第6話 やっぱ親友ってのは難しい。

 下野のことを考えながら絵を描き、一区切りついたところで全体の構図が完璧か否かを考える。手指を止めている時間も惜しいから、空いた手を使って絵具を混ぜる。そうして絵具が自分好みの色に仕上がるころには、どこに重ね塗りをして、どんな色で世界を塗り替えていけばいいかがわかるようになっている。そんな作業を、昨日は丸一日繰り返していた。許されるなら、日曜日である今日という日も、すべてを芸術のために使いたい。

 俺は、何度も同じことを繰り返す。何度も、何度も繰り返す。淡い色彩で描かれた作品など生み出せるはずもなく、静謐なタッチで美しき風景を描くことも出来はしない。しかし俺には、この執念がある。望めば望んだ分だけ、俺の作品は色を持つ。それが唯一、俺の認められるべき点だと思った。

 テスト前日に絵を描いていていいのだろうかという疑問が、僅かに頭をよぎった。普段から勉強している分があるのだから、付け焼刃の勉強をする奴よりはいい成績を取れるだろうとは思うし、何より履修単位を落とすかもしれないという不安が今の俺には全くといっていいほどないのだが。嘘である。でも、今日くらいならばいいだろう。

 明日からは、絵筆を握る時間が短くなるのだから。

 握っていた絵筆を置いて、汚してはいけないものから順番に片付けていく。今日はこれ以上の作業が出来そうもない。これが平常の日曜日だったら苦痛と憤怒で欠陥だらけの体に血管が浮き出てしまうほどの事態なのだろうが、今日に限っては特別だ。怒り狂っているほど暇ではないし、片づけを終えたらすぐにでも、確認の作業と着替えに入らなくてはならない。

 絵筆をいつもの場所にしまって、散乱した絵具も、色を揃えて片づけていく。それらすべての作業を終えてから、俺は大きく息を吐いた。

 大きく伸びをして、呼吸を整える。荷物はすでに郵送を済ませた。額縁というのはずいぶんと値が張るものだが、作品の質を落とさないために、場合によっては品位を上げるために、それなり以上のものを使わなくてはならない。でも、三千円の額縁というだけで、俺たち貧乏作家にとってはかなりの出費なのだった。三千円というと、場合と人にもよるのだが、一か月分の昼飯代に相当する金額が飛んでいくわけだ。全ての学生が俺みたいに質素倹約餓死寸前みたいな食生活を送っているわけではないだろうから、一か月分というのは大袈裟に聞こえるかもしれない。

 一食に五百円も使うと考えて、一日三食おやつなしで見積もったとしよう。それでも二日分の食費が額縁に消えるわけで、なるほど、芸術家に金欠野郎が多いのも納得できる。だが、仕方のないことだ。

 作業時間に比例した金額が得られるならば、小説家や音楽家も、もっと金を稼げていいはずだ。言葉という芸術に魅せられ辞書を編纂している人間たちは、考えることを放棄するくらいに膨大な給料がもらえることになる。そうならないのは、俺たちの努力不足かもしれない。だけど、それだけじゃない。

 そうなるべきでない理由は、俺たちが作っているのは芸術品だからだ。芸術品に価値をつけるのは作家ではなく、それを見た他人だ。例えば、自分の作品を世の中に出す場合のことを考えてみればいい。俺たち芸術家が美術商に頼み込んで、販売も行う展示会に出品させてもらったとする。

 出品したのはいいけれど、誰にも購入してもらえなかった。それが値段設定によるものならば商業的な敗戦で、美術商も敗北の理由の一端を担うことがあるかもしれない。だが、考えてみればいい。もしも、もしも俺たちの作品が芸術としての価値がないために購入されていないのであれば。

 俺たちは、本当に負けている。

 売れない芸術家は、既に死んでいるのだ。

「……えぇい、縁起の悪いことを」

 頬をたたいて、気合を入れる。こんな狭苦しい部屋の中でうじうじと悩んでいても、芸術家は大成しない。悩むならせめて、絵筆を握っているときに悩め。日常に惑わされるな。俺は、技術の為に生きるんだ。

 俺は、俺を信じていたい。

 せめて俺だけは、俺を信じていたいのだ。

 大学の入学式で購入したスーツを仕事着の代わりにして、普段は気を使わない髪に手櫛を入れてみる。髪型については、よく分からない。不快感を与えないことと、清潔感を保つことさえ守ればいいと思うのだが、どうだろう。尋ねる相手もいないので、そのままにしておくことにした。寝癖はついていなかったので、たぶん大丈夫だ。

 色鉛筆やペンを詰め込んだスーツケースを握りしめて、そっと立ち上がる。毎度のことだが立ちくらみ、すくむ足元に張り付いた震えが伝染して吐きそうになる。だが、俺はいかなくてはならない。バイトを辞めた今、これから向かう場所だけが、俺の収入源。

 芸術家としての俺が、唯一稼げる場所なのだから。

「……行くぞ。いいな」

 自分で自分に念を押して、俺は玄関口へと向かう。不意にガスの元栓を切ったか、水道の蛇口をしっかりと捻ってあるかが気になって、一度家の中へと戻った。何かしらの人為的失敗によって作品に被害が出たなら、俺は自分を呪いたくなる。事故が起こりそうもないことを再三確認したうえで、俺はようやく家を出た。

 大学へと向かう道の途中で立ち止まり、大きく息を吸う。俺は地下鉄の入り口に立った。勇気を奮い立たせて階段を降り始めると、生ぬるい風が俺を押し戻すように吹き付けてくる。それは何ら嘲笑うようではなく、むしろ俺を心配しているようにも思えた。

 これ以上先へ進むと、君の身体が持たないかもしれない。無理する必要はない、大器晩成の芸術家なんていくらでもいるんだから。本当に大丈夫なのかい? 君の心が風塵と化すまで痛めつけられて、二度と立ち上がれないかもしれないよ? 諦めて、つまらない夢なんて捨ててしまいなよ。

 そう言われているようにも感じる。

 だが、知ったことではない。それはすべて、俺の妄想なのだから。

 階段を滑り落ちるように降りていくと、左手に駅の改札口が見えた。久しぶりに見た鉄の門番に胃を痛めながら、目的地までの切符を買う。大丈夫だ、往復出来るだけの金は持ってきてある。昼飯を食べない前提で来ているのがおかしい気もするが、まぁ、いいだろう。

 俺なら大丈夫だ。なんとかなる。なんとか出来ると信じ込んで、俺は改札をくぐった。馴れない人ごみに眩暈を覚えながらも乗り継ぎを済ませ、大きな駅へとたどり着く。地元への切符がやたらと高いことに辟易しながらも購入して、出発寸前だった快速の電車に乗り込んだ。

 休日に乗る地元行きの快速列車は、予想より少し混んでいた。

 人嫌いな俺は、混んだ列車よりも人のいない列車の方を好む。人と人との距離が近ければ近いほど、俺は他人の存在を強く感じてしまう。それが酷く苦手なのは、相手の底が覗けないからだろうか。俺は、他人のことが分からない。だから、余計に世界が怖いと感じるのかもしれない。左手を添えて、腹部の痛みを紛らわせる。

 最初に前置きしておくが、これは個人の感想だ。地下鉄に乗っているときよりも、こうして地上を走る電車に乗っているときのほうが、俺は楽しいと思う。移り変わる風景は、住宅街から緑地、工事現場からハゲた地面まで、実に様々な表情を見せる。そのすべてが美しいとは思えないが、それこそ芸術というものだろう。

 美しいものだけが芸術ではない。俺が描く絵のように、醜さとは何かを突き詰めた芸術があってもいいはずだ。もしかしたら、究極に醜い存在こそが最も美しいものに対抗しうる唯一の存在なのかもしれない。

 まぁ、それこそ人の趣向によるのだが。

 三十分ほどを過ごす電車の上で、ぼんやりと考え事をする。どうして他の乗客は、窓の外の景色を見ようとしないのだろう。手元にある携帯に、小説に、彼らが望んだ芸術があるのだろうか。目を閉じて眠る人は、現実と戦うために英気を養っているのだろうか。それとも夢に逃げ込んでいるだけなのだろうか。俺には他人が分からない。自分の中の世界を描いて、誰にも真似できないような世界を作って、それだけで十分に満足をしていた。だから誰かのつくった芸術を見て、聞いて、読んで、感じて、そうして生きてきた彼らが何を求めているのかが、気になる日だってあったりするのだ。俺だって小説を読まないわけではないし、有名無名を問わず様々な芸術家の作品に親しんできた。だが、それはすべて俺の感じたことである。

 雀の死骸を見て、生死の儚さや生命の脆さを痛感する人間もいれば、ただ弱い生物が死んだだけだと嘲笑を向ける奴もいる。同じ味、形、匂いのする食べ物を食べたときに美味しかったと表現する人間がいれば、不味いと顔をしかめる人間だっている。それは、ある意味当然のことで、しかし俺には不思議でならない。

 同じ体験をしても感じるものが違うとすれば、それは全く違う世界を生きていると言っても過言ではない。

 他人の瞳に移る世界を、俺は覗いてみたいと思った。

 車内アナウンスで目的地に着いたことを知り、鞄の中から薄い財布を取り出す。切符を紛失していないことに安堵しながら、俺は電車から降りた。キョロキョロと周囲を見渡しながらも無事に改札をくぐり、記憶を頼りに駅の南口へと歩き出す。

 バナナのような三日月のような、中途半端な形をしたモニュメントが見えたあたりで俺は口元を緩めた。いまだに、この作品がどんな意図をもって作られたものなのか理解できない。出来ないくせに、たまに見に来ると落ち着いてしまう。地元に帰ってきたということを、はっきりと自覚できるからだろうか。これを作った芸術家は、何を思ってこの作品を作り上げたのだろう。

 このまま美術商のほうへ足を向ける予定だったのだが、その前に少し散策をしてみてもいいかもしれない。駅前には飲み屋くらいしかないが、ちょっと足を伸ばせば風変わりな外見をした店などいくらでもある。そんな店を見て楽しむというのも、芸術的思索を深めるために有用な手段の一つだ。

 さて、と歩き出そうとしたとき、後ろから声をかけられた。

「おい、商売仲間を無視するなよ」

 聞き覚えのある声だった。

 毎日のように煙草を吸い、酒を飲み、客とけんかをしている内にしわがれてしまった声が俺を呼び止める。老人の声だ。歳月を経ることで深みを増し、含む音が複雑になった声。俺は振り返り、珍しく本心から微笑んで、彼に挨拶をした。

「爺さん……元気だったか?」

「当り前だろうが。俺は金になる木を腐らせたまま、簡単に死んだりしねぇよ」

 爺さんはにこやかに、欠けた前歯を見せて笑ってくる。俺も微笑みを返し、いつものように手を出した。固い握手を交わして、老い先短いとは到底思えない力強さに頬が歪む。俺なんかよりも、随分と健康的な生活を送っているようだ。

 黒川美術商という、風が吹けばつぶれるのではないかというほどにボロボロの店を経営しているのが、この爺さんだ。黒川重蔵という名のこの爺さんは、俺の絵を買い取ってくれる奇特な美術商であると同時に、美術部の部長の祖父でもある。二人揃って俺の絵に興味を持つあたり、趣味が似通っているのかもしれない。俺と部長の間に関わりがあるのは、この爺さんの影響が大きいのだろう。小さな頃から爺さんには、そして部長には散々世話になってきた。

 爺さんが経営している黒川美術商は、俺にとって大切な場所だ。もしかしたら、人生の転換点になったのかもしれない場所である。

 俺が初めて黒川美術商を訪れたのは、本当に小さな餓鬼の頃だ。

 両親が叔父の銀婚祝いの品を必要としなかったならば、美術商には訪れることがなかっただろう。不安症の母が俺を一緒に連れて行こうとしなければ、俺は家で留守番をしていたに違いない。そうして店を訪れることがなく、この爺さんに会うことがなければ、そもそも俺は絵を描いていなかったかもしれない。当時の黒川老人は、自身も精力的に作品を描いていた。彼とその孫の姿を見て刺激を受けなければ、俺にとってのお絵かきは一生遊びのままだったのかもしれないのに。

 爺さんも、ある意味では罪作りな人間なのだと思う。

 奥さんが死んでからは絵を描いていないようだが、俺がそれについてとやかく言うことはない。彼は、彼の妻の為に絵を描いていたのだ。それが評価されるにせよ、されないにせよ、すべては彼の妻の為の行動だったのだ。彼にとっての芸術とは妻を喜ばせるためのものであり、彼が古い店を潰さずに守り続けているのも、彼の妻が経営していた店だからに他ならない。

 俺のような無名の新人の作品ですら買い取ってくれることがあるのだから、この老人の器量の広さには頭が下がるばかりだ。

 彼に出会わなければ、芸術家としての俺は生まれることすらなかったかもしれない。そういうことを、出会うたびに考えていた。爺さんは、悪ぶった笑みを浮かべる。

「小僧、今日も堅苦しい恰好をしているな」

「爺さんこそ、今日も作務衣ですね。せめて浴衣にしたらどうですか?」

「馬鹿野郎、浴衣が似合うのは細面の奴だけなんだよ。俺はガタイがいいからな」

「骨ばった体をしているくせに、よくもまぁ」

 にこやかに笑いながら、互いの肩を小突きあう。

 俺よりも小柄な爺さんは、なぜか俺より力が強い。畑仕事の効果だと言っていたが、現代日本において鍬を振り回して朝から晩まで働いている人はこの人くらいのものだろう。もっと機械を使えばいいのに。

「というか爺さん、店番はいいのか?」

「客なんて来ないよ」

「それはそれでダメだろ」

 商売として成り立っていない。俺の絵を、爺さんに預けた意味がない。

「そもそも、ちゃんと商売みせばんしているのか? 前に行ったときより、品揃えが悪くなっていたりはしないだろうな」

「当たり前だ。古代エジプトのミイラから中国始皇帝の時代の陶器まで、俺の店にないのは金ぐらいなもんだ」

「嘘吐きすぎだろ」金欠なのは知っているけど。

「そうか? いつか本当になるかもしれんぞ?」

 年甲斐もなくウィンクまでして見せる爺さんに、俺は呆れて笑ってしまう。適当に言葉を投げると、思ってもみないような言葉が返ってくる。ただそれだけの、生産性がないやり取りを繰り返す。他人がしているのを見ると苛立つことさえあるのに、どうして自分が関わっているときは安らいでしまうのだろう。

 俺は相当、自分勝手な人間だった。

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