第9話 テスト前にも休息はない。

 爺さんのもとを訪れてから数日が経っている。テスト期間だというのに、俺は美術室へと足を運んでいた。運ばざるを得なかった、というのが正しいのかもしれない。

 芸術の女神に愛されているという自信がないから、たとえテスト期間であろうとも美術室へと出向かなければならない事情があったのだ。人間であるが故に、俺の記憶力は心もとない。頭の中に浮かんだ情景を、明日もまた思い浮かべることが出来るとは限らない。だから俺は、必死でメモを取る。現実を投げ捨てたくても投げ出せない、弱い俺はメモをとる。たとえ美術展の提出期限に間に合わなくとも、生まれ出る作品俺は描き続けなければいけないのだ。過去の俺を、殺さないためにも。

 次に描くべき作品、次に描きたいと思っている作品のスケッチをするためだけに、俺は筆を動かしていた。どれくらいの時間を美術室で過ごすことになるかは分からないが、熱中症にならないように、窓を開けるくらいのことは考えている。俺は、そこまでバカではない。焦っているから、何かを見落としているかもしれないが。

 開け放した窓からは、蝉の声が聞こえる。廊下を通る大学生たちが、テストの出来について語る声も聞こえてくる。高音と低温が秩序なく入り乱れる、腹と頭の両方に響く不協和音を聞きながら考えていた。

 単位を落とすと言いながらも笑っている学生は、何の為に大学へ通っているのだろう。単位を落とすと言いながらも何一つ努力をしない学生は、何の為に愚痴を漏らすのだろう。俺も両親を騙すようにして大学へ通っているわけだから、あまり大層なことは言えないのだろうが。それでも、人よりも努力をしているという自覚はあった。

 筆を動かしていると、どこからともなく声が聞こえる。聞こえているような気がしているだけで、それが幻聴であることは知っていた。しかし、俺はその言葉に耳を傾けてしまう。

 自覚を持てる程度にしか、打ち込んでいないのか。

 何もかも中途半端なままじゃないのか。

 お前にとっての芸術は、他人を蔑むための道具に過ぎない。

 いつか大学を卒業し、就職するとき。就職できなかったときに使う免罪符を、せっせと作っているだけじゃないのか。お前にとっての芸術とは、所詮その程度のものなのだ。

 結局お前の芸術は、未完成の偽物でしかないのだから!

 違う、違うと繰り返しているのに、声が消えることはない。頭の中で、俺が考えていることに反論する声が聞こえる。道端を歩いているときも、夜、横になるときも、常に俺の思考を圧殺しようとする声が聞こえる。そのたび、胸をかきむしりたくなる。喉を切り裂きたくなる。原因は、既に分かっていた。部長に悩みの種を植えられて、爺さんと話をしてから、俺は答えを導き出したのだ。

 俺を本当の意味で肯定してくれる人間が、俺に欠けている何かを提示してくれる人間が、隣にいない。それだけのことが、今の俺には欠けていた。

 俺は、本当の意味での自己肯定が出来ない。完璧な自己肯定をすることが出来ず、自尊心も他人を押しつぶすほどには強くない。だから、こんな幻聴に悩まされる。

 全ては、俺の弱さが原因だ。

 死にたくなるほど苦しくても、俺は死ぬことが出来ない。俺理想の芸術を体現するまで、俺は死ぬことを恐れ続けるのだろう。俺は、自分の才能を信じていたかった。信じていかなければ、生きていけなかった。っそれが出来ないなら、俺は死にたい。だけど、死ぬのは怖い。死に至るまでの道のりがどんな道のりであろうと、俺は死ぬのが怖かった。俺という人間が理解されないまま死ぬのは、身を裂かれるよりも辛い。

 徐々に筆を持つ腕が重く、視界が暗くなっていく。鬱蒼と茂った森の中に放り込まれたように、世界から音が消えていく。森には、太い幹に鋭い棘の生えた、触れることもかなわない木々が生えている。隙間を縫うように、息を殺して森の中を探す。これは、俺の妄想だ。だから何も恐れることはない。

 森の中ほどに、それほど大きくはないが、開けた場所があった。物陰からよく目を凝らしてみると、幼いころの俺がいるのが見える。突然に、森が揺れた。影が吹き抜け、悪意を持った蔓が幼い俺の背中に触れる。声をあげる暇すらなく、幼い俺の心臓に、小さな種が埋め込まれた。俺にはそれが、何か分かる。俺はその感情に、ずっと悩まされて生きてきたのだから。

 幼い心臓に埋め込まれた弱気の種は、俺の恐怖を吸い取って大きくなる。社会への憤怒、バイト先での数々の軋轢、そして、下野への羨望。負の感情全てを吸い取って、俺の身体に根を伸ばす。本来得るべきだった感情や経験を捨て、少年は、身を削るように生きた。

 負の感情だけを掬い取るように、蔓は、少年から様々なものを奪っていく。森から抜け出すことはなく、少年は青年へと成長していく。茨に囲まれた、生存には適さない環境で生き続けていく。

 少年の背が伸びるにつれて、ゆっくりと、心臓から背中へと、蔦が伸び始めた。背中を覆うように伸びる蔦は、肩を通って首へと巻き付き、少年の顔を覆い始める。目が見えなくなっても少年は動じない。呪いのように、あるいは祈りのように、腕を動かし続けた。俺には、それが絵を描いているようには見えない。俺には彼が、自らの痛みを描いているように見えた。

 姿かたちが俺と同じになるにつれて、少年を眺めている俺の身体にも大きく変化が現れ始める。血管の中を、蔦が這う感覚が分かる。足の神経はとうに蔓と入れ替わっていて、文字通り根が生えたように動かない。腕に巻き付いた蔦が筋肉を縛り、全身が岩のように重くなった。

 動けなくなった俺たちのもとに、ふらりと精霊が現れる。娼婦のような妖艶さと、聖女のような気品を纏った女の精霊だった。もう一人の俺に触れると、彼は砂になって崩れる。吹き付ける風に流されるまま、もう一人の俺だったものは、俺の身体の周りで渦を巻いた。体表面から、細胞をかき分けるように、俺の中へと入り込もうとしている。過去の自分も、まだ死にたくないと言っていた。

 美しい芸術の妖精は、そっと俺の頬にキスをする。たったそれだけのことで過去の自分は霧散して、今の身体も崩壊する。愛されているという保証がないのに、その一端を示すための行為を受けただけで異常な反応を示してしまう。塵となった俺の身体は彼女に吸い込まれ、その血液に取り込まれる。彼女の腕の中には、唯一崩壊を免れた、俺の脳が抱かれていた。

 血液として彼女の身体の中を巡りながら、俺は、その脳そのものでもあった。

 そして彼女が、俺の脳に舌を伸ばす。刻まれた皺を伸ばすように、丹念に舐めた。神経の上を優しく這う、彼女の舌に背徳的な快感を覚える。光の差し込まない森の中で、彼女は興奮に酔っていた。赤熱した硝子のように熱い頬を、冷たい脳に擦り付ける。彼女の頬は、夕焼けのような色をしていた。

 本当は、すべてを食い尽くしたい。けれど、それが叶わない理由を持っている彼女は、俺を食べることが出来ない。煩悩をねじ伏せる、更に上位の欲望に従って、彼女は生きていた。

 彼女の口から、一滴の涎が垂れた。彼女の瞳が濡れている。息を荒げる彼女の熱い吐息が、俺の脳を蕩けさせる。俺が、芸術家になれずに死ぬのなら。

 俺が彼女に言う言葉は、すでに決まっていた。

 そして唐突に、俺の妄想へ区切りを入れる。

「……終わらない、か」

 他愛もないとは言い切れない場面を思い浮かべながら、俺は目を見開いた。俺の劣情と、歪んだ完成から繰り出される妄想に、無理矢理終止符を打つ。このまま妄想を続けても、終わりが見えないことが明らかだったからだ。だが、次に描きたい場面は定まった。今の筆の乗り方なら、二日もあれば仕上げることが出来るだろう。それが異常と言われようが、明らかに雑な塗り方をしているのではないかと勘繰られてしまおうが、構わない。

 俺には俺の、制作スタイルというものが存在しているのだから。

 脳を大事そうに抱える、少女の絵を描く。その横顔が、どうしても俺の知っている奴に似てしまうからと、その目を布で覆い隠した。唇を徹底して塗り込むよう、ただのスケッチであっても丁寧に色を塗りこんでいく。消しゴムと鉛筆を紙にこすりつけるだけなのに、なぜか俺には赤い色が見える。これなら、無事に描けそうだ。

 下書きだけのつもり美術室を訪れたのに、どうして俺は本格的に絵を描く準備をしているのだろう、と疑問に思わないでもない。明日のテストは教科書の持ち込みがあるから、今日はもう勉強をしなくてもいい。そんなことを考えているから、随分と心に余裕があるのかもしれなかった。爺さんから受け取った金も、俺の余裕を形成するために一役買っているのかもしれない。

 長い間、不埒なことを考えていたからだろうか。呼吸は荒く、目は霞み、汗が体中から噴き出している。だが、流石の俺も、食われることを妄想しただけで発情するはずがない。不思議に思って顔をあげると、美術室の窓がすべて閉まっていた。

「……馬鹿じゃないのか、俺は」

 何かを忘れているような気がしていたが、まさか窓を開け忘れているとは思わなかった。いや、窓を開けようとしたこと自体は覚えている。しかし、自分の脳内に浮かんだ情景が消えることが恐ろしくて、無意識的に筆をとったのだ。そうして気が付いてみれば、俺はこうして熱中症もどきになっている。

 本当に、俺はバカなのかもしれない。いや、どう考えても馬鹿だろう。芸術バカ以外の何物でもない。どうして、こんな大学にいるのかが不思議になるくらいの、真性のバカだ。バカでありたいと、今の俺は思っている。

 窓を開け放ち、額に浮かぶ汗を拭い去る。直前まで書き込みを続けていた、白と黒だけで描かれたスケッチに目をやった。描き込み過ぎたせいか、目隠しをしているのに下野だということが分かってしまう。下野のことを細かく観察していた、というわけではないのだが、人よりは注意深く下野を見ていたという自覚がある。それがあまり褒められたことではないのも分かっていて、だからこそこのスケッチをどうするべきかを悩み始めていた。

 俺としては、この絵を完成させたい。下野には、嫌われるかもしれないが。

 俺が芸術家として大成するための、いや、大成などという言葉を使うこともおこがましい。俺が芸術家として芽吹くために必要な触媒が、下野薫という人間なのだと思う。そして、彼女に抱く感情がどこまでも暗く、劣情と呼ぶに相応しい色合いをしているからこそ、俺は彼女の傍に居たくはないのだ。彼女が芸術の女神だなどということは思いたくないが、俺にとっての彼女は、芸術の精霊程度には神格化されている。

 だからこそ俺は、彼女のことを嫌いにならなくてはならない。

 彼女を、決して汚さないために。

 しかしこの絵に描かれた下野は扇情的な表情をしていて、あまり人様に見せたくはないと思ってしまう自分がいるのも確かだ。例えば、こういうのはどうだろうか。

 俺は色鉛筆を取り出して、下野の姿をした精霊に色を塗り始めた。

 この絵は、俺自身が観賞するために描けばいい。何も、下野のことが気になってしょうがないわけではなく、下野という人間の美しさを俺の心に焼き付けておくことで、下野をこれまで以上に、嫌いになれるという。

「……やめた。俺は、何を考えているんだ」

 下野のことばかり考える癖は、未だに治っていない。だから、俺はダメなんだ。

 筆をおいて、大きく背伸びをする。スケッチを済ませておくために訪れたはずなのに、気が付けば色まで塗り始めている。俺はきっと、どうしようもないほどに絵を描くことが好きなのだろう。それこそ、自分では止められないほどに。

 美術以外の生活はどうだったろうと、ここ数日の生活を振り返ってみる。

 爺さんの忠告通りに飯だけはしっかり食べていた、と言えればいいのだろうが、勉強と絵を描くことが忙しくて、あまり飯を食べる時間を割いてはいられない。適当に、コンビニで買ってきたパンで済ませてしまっている。それもあまりよく噛まずに、水で飲み込んでしまっているのだから、俺の食生活というものは人様に見せられるようなものではないのだろう。

 だが、それでもいい。今は、ただひたすらに描いていたい。一日でも絵を描かない日があれば、自分の中から芸術に対する執念が消えてしまうような気がした。俺が作るのは、情熱などという美しいものではなく、もっと黒い、怨みが染みついた作品でなければいけない。

 だから、俺の脳内妄想を直接的に描いたこの絵は、まだ描くべきときではないように思う。そう思いながらも、筆の勢いは止まることを知らなかった。

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