壊れてしまったように、下野が笑う。決して、照れ笑いではないと思いたい。俺は、思い込みの力を信じることにした。

「ところで君、お昼ご飯は食べたかね」

「突然だな、おい」

「いやぁ、うん。君が突然、私を美人だなんて言うもんだからさ。真似てみたんだ」

 何度も傷を穿り返すつもりなのか、下野は蕩けたような笑みを崩さない。下野が笑っているのを見ると、俺も笑ってしまいそうになる。苦痛と嫌悪を創作の糧にしているはずなのに、柔らかな感覚に包まれてしまう。それはなんとしても、避けなければならないことなのかもしれなかった。

「それで、ご飯は食べたのかい?」

 この流れは爺さんのときと同じだ。先を見据えながら、言葉を紡ぐ。

「当然じゃないか」

 だが、俺が言い終わるよりも早く、腹が鳴ってしまった。昨日も飯を食べたという記憶がないから、順当なのかもしれない。絵を描くのが楽し過ぎて、徒歩三分の距離にあるコンビニに行くことさえ躊躇ってしまうのだ。俺は、本当にアホなのかもしれない。

 しかし下野は、俺を嘲笑ったりしない。

「それじゃ、私と一緒にご飯を食べよう。実はさっき、コンビニに行ってお弁当を買ってきたんだよ」

「おお、お嬢様が初めてのコンビニに」

「いや、私もそこまで世間知らずじゃないから。お昼だって、学食で食べることの方が多いからね。何も、お金持ちだからと言ってすごいお弁当を持ってくるわけじゃないんだし」

「そうか。それだけ言うなら、学食は全店舗をまわったんだろうな」

「一応ね。一人だと寂しかったけど。ねぇ、君も、たまには私と一緒に」

「嫌だよ、人を待ちたくない」

「えー。あ、昨日は学内の喫茶店で、カレーピラフを食べたんだけどね?」

 下野は結構な猫舌らしく、火傷をしてしまったと舌を見せて語る。その純朴な熱心さとは裏腹に、俺が扇情的な気持ちになっていたのが情けない。俺はどこまでも、劣情塗れの糞野郎じゃないか。

「しかし、一食五百円か。俺からすれば、二日分の食費だ」

 冗談抜きでポロリとこぼした言葉に、下野が目を丸くした。

 しまった、と俺は顔をしかめる。

 下野から部長に、部長から爺さんへと、情報が伝播してしまうのは非常にまずい。

「君の食生活、ひどすぎやしないか?」

「いや、まだマシな方で」

「まだぁ⁉ 君、どんな生活をしているのさ」

「……まぁ、最近の話ではないんだけどな?」

 言い訳にも似た前置きをはさんで、一袋百八円の菓子パンを食べていたことを話す。一袋八本入りのパンを一日の食事にしていたという、俺にとっての事実を話す。下野にとってはもはや冗談の類にしか聞こえないようで、身を震わせ、くねらせて笑い始めた。大口を開けて笑わないところが素晴らしいところでもあるのだが、俺だって一人の人間だ。

 ちょっとくらいは、拗ねたくもなる。

「金がなかったんだよ」

「それにしたって、私には考えられないよ。家の人に頼るとか、他にも手がありそうじゃないか。そうだ、君は自分の絵を売ったりしないのかい?」

「親には頼りたくないんだよ。絵は、まぁ、最近買ってくれた人がいるそうだが」

「本当に⁉ じゃぁ私にも」

「売らないよ。この部屋にある完成品は、すべて美術展に出すためのものだから」

 むぅ、と下野が頬を膨らませる。俺の作品を売っている美術商の名前を訪ねてきたが、忘れてしまったと言って誤魔化した。どうやら本当に、俺の絵を買っていったのは下野ではないようだ。

 髪を下ろした下野を見て、もしかしたらと期待したりもしたのだが。まぁ、所詮は妄想の類だ。首を振れば、すぐに消えてくれるだろう。消えてくれれば、万々歳だ。

 そう思うことで、少しだけ心を落ち着かせることが出来た。

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