第8話 未確定な客婦人
「客の名前はよく覚えちゃいないが、金持ちってことは確かだな」
爺さんが首を捻る。本当に、お客の名前を憶えていないようだ。
「爺さんが覚えていないなんて、初見の人か? 随分変わった人がいるもんだ」
「おう。若い女性だったし、結構珍しくはあったんだけどな」
「若い女性に好かれるとは、これまた奇異な話に聞こえてくるぜ」
「お前なぁ、作家が自分を卑下するもんじゃないぞ。お前の作品はな、ちゃんと誰かの心を支えているんだ」
「へいへい。……ん? 若い、女」
爺さんの言葉に、俺は頭を殴られたような衝撃を感じた。爺さんの経営している店を訪れるのは、地域の爺さんや婆さんくらいだ。そこに若い女が現れた、というだけで俺の額に冷や汗が浮かぶ。これが、爺さんの店でなければそんなことを思いはしなかっただろう。しかし、この爺さんは黒川美術商の店主なのだ。奴も知っている美術部部長の、黒川克己の実の祖父なのだ。部長も何かと俺のことを気にかけてくれている節があるから、不安要素を拭うことが出来ない。
俺のすべてを、下野に見られてしまっている。そう思うだけで、気が狂ってしまいそうになる。不審に思われることを承知の上で、俺は爺さんに尋ねた。
「なぁ、その人って、ポニーテールだったか?」
「あ? 何、運命でも感じているのか?」
「いや、そういうわけじゃない」
「そうか、なんか勿体ないな。まぁ、美人だったことは認めるが、ポニーテールではなかったぞ。」
でも、お前が好きだからってあの作品たちを買いに来たというわけではないだろう。どちらかというと、暇つぶしに店に来てみたら、気に入った作品があった。だから買ったというような、そんな曖昧なものだと思う。まぁ、お前も知名度があるわけじゃないし、そもそもお前の知り合いにあんな美人がいるはずもないんだけどな。
などと爺さんが余計なことを言い始めたりもしたが、俺はそもそも現実についていけない。これは本当に、俺の作品が売れたから生まれた利益なのだろうか。自分の作品の質を貶めるつもりは一切ないが、一度や二度、店を訪れただけの人間がその店においてある作品を作家買いするようなことがあるのだろうか。金のない俺には、真似たくても出来ないことだ。
机にあった呼び鈴を鳴らして、爺さんが会計を始めてしまう。その僅かな時間を利用して、俺は改めて封筒の中身を数えなおすことにした。俺の描いた絵をすべて買い取って行ったにしても、この封筒に入っている金が多すぎるような気がしてならない。いくら爺さんが俺と古い付き合いで、部長が俺のことを気にかけてくれているからといって、憐憫や温情を受けるようなことはしたくない。たとえそれが、どれほどの親切心に裏打ちされていたとしても。
封筒の中に入っている札を一枚ずつ慎重に数えなおしていくと、やはり正規の金額に比べて十数枚多い。ただ買っていったにしては、多すぎる。
俺が顔をあげると、爺さんが困ったような顔をしていた。
「俺は、売上を誤魔化したりしてねぇよ」
「待てって。いや、でも、これは」
「少し、予想より多いかもしれんな」
爺さんが歯を見せて笑った。俺の反応が初々しいのか、面白がっているようにも見える。
「客が、お前に渡せと言って上乗せした分も含まれているんだよ」
「上乗せ? チップみたいなものか」
「違うよ。先行投資だ。自分が大好きな芸術品を作る人間が、飢え死になんかしたら堪ったものじゃないからな。その為の金だよ。だから、それで飯を食え」
「まさかとは思うが、強要してないだろうな。汚い金だったら嫌だ」
「俺がそんなことすると思うか? 黒川重蔵、腐ってもそのくらいの誇りはある」
久々に芸術について話せたのが楽しかったのだろうか、爺さんは平常よりも多くの酒を飲んでいた。少しふらついた足取りで立ち上がった爺さんに遅れて、俺も店を出る。
夏らしい熱気が、俺たち二人を覆っていた。空腹状態だったら倒れていたかもしれない暑さではあるが、今の俺にとっては何と言うことはない。むしろ、店の中で冷えた体には心地よいくらいに感じた。
手元にある封筒を覗きこみ、その厚みにもう一度驚く。金欠故に昼飯を爺さんに奢ってもらおうという発想に至ったわけだが、これだけの金銭があれば十分だろう。半分は支払っておこうとしたところで、俺はその手を止めた。爺さんのことだ、どれだけ言っても金は受け取らないだろう。むしろ、俺が怒られる未来まで見える。爺さんには爺さんなりの考え方があるのだろうし、誇りもある。それを、無下にするわけにもいかない。
忘れてはいけないが、俺はあくまで、仕事として地元に帰ってきただけだ。いつもなら俺の絵を買ってくれた地域の爺さんや婆さんに対して、感謝状のような絵葉書を描いたりするのだが、今回はどうするのだろう。一人の女性に対して数十枚の絵葉書を送り受けるわけにもいかないし、かといって他に感謝をする方法というものも思いつかない。本人の家に押しかけてまで礼を述べることは出来ないし。
とりあえず、この金は取材費に回すことにしよう。明日の生活より、今日の芸術だ。封筒を鞄にしまい込むと、俺は一人で歩いて行ってしまう爺さんを追いかけた。酔いが本格的になってきたのか、その足元がおぼつかない。家まで送り届ける必要がありそうだ。
「なぁ、爺さん」
「おん? なんだ、何か用事か?」
「あのな、俺がこっちに帰ってきたのは、あくまでも商談のためなんだからな。爺さんに飯を奢ってもらいたくて帰ってきたわけじゃないんだよ」
「なんだよ、寂しい奴だなぁ。拗ねるぞ」
なぜこの爺さんは、酔っているときでも茶目っ気を忘れないのか。少しだけ下野の影が見えたような気がして、俺はかぶりを振る。照り返すアスファルトに目の奥を焼かれたように、少し頭が痛くなった。
「もしかして、今日はもう、用事はないのか?」
「そうだな、お前の絵をまとめ買いした女性がいるって話はしただろう?」
「大丈夫だ、ちゃんと聞いていたから」
「でな、その人に聞いたわけだよ。うちで扱っている新人の作品を購入してくれた方には、名刺代わりに絵葉書なんかを送らせているんです。だから、住所を教えていただけませんか、って」
「……まさか、断られたのか」
「おう。まぁ、一度にあれだけの金を使ったんだ。金蔓扱いされるのが嫌だったんだろ? そうでなくとも、芸術品を購入したことを家人に秘密にしておきたいという人は、世の中にいっぱいいるものだからさ」
時折ふらつく爺さんの肩を掴みながら、俺は頭の中で別のことを考えていた。
俺の絵を買ってくれた人は、何を思って俺の絵を買ったのだろう。俺の絵の、どこに惹かれたのだろう。下野や部長、そして爺さんのように、俺という人間を知っている人から評価されたわけではない。
純粋に、俺の作品を評価した人間がいるというのが、俺はどうしようもなく嬉しかった。もしかして、俺は下野に。
「おい、聞いているのか? 制作依頼の話なんだけど」
爺さんの言葉で思考が断ち切られ、俺は顔をあげる。もう、爺さんの家が見えていた。
「ちょっと考え事をしていたんだ。いや、依頼はすべて引き受けるよ」
「そうか。でなぁ、幼稚園の先生から、風景画の依頼が来ていた話なんだが」
「またあの人か。今度は水門川か? 杭瀬川ばかり描くのは嫌なんだけど」
「そういうなよ。絵画における水の表現は、まだまだ現実に追いついているとは言い難い。お前の芸術家としての人生すべてを捧げてもいいようなテーマだと思うが」
「それを言うなら、人の感情を絵に込める方法だって、まだまだ完璧じゃないだろうが。だったら俺は、心に食い込むような、全部を飲み込んだら感動の余り吐き出すような、そんな絵が描きたいっていうのを」
「お前、芸術について語るときだけ饒舌になるのをやめたらどうだ? そうすれば、少しは女にモテるかもしれないぞ」
「別に、俺は女に好かれたいからって、絵を描いているわけじゃないんだが」
言い合いながらも、俺は鞄から紙とペンを取り出した。爺さんの話を聞いて、保育園の先生が言っていたという場所や情景、子供たちに伝えたいものを細かくメモしていく。地元の風景を残したいだけなら、写真でもいい。だが、保育園の先生は、あくまでも人が切り取ったものとしての風景を残したいらしく、絵による風景に拘っていた。
もしかしたら子供たちに、想像や空想を通して自由に発想する力を身につけさせたいのかもしれない。もしくは、写真よりも不鮮明な絵画を見せることで好奇心や探求心をあおり、実際にその場所へ行かせてみたいと思っているのかもしれない。事実に即した記録を残すなら、俺の絵は写真に勝てない。それでも俺や、俺と同じような新人作家の絵を選ぶ人がいるのは、そこに思考の自由や、意志の力があるからなのだと思う。事実を見比べるだけではなく、相手の見た世界と自分の見た世界との違いを感じさせるために、保育園の先生は絵を購入し続けているのかもしれない。もちろんこれは、俺の想像でしかないのだが。
メモを取り終えると、爺さんが俺の鞄を掴んできた。追剥ごっこをやるつもりではないだろうなと少し身を固くすると、爺さんが俺の瞳を覗きこんでくる。全てを見透かすような爺さんの目が、俺は少しばかり苦手だった。
そして爺さんは、評価に違わぬことを言う。
「どうせお前、さっきの金は取材費にしようとか考えているんだろ」
「は?」
視線を逸らし、鞄を引こうとした。だが、爺さんは手の力を緩めない。太陽はまだ天高くにあり、温められたアスファルトから立ち上る熱は、人体から汗を拭きださせるのに十分すぎるほどだった。蒸し風呂の中で息を止めているような、苦しさの中で戦う。
先に悲鳴を上げたのは、ロクに運動もしていない俺の身体だった。夜なら人並みに以上に動けるのに、と既に枯れているだろう老人を睨む。俺はいったい、何で戦おうとしているのだ。
俺から取り上げた鞄を抱きしめるようにして、爺さんは息を切らしている。取材費として使うなら、売上金は渡せないということか。部長の差し金、だけが原因ではないのだろう。芸術に固執した人間の行動力は、時として常軌を逸していることがある。
それは、俺自身がよく分かっていることでもあった。
だからこそ、誤魔化すことは出来ない。
大きく深呼吸をして、頭痛を誤魔化すように、奥歯をしっかりと噛み合わせる。
蝉の死骸を見つけたときのような興奮はなく、燕の死体を見たときのような冷たい感動もない。あくまで平静でいられるように、俺は自分の腹に手を当てた。息が整ってから、俺は爺さんに言った。
「別に、どう使おうと、俺の勝手じゃないか」
その言葉が来るのは最初から分かっていたとばかりに、爺さんが笑う。俺から鞄を取り上げた意味はないのか、特に抵抗や説教もなく鞄を返してくれた。正直なところ、拍子抜けした。爺さんのことだから、余分な金を握らせて、力技で説得しに来るかと思っていたのに。
俺の知る爺さんは、そういう人だった。だが、目の前にいる爺さんは笑っている。
笑ったまま、俺に話しかけてくる。
「雄鹿、生き急ぐなよ。人生は短いが、立ち止まるくらいの時間は用意されているのだから。満足のいく作品も作れないままに、身体を壊しちゃ意味がない。老人の戯言と思ってくれても構わないが、これだけは覚えておいてくれないか」
言葉の波に威圧され、動けない。酒臭い息をまき散らす爺さんと、俺は正対する。
爺さんが、皺だらけの顔を歪めて笑う。
「お前の作品を愛した人がいることだけは、忘れるんじゃないぞ」
それだけを伝えて、爺さんが家の中へと消えていく。追いかけることも出来ず、ただ爺さんの言葉を反復する。俺の作品を愛してくれる人が、本当にこの世の中にいるのだろうか。いてほしいと願う反面、出会いたくないとさえ思う自分がいる。俺のことなどどうでもいい、俺は作品が評価されたいのだと言いながら、見つめてくれと叫んでいる俺もいた。俺はどうしようもなく矛盾していて、依怙地なまま貧乏くじばかりを選んでいて。
正直な気持ちを、誰かに伝えることさえ、難しくなっているのかもしれなかった。
「……熱いな」
夏の日差しを受けて、額と首筋に痛みを感じる。しかし、心の中は冷え込んでいた。
記憶の中では、爺さんの目が、凍ったガラス片のように痛い。
爺さんの口から洩れる言葉は、紫煙のように俺の心に沁みこみ、魂を焼いた。
それは爺さんが、俺のことを思っているからこそ届く言葉なのだ。バイト先で店長たちに浴びせられた、浅はかな意思と欲望を吹き飛ばすほどに思い言葉なのだ。爺さんの言葉を信じるべきなのだろうと、今の俺には分かる。爺さんの忠告に従うべきなのだろうと、バカな俺にも想像は出来る。
だけど。
俺は運命に抗いたい。芸術の女神様がいるのだとしたら、その女神様の姿を拝むまでは。
俺はまだ、苦しみの中に暮らしていたかった。
一人きりで、駅へと向かう道を歩いた。陽炎が揺れ、流れる汗が視界を滲ませる。
夏はまだ、終わる気配を見せない。
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