第7話 おいジジィ。
まぁ、爺さんの言うことは話半分に受け止めておけばいい。孫の部長と違って、この爺さんは平気で嘘を吐く。本人が嘘と自覚しているのかどうかも怪しい文言を口から発することもあるから、たまに会話が成り立たなくなってしまうこともある。昔から、素直な部長はよくからかわれていた。
……小さな頃は、部長のことを兄さんと呼んでいた。そのことを、今になって思い出した。
「それで、俺を待ち伏せていた理由は?」
ひとしきり笑って満足した後、俺は爺さんに問いかけた。
爺さんは節くれだった指を振り、意地悪な笑顔のままで文句をつけてきた。
「言い方が違う。やり直しだ」
「俺の背中を狙っていた理由は?」
「違うだろ。というか、お前が冗談を言うのは珍しいな。何か悩み事でもあるのか?」
「……俺を迎えに来た理由は?」
「おう、よくぞ聞いてくれた。このクソ暑い中でわざわざお前を迎えに来た理由は、他でもない。一緒に飯を食いに行くためだ」
笑い話かと思っていたら、唐突に爆弾を突き付けられた。薄い財布の中身にどのくらいの金が入っているかを思い出して、少し頬が引きつる。一応、こうなることを見越して少し多めに持ってきてはいた。それでも足りなければ貯金を下ろせばいいのだが、あまり無茶なことは出来ない。俺は、金を使えないのだ。
バイトを辞めてしまった今、貯金がなくなった時点で俺の使える金はゼロになる。両親から学費と家賃以外の援助を受けるつもりはないのだ。金がなくなるということは飯が食えなくなるということであり、画材が買えなくなるということであり、ガスも水道も電気も止まるということである。冗談抜きで、それはまずい。
生活が出来なくほどに貧乏になるということは、またバイトを探さなくてはならないということだ。近所の店にはもう行けないし、俺の性格を考えると、どこに行っても一ヵ月持つかどうかが怪しいところだ。
金を使いたくないという一心で、俺は話を誤魔化すことに決めた。
「いや、実は早めの昼飯を」
「お前、嘘を吐くとすぐに分かるよな」
「……何を言っているのか、俺にはよく分からないんだが」
「俺も嘘を吐けない奴のことをよく知っているが、お前も似たようなもんだなと思って」
爺さんは、明らかに自分の孫を引き合いに出している。部長の分かりやすさは天下一だが、俺の誤魔化しがそれほど分かりやすいとは思えない。不思議に思っていると、笑う爺さんに肩を叩かれた。俺の周りの人間は、いつも笑ってばかりいる。
「まぁ、お前がどんな奴かは知っている。どうせ、マトモに食べてないだろ」
「いや、満足はしている」
「ホントか?」
爺さんの問いかけに、俺は小さく頷いた。
満腹にはなっていないけれど、心は満たされているのだ。多分。
俺の顔が少し歪んだところを見て、爺さんが更に嬉しそうな顔になる。
「俺は心が読めるようになったみたいだな。ぬはっ」
一歩下がって、距離を取る。爺さんは、なぜか満足そうな顔をしていた。
「冗談だ、冗談。なに、克己から話を聞いていたからな。最近のお前は飯もまともに食わねぇで作業しているから、見るたびに憔悴しているのが分かるんだと」
お前、痩せたよなぁ。
瞳の奥に別の気持ちを隠したまま、それを悟られないよう笑った顔で居続ける。爺さんは、そういうことの出来る人だ。しなくてもいい気遣いで、俺の涙腺を刺激してくるような人だ。
俺は、人の優しさに弱い。弱すぎるのだと、今、思った。
克己というのは、部長の名前だ。この前美術準備室を覗きに来たときに、俺のこともしっかりと観察していたらしい。昔からの付き合いだけあって、俺のことをよくわかっている。だからと言って爺さんに報告しなくてもいいのに。
秘密が知られているなら、隠しても無駄だ。仕方ない、爺さんについていくことにしよう。商売の話をしに来ただけなのに、飯を食べることになるとは思ってもみなかった。社会人になれば、それも当たり前になるのだろうか。俺の思考を邪魔するように、朗らかな爺さんが語り掛けてくる。その顔は、やはり笑顔で満ちていた。
「冗談はさておき、飯を食べに行こう。お前の生活態度に説教臭い話も、後回しだ。何食べたい? なるべく高そうなものを選べよ」
爺さんの後をついて、駅から少し離れた路地を歩く。爺さんの足が進んでいく先には、鮮やかな朱と黒の暖簾が待っていた。
「……もしかして、昼間から居酒屋へ入るのか?」
「当たり前だろ。腹を割って話すんだ。なるべく人の少ないところがいいじゃないか」
「だから、居酒屋って何だよ」
その選択が、俺には理解できない。だが爺さんは、笑って言う。
「奢ってやるから、店は俺に選ばせろと言ったら?」
「……致し方なし。ついていこう」
「ふはっ、お前も正直な奴だ」
奢られるのは性に合わないが、あまり年長者に逆らい続けるというのも考え物だ。第一、駅前には居酒屋以外の飯屋がない。田舎の駅前なんてこんなものだ、わざわざ遠くまで歩いていくのも考えものだった。
などと言い訳を並べ、嬉々として進む爺さんに続いて暖簾をくぐる。
昼間だというのに、居酒屋は普通に営業を行っていた。昼間専用のメニューがあるのかとも思ってみたが、どうやらそうでもないらしい。個室に入る前に周囲の様子を窺ってみたが、どこの席からも賑やかな声が聞こえてくる。休日とはいえ、昼間から酒が入っているのは如何なものか。素面で騒げるなら、それはそれですごいものだが。
座布団の上に座り、室内を観察する。証明はぼんやりと暗く、部屋の中は驚くほど静かだ。時折隣の部屋から声が聞こえてくるが、それも小さなものである。入る前とは、随分雰囲気が違ってみえた。
敷居の高い店というわけではなく、それほど高価な調度品は使われていない。むしろ、どれもこれも、長年使われているせいで古びてしまっている。色合いは質素で、剥き出しの木目が大衆的な居酒屋であることを主張している。
しかし、それがいい。落ち着いた話をするには、このくらい穏やかな空間の方がいい。爺さんも、そういうことを考えてこの店を選んだのだろう。余計に、話の中身が気になってくる。
俺が話を切り出す前に、爺さんが言葉を繰りだしてきた。
「お前、酒は飲めるか?」
「……まぁ、成人はしたからな」
「ん? 下戸だったか」
「いや、酒を飲む金が勿体ないから、飲んだことがないんだよ」
「ぬはっ、お前、本当に面白い奴だな」
遠回しに酒の誘いを断ってみたが、あまり気に障らなかったようだ。良かった。
酒は売れてから飲めばいい。その時は部長や爺さんと、俺の芸術を信じてくれていた人と一緒に酒を飲みたいと思った。出来れば両親のように、俺を支えてくれた人も一緒に。
テーブルを叩き、爺さんが卓上の呼び鈴を鳴らす。俺に注文をさせると何も頼まないとでも思ったのか、爺さんが俺の分まで勝手に注文を済ませてしまう。注文を取りに来た女性が部屋を出ていってから、爺さんは俺の瞳を覗きこんできた。
「お前さ。絵がうまくなりたいからって、色んなものを犠牲にしているみたいだな」
「悪いか?」
「いいや、そうでもないさ。俺も、昔はそうだった。生活の為に最低限働いた後は、家に帰ってひたすら絵を描いていたよ。酒は売れてから飲めばいい。関係の浅い遊び仲間なら、そもそも作る必要がない。結構本気で、そう思っていたからな」
グラスの水で口を湿らせてから、爺さんは真面目な顔になった。
「だけど、そのうち寂しさで死ぬ。心が壊れて、ズタズタに引き裂かれて、修復不能な傷に限りなく近づいていくんだ。俺の場合は、俺にとって知り合いでしかなかった女性に助けられたわけだが」
沈黙が、二人の間を行き来する。爺さんは、亡くなった妻のことを思い返しているのかもしれない。俺は、若かりし頃の爺さんを自分に置き換えて想像をしていた。
爺さんが昔暮らしていた部屋は、今の俺が暮らす部屋と同じくらいの広さなのだろうか。床は畳で、窓枠は木製で。部屋の内装は、極限まで質素だったのだろうか。もしかしたら、壁にも絵を描いていたのかもしれない。友人付き合いをしなかった爺さんは、周囲からどんな目を向けられていたのだろう。今よりも芸術に対する理解のなかった環境で、爺さんは何を思っていたのだろう。妄想と想像が膨らみ、俺の創作欲を刺激する。
運ばれてきた飲み物に口をつける。久しぶりに口にした炭酸で、喉の奥が焼ける。爺さんも苦い水に口をつけて、過去の話の続きを語り始めた。俺は、爺さんの話を聞くのが好きだ。
孤独だった芸術家と、彼の世界に憧れた農家の娘。芸術家はまだ卵のままで、娘は非常に若かった。そんな二人がどんな風に人生を歩んだのか、爺さんはそのすべてを語らない。あくまで断片的に、大まかな話だけを教えてくれる。想像の余地を残すことで、俺の芸術家としての心を刺激しようとしているのだろう。爺さんも、芸術家としての自分の感性を理解してほしいのだ。そして、自分が見た世界を誰かに伝えたいのだろう。そのためのひとつの方法が、俺に過去を語ることなのだと思う。俺は、そう思うことにしていた。
爺さんの話を、黙って聞く。いくつかの料理が運ばれてきたところで、少し暗くて温かい、爺さんの昔話の幕が閉じることとなった。十分にも満たない僅かな時間ではあったが、いい話を聞くことが出来たように思う。今度は、農村の風景を描いてみようか。貧乏学生というタイトルで、若かりし頃の爺さんをモデルにするのもいいかもしれない。
爽やかな夏の風景、鮮やかな木々の緑に眩しい青空と白い雲。対照的に暗い室内には、人の影と、黒ずんだ手のひら。一見して救いどころのない絶望を描いたような作品でありながら、部屋の主から滲むのは自信と熱意。現実への悲嘆を見せるようで、実は希望を描いている。そんな作品が、描けるような気がする。俺一人では、少し辛い気もするが。
から揚げを咀嚼していると、爺さんが不思議そうな顔をした。春巻きにかぶりつきながら、俺に話しかけてくる。
「お前、結構普通に食べるんだな」
「普通って、じゃぁ何か異常な食べ方があったりするのか?」
「長いこと飯を少なくしていたんだろう? それでいきなり大食いをしようとすると、結構な数の人間は気分が悪くなったりするらしいが」
「俺は、そんな経験ないよ。胃袋が丈夫なわけでもないけど」
空腹を紛らわせるために水を飲むことも多いから、その加減かもしれない。逆にいえば、水を飲む量を減らすことで更に食費を節制できるのかもしれないが、季節は夏だ。素直にやめておこう。
ある程度料理が運ばれてきた後、どうすれば料理のおいしさを絵で表現できるかという話になった。光をうまく使うこと、場面や雰囲気を料理に合わせること、などという話をしたが、結局は空腹の状態で今一番食べたいものを描くという話に落ち着いてしまった。どうにも俺たちは、感性で絵を描きすぎている。
テーブルの上の料理があらかた片付いてしまってから、爺さんが別の話を始めた。
「雄鹿。お前、いろんなものを切り捨てて絵を描いているんだよな」
「まぁ、捨てられないものの方が多いけどね」
「わかる。だが、切り捨てるという行為は心に大きな負担を与えるものだ。お前が疲弊しているのは、その影響もあるかもしれない」
「だけど、これが俺の選んだ道だ。爺さんの後を追いかけているわけじゃないよ」
自分の言った言葉に、後追い自殺という単語が浮かび上がった。だが、爺さんは自殺志願者なんかではないし、一時期本気で仙人を目指したりもしていた。今日の死よりも明日の生の方がよほど興味の対象になっていることだろう。
それでも、俺に忠告をしているのだろうというのは分かった。このままの生活を続けた場合に、俺の精神や肉体が崩壊するのではないかということを危惧しているのだろう。いらぬ世話だといいたいところだが、そうはいかない。今の俺は、昔の俺より遥かに弱い。
それはきっと、事実なのだから。
「お前、好きな女とかいないのか? 愛で世界は塗り替わる。好きな女の一人でもいれば、心の負担も少しは減っていきそうなものだが」
「好きな女、ねぇ」
そう言われて真っ先に思い浮かぶのは下野だが、別に俺は下野のことが好きではない。むしろ、俺は奴のことを嫌いにならなくてはならないのだ。下野以外に女性の知り合いがいないからこそ、浮かび上がってきてしまっただけだろう。アニメやゲームもあまりみないから、キャラクターを連想するということもない。創作作家だからと言って、自分で想像して描く女性を好きになったこともない。
そもそも、俺は誰かに愛されているのだろうか。俺と関わろうとしてくれる女性が、俺の前に現れてくれるのだろうか。考えれば考えるほど、未来は黒く濡れていく。全ては重い雨雲の中だ。
黙っていると、爺さんが面白そうに笑う。
「誰か思い浮かぶ奴はいるのか」
「……いや。全然」
「そうかぁ? 恋をすると、芸術は本物に近づくんだぜ」
「俺は、そんなこと思わないけどな」
色恋沙汰は苦手だ。嘘と遠慮と探り合い、どれをとっても俺の苦手なものばかりだ。知人として知り合ったものが友人になるには何かのきっかけが必要で、友人が親友になる為には長い年月が必要だ。だとしたら親友が恋人になる為に、どれほどの時間が必要なのだろう。俺には他人が分からない。だから、そんなことを考えてしまうのかもしれないが。
俺に女性関係を尋ねても面白い情報が得られるはずもない。それを理解したのか、爺さんも素直に話題を変えてくれた。それからは最近こだわっている塗り方、新しい表現の技法などを話し込み、淡い色彩で絵を描くときのコツも教えてもらった。
爺さんは、俺にとって師匠のような存在だ。俺は、ほとんどの技術を独力で身に着けてきたし、自分にとって相応しい描き方は自分自身で見つけるものだと思っている。だが、小さい頃の俺が、絵画において最低限守るべきルールを知ることが出来たのは爺さんのおかげだ。どうしてそんなルールが設定されているのかを知ることもできたし、気持ちよくルールを破る方法も知ることが出来た。俺は、恵まれているのかもしれない。
ともすればそれは、下野以上に。
俺が締めのお茶漬けを食べていると、爺さんは持っていた鞄をあさり始めた。新しい契約書の類でも持ってきたのだろうか。俺が最後の一口を飲み込むと同時に、爺さんは手元の鞄から茶封筒を取り出した。見た目におかしなところはないが、爺さんの表情はどこか硬い。無理矢理に引き締めているようにも見えた。
配送途中に破損した作品一覧、みたいな紙が出てきたらどうしよう。俺が不安になっていると、爺さんが空になった食器や椀を脇にどけていく。茶封筒の中にはそれなりに大切なものが入っているらしく、態度を改めたいということだろう。俺も爺さんを手伝って、机の上にちょっとした空間を作る。いつにもまして爺さんが背筋を伸ばして座るから、猫背の俺も姿勢を正さざるを得ない。ますます、緊張してきた。
そんな俺の様子を見て、爺さんは少し頬を緩めた。
「別に、おかしなものを持ってきたわけじゃない。作品の値段設定だっていつも通りだし、俺とお前とで受け取る金額が変わったわけでもない。むしろ、お前は自分の取り分をもっと主張してもいいんだぜ?」
「……それは、もう少し有名になってからにします」
「そうやって作品の価値を落とさないでくれ。お前みたいな新人こそ、ちゃんとした値段をつけて、美術品そのものの価値をあげていくべきなんだ」
そうは言うものの、俺は客に値段をつけてもらいたいと思ってしまうような奴だ。だが、爺さんの言いたいことも分かる。印刷していくつもの複製をつくるならともかく、俺の作品はこの世に一つしか存在しないのだ。精密な複製を作ることが出来る人間もいるだろうが、どれほど似せたところで、それは複製でしかない。本物を知る人間にとっては、お慰みにすらならないものだ。
というのは建前で、俺は単純に、世界に一つしかない作品というものを作り上げることが楽しい。同じ絵を沢山の人に売るよりは、一つの絵を沢山の人が美術館に見に来るような、そんな芸術家になりたいと思っている。
だから、直接ペンで描くことに拘っているのかもしれない。
「さて、これは改まって渡す必要のないものだが、今日はちょっと特別なんだ」
爺さんが差し出した封筒を、両の手で受け取る。中に幾重にも折り畳まれた紙が入っているのか、封筒にはちょっとした厚みがあった。これは本当に破損した作品一覧か、廃棄した作品一覧が出てくるのではないかと思って身構える。だが、中に入っていたものをみると、不思議と見たことのあるような紙束が入っていた。
金が入っている。結構な額が、入っていた。
「お前の絵を買っていった人がいる、ということだ。この前もそうだったが、お前はちゃんと喜ぶ癖をつけたほうがいいぞ?」
爺さんと封筒とを、俺は交互に見比べた。うまく、返事が出来ない。
俺が爺さんに預けていた作品は結構な数にのぼる。だから、爺さんと顔を合わせるたびに、何かしらの作品が売れているということはあった。高校生の頃から、爺さんの世話になっているからそれは間違いない。だが、今俺の手元にある封筒には、桁違いの金が入っている。
この封筒には、俺が爺さんに渡した作品がすべて購入されているのでもない限り、ありえないほどの額が入っていた。
俺の疑問を見透かしたように、爺さんが口を開く。
「この前の休みの日に、お前の絵を全部買い取って行った奴がいたんだよ」
「全部⁉ それ、ホントかよ」
「あぁ、当然じゃないか。俺が嘘を吐くメリットなんて、どこにもないだろう?」
「そりゃそうだけど」
「で、なんて言ったかな。その客の名前は――」
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