第12話 疲労困憊

 目を開くまでもない。俺は今、自分の部屋に寝転んでいた。意識のとだえる直前まで、納得のいかない作品に手直しをしていたのだから、当たり前だ。黒川美術展で絵の基礎を教えてもらっているときは夢遊病っぽく歩き回ったりもしていたそうだが、今の俺には、それだけの体力もない。

 大体、この俺が作品の完成度を落とすと思うか?

 作品に対しての、真っ黒な炎を途絶えさせると思うか?

 バカバカしい。実にバカバカしい、はずなのだが。

「クソ気持ち悪い俺は死んでしまえ……あんな俺は、俺じゃない」

 吐き気を催すほどに気色の悪い夢を見て、俺は目を覚ました。見てしまった以上は、心の奥底で自分が考えていたかもしれないという可能性を否定することは出来ず、胸糞が悪い。

 テストを終えて家にこもるようになってから、俺は絵が描けなくなった。外を出歩いても、ダメだった。過去に描いた作品のあら探しをして、直すくらいのことは出来る。だが、新しい作品を描き出すことが出来なくなった。描けば描くほど、何かが違うと理解してしまう。テストの出来が悪かったから、意気消沈しているのだろうか。それは違う、と自分でも分かる。今回のテスト、そしてレポートの提出如何によって、俺が単位を落とすことはないだろう。俺にはその自信があり、ゆるぎない強さを持っているのだから。だとすると、俺の筆が重く、進まなくなっている理由は何だろう。俺にとっての芸術は、描きたいものを描くことだ。美しい自然の風景の中に残虐な営みがあり、生きとし生けるものからは怒りと嘆きの咆哮が聞こえる。それが、俺にとっての芸術ではないのだろうか。

 ダメだ。考えれば考えるほどに、頭が痛くなる。今日は、最低の目覚めだった。だが、今の俺なら、昨日の俺よりもドス黒い作品が描ける。そう考えられることが、唯一の救いなのかもしれない。

 しかし、なぜあんな夢を見たのだろう、というのは愚問だ。夏の寝苦しさゆえだろうか、気分もあまり優れない。頭が割れるように痛むし、あまり食事をする気分にもなれない。そもそも朝飯になるような何かが部屋の中にあっただろうかと考えて、頭を振った。

 考えることすら、面倒くさい。俺はただ、絵が描ければそれでいいのだ。

 腹にかけていた薄い掛布団をはぎ取って、水道へと向かう。水を飲むためのコップを見つけることが出来ずに、直接蛇口に口をつけた。

 錆が入っているように、水が苦い。素直に、吐き気を催した。

 クーラーなどという気の利いたものはないし、扇風機は一昨日から壊れてしまって動かなくなっている。部屋の窓を開け、玄関にもスキマをあけて風通しを良くしなければ、死ぬということくらいは分かっている。だから俺は、一日中窓を開けていた。玄関の扉も開けっ放しになっているのだが、もはや防犯という概念を捨てつつある。そもそも、絵画を盗むような殊勝な泥棒がいるのなら、会ってみたいものだ。来い、三世。

 首を回して、蒸し暑い部屋の中を眺める。俺の部屋にある作品は、未完成ものばかりだ。既に完成している絵であっても、なぜか美術展に送ることが出来ないでいる。まだ描きこめる、もう少し描きこめると思っているうちに、時間だけが過ぎていた。

 命を削るように作品をつくることは俺にとっての正義だが、命をなくしても大した作品が残っていないというのは、今の俺にとって事実である。俺のことを愛してくれる人間がいないのだから、猶更、考えてしまう。

 俺は、作品などではなく。

 俺自身を愛してくれる人が、欲しかったのかもしれない。

 熱く、太陽にも負けない熱を発している身体を引きずって、描きかけの絵の元へ向かう。筆を手に取るより先に、俺は作品に手をかけた。両腕に力を込めて、中途半端な出来の作品を破る。嫌悪と苛立ちが、俺の呼吸を荒くする。

 俺はどこで間違えたのだろう。

 俺はどこで、迷ってしまったのだろう。

 爺さんと飯を食べたあの日までは、こんな気持ちになったことがなかった。立ち止まってしまっても、すぐに迷いを捨てることが出来た。俺なんかを愛してくれる人がいなくても、俺の作品を気にかけてくれる人間がいてくれるという事実だけで、満足しようとしていた。作品を見てくれる人が増える、それだけで十分なはずだった。

 俺がここまで不安定になってしまったのは誰のせいだろう。今の俺に足りないものは、憎悪だ。自分よりも美しい絵を描く人間に対する憧憬でもなく、自分が絵を描くきっかけとなった人間に対する尊敬でもなく、自分と共に絵を楽しんだ人間に対する親近感でもなく。

 下野にも、爺さんにも、部長にも。全ての人間に対する、憎悪が必要だ。

 俺が描くべき感情は、決して正であってはいけない。負の感情を抱かなければ、俺の作品は芸術として完成しないのだ。

 外界から拒絶され、同時に俺が外界を拒絶することによってのみ完成する本物の孤独。

 本物の、嫌悪。

 構ってほしいという感覚でもなければ、憐れんでほしいという感覚でもなく、まして恋慕などではありえない。愛や恋や友情などという使い古された言葉では決してたどり着くことの出来ない、本物の感情。

 名前のない複雑怪奇な感情こそが、俺の求めた本物の芸術であることは、間違いではないのだから。

 苦しみ、のたうち回りながらも筆をとる。画用紙に向かい合い、しかし何も描くことはできずに筆を投げ捨てた。鉛筆を持ってみても、ペンを持っても、俺の心には絵が浮かばない。焦燥感にかられた惨めな大学生が、一人で苦悩しているだけだ。

 何も、芸術的なものなど存在しない。

 絵筆を投げ捨て、空腹に吐きそうになる身体を抱きしめる。絵が描けない、たったそれだけのことで、俺は飯を食うことさえできなくなった。家の外に出ることさえ、恐怖している。俺にとっての筆は武器であり、俺にとっての画用紙が心の壁を守る盾であったからこそ、戦う術を奪われた俺は、怯えることしか出来ないのだ。

 恐ろしい。何もできなくなって、何も求められなくなって。

 何も生み出せなくなった自分が、存在ごと消えてしまうことが、恐ろしい。

 身体から、ゆっくりと熱が抜けていく。汗で重くなったシャツが、風に吹かれて冷たくなっていく。えづいても、涙がこぼれそうになっても、誰も俺を助けてはくれない。分かりきっていたはずのことなのに。

 震え、怯えながら自分の首を絞める。命を削れば、俺は作品を生み出せるはずだった。生み出せなければ、そこで死ね。荒くなる呼吸、早くなる心拍音。しかし俺の手からは、徐々に力が抜けていく。

 やはり俺は、死ぬことが出来ない。自分の追い求めた作品を作り上げるまでは、絶対に、死にたくはないのだろう。

 失意と絶望に食われ、視界が僅かに暗くなる。一度、眠ってしまおうか。暑さで死ぬかもしれないが、そのときはその時だ。だから俺は、そっと目を閉じた。

 夏の街からは、コンクリートの焦げた匂いがする。命を燃やして、日々を生きる若者たちの匂いがする。俺の部屋からは、絵の具の匂いしかしなかった。命を燃やしても、明日への希望にしか縋れない匂いしかしなかった。暑さで鈍くなる身体の中で、もっとも鋭敏なものは聴覚なのかもしれない。俺は、玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。

 部長がきたのかもしれない。飯を適当にしか食べていないことを悟られると、今度こそ激昂されるかもしれないので、気合を入れて立ち上がる。たったそれだけのことで、体中から嫌な汗が出た。

 玄関へと向かう。しかし、隙間からは誰も覗いていなかった。サンダルを履いて、ため息とともに外へ出る。

 そこには、純白の天使がいた。


「………………………………」とりあえず、扉を閉める。

「ちょ、ちょっと! なんで閉めようとするのかな」

「不審者はお断りだ……帰れ……」

「ひどいよ! それが暑中見舞いに来た友人に対する態度なのかい?」

「うるさい、お前は俺の……」

「……君の、何?」

 いらぬことを口走ってしまった、と固く口を閉ざす。

 俺を訪ねてきたのは、白いワンピースを纏った下野だった。汗をかいているようには見えなかったし、もしかしたら、自家用車で近くまで送ってもらったのかもしれない。なぜそんなことをしてまで、という気持ちがないわけでもないが、下野は金持ちだ。俺持っているものが違うのだから、俺がしないようなことをしていても不思議ではないだろう。

 それより、純白の天使ってなんだよ。俺、気持ち悪いな。

 扉を閉めるため、一生懸命に内側へ引く力を込める。なぜか下野も、開くために結構な力を入れていた。その下野が、何事かを喋り始める。

「いきなり来てしまったのは悪かったよ、でも、携帯を持ってない君もどうかと思うよ!」

「ハッ、初手から言い訳とは恐れ入った」

「だって、君も私を締め出そうとしたじゃないか」

「どこまでも俺を悪者扱いしたいみたいだな」

「だから、君の対応が鋭すぎるだけだって!」

 下野の言葉に、血液が沸騰しそうになるのを堪えた。俺はどうせ、トゲトゲの陰険野郎だ。心がささくれているせいで、誰も触れたくはないだろうし。

 とりあえず、この状況を打開しなくてはならないということは分かった。言い訳を、頭の中で練り上げる。絵を描くより、倍は簡単だった。

「……部屋の掃除をしてないからな」

「君は男だろう? 別に、そのくらいのことは気にしなくてもいいじゃないか」

「だから、お前にも見られたくないんだよ。今の俺の部屋は」

「芸術家の部屋は汚いもの、と相場が決まっているじゃないか! というか私の偏見だが、部屋に仕事道具が散乱しているほど、その作家は仕事をしているような気がするし」

「芸術バカが、言葉だけはスラスラと……」

「ん? 何か言った?」

 何も、と返して、頭を回転させる。要は下野が、どうしても入ってこられない状況にすればいいわけだ。例えば、俺が半裸であるとか、床が汚れていて踏み入ることが出来ないだとか。その中で、もっとも信憑性が高く、下野に対する牽制力のありそうなものと言えば。

「……昨日は、風呂も入ってないんだ。あまり、人様に会える状態じゃない」

「そうなの? ……それは、悪いことをした」

 かもしれないね、と付け加えたのを俺は聞き逃さなかった。だが、俺の言葉選びは成功したらしい。下野の力が緩んだことを確認して、俺は肩の力を抜いた。

 人様に会うときは身なりを整える、という案外単純な常識だ。下野も大学に通うときとは少し違う格好をしていたから、その意識はあるはずで、俺の選択は間違っていなかったのだと思う。このまま、話の流れと主導権をこちら側に渡して貰うことが出来れば完璧だ。扉を完全に閉めたうえで、鍵をかけよう。

「とりあえず、俺がシャワーを浴びるまでは扉の外にいろ。入ってくるな」

「別に、覗いたりしないのに」

「……俺が見ていないときに、作品に触れられるのが嫌なんだ」

「私がそんなことをする人間に……といっても、説得力はないか。うん、一枚か二枚くらいなら、君の絵を持って帰ってしまうような気がする」

 仕方ないから、少しくらいは外で待つよ。下野はそう言って扉から手を離した。 俺は下野が譲歩をしたことよりも、俺の絵を盗む意欲を見せたことの方が驚きだった。本当に、絵画泥棒をする根性のある奴がいたとは。世界の広さを実感する。

 下野には気付かれないように静かに鍵をかけて、部屋の奥へ後退する。どっと疲れが押し寄せて、目の奥がズキズキと痛んだ。

 呼吸をするたびに、心臓の辺りが苦しくなった。

 その原因がなんなのか、今の俺には皆目見当がつかないのであった。

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