第5話 美術準備室
誰も部屋を訪れない。
それは都合がいいことで、俺は静かに絵を描き続けた。
与えられたものは絵を描くための時間。許されたものも絵を描くための時間。
俺がやりたいことも、残したいことも、全ては絵に関わることだ。だから俺は、絵を描き続けるしかない。描くことの出来なくなった俺は、俺ではない。それは人間の形をした何かであって、決して神成雄鹿という男が成りたかったものではない。
もしも俺が絵を描くことが出来なくなったなら。俺は、俺が認めた創作家に殺されたい。創作家になりたいと望んだ俺が認めた人間に、躊躇うことなく殺されたい。
そんなことさえ考えながら、俺は絵を描き続けた。
描き上げたものを並べ、更に書き加えたいものを選ぶ。不要な線は消し去るべきだという考えが一瞬頭をよぎったが、今日は深く考えないことにした。描きたいものを描く。それが、荒んだ心を癒す方法だ。創作を愛した人間ならば、自分という人間を、正直に表現したほうがいい。他人の願望よりも、自分の欲望に生きることの方が素晴らしいとは言わないが、自分を愛していた方が、綺麗な作品が生まれるような気がした。
描いた人物の過去について考えていると、扉を叩く音が聞こえた。すぐに去って行くかと思ったが、気配が消えることはない。この部屋のことを知る人間を思い出すと同時に、声が聞こえた。
「神成君、いるかい」
返事をすることなく、俺は扉を開ける。再び扉を叩こうとしていたのか、糸目の男が中途半端な位置まで手を持ち上げていた。下野よりも俺と会話をした回数が多い男で、人との関わりが薄い俺の人生で最も近しい場所にいた男だ。世界の全てに憧れを抱いていそうな顔の男を、俺は忘れられそうもない。
「おはようございます。……珍しいですね」
「まぁね。神成君こそ、最近は部室に来てなかったじゃないか」
「テスト期間中は、いつもいませんけど」
「それはそれだ。まぁ、テストは来週からだけどね。勉強はしているかな」
「人並みに、というよりはそれ以上に」
「そうか。やっぱ君はすごいね」
僕はもうダメみたいだ、と男が笑う。俺も曖昧に頬を歪めて、場の空気を濁した。
この人は、美術部の部長だ。俺の記憶が正しければ、経営学部の三年生だったような気がする。数年来使われていない美術準備室を訪れるなら、部長しかいないと思っていた。影の薄さとは裏腹に、はっきりとした言葉をぶつけてくる男だ。小さな俺が、憧れていた人でもある。
その部長が訪れたからには、遂に準備室からの立ち退きを要求されるのかと思って、身構えた。すると部長は、不思議なことを言う。
「神成君、部活は楽しいかい?」
「……楽しいですよ。絵を描いているときは、最高に」
「そうか。だったら部室の方にも顔を出してほしいな、なんて」
「下野にでも頼まれたんですか」
「嫌だな、そんなことあるわけないじゃないか。僕は、古くからの友人を売ったりしないよ。仮にも僕は部長だからね、部員が部活に参加しないのはなぜだろうと不思議に思ってみただけだよ。ね、だからおかしくはないだろう?」
唐突に語り始めた部長を見て、思わず吹き出してしまいそうになる。
「手、それと足が震えていますよ」
事実、彼の口端は小刻みに震えていた。
俺の知る部長は、嘘を吐けない。真実を捻じ曲げられるような男ではないのだ。名前も知らない相手に断言できる事柄かと言われれば怪しいところだが、俺と部長の付き合いは長い。幼い頃からの知り合いであるからこそ、断言できる。これは事実だ。俺の知っている部長は、嘘を吐けるような男ではない。
本人曰く、存在感もなければ自慢もなく、趣味もなければ特技もない凡人が、唯一その特徴としてあげることの出来るものが、この正直さなのだと言う。部長が嘘を吐いているとき、必ず彼の視線が泳ぎ、口元が動く。指先が震え、右足が貧乏ゆすりを始める。隠そうとすれば露骨に行動を起こさねばならず、足を押さえれば内臓に痛みが走ったかのように顔を歪める。もはや病的ですらある彼の正直さには、敬意すら抱いた。
口元に手をやりながら、部長は悔しそうに笑う。
「もう、ばれてしまったか」
「分かりやすいから、当然と言えば当然ですよ」
「んー、僕は詐欺師には向かないかもしれないなぁ」
「嘘を吐けないどころか、真実を隠すことすら出来ないんだし」
俺の言葉に、部長は細い目を更に細めた。嬉しそうに、薄い唇を開く。
部長は、嘘を吐くことが出来ない。お世辞を言うことすら出来ないというのだから、ある種立派なものである。だからこそ俺も部長のことを信用しているし、こうして会話をしようという気持ちも生まれるのだろう。これがもしも他の人間なら、例えばつい先週までバイトをしていた店の店長なら、そうはいかなかった。
常に正直な本物でいることは、大変な労力を伴う。それを平気な顔でしているのだから、俺は部長に憧れてしまう。といっても、下野に抱くほど強い感情ではないが。
部長は俺から視線を逸らすと、何かを言いたげに頭の横を掻いた。会話の糸口を探しているような雰囲気に、俺は自ら口を開く。
「まだ、将来の夢で悩んでいるんですか」
「それもあるよ。経営学部だからって銀行で働くつもりもないし、というかそもそも働きたくないし。出来ることなら、ポニーテールの美人に養ってもらいたいな」
「部長、それはダメ人間の願望であって、目指すべき夢には成りません」
「そうだよな、本当にそうなんだよ。だから、神成君みたいに夢を持っている子が、すごく眩しく見えるんだ」
「貧乏学生を口説こうとしても無駄ですよ。大体、俺の夢なんてものは、頑張ったところで見返りがあるかどうかも分からないんですから」
それもそうだね、と部長は大きく伸びをした。慰めの言葉を期待していたわけではなく、俺もすぐに部長から目を逸らして、狭い部屋の中央に並べられた絵を眺める。淡い色彩で攻めるか、重厚感のある暗い色で落とすか、そんな初歩的なことから考えてしまう。絵具は何を使おう。いっそのこと色鉛筆を使ってみるのもいいかもしれない。色鉛筆で色を塗ると必然的に淡い色彩になると思われがちだが、それは根気と労力と手法によって大きく変わる。執念深く塗り続けていれば、どれほど淡い色であっても、濃く深い色に変わることがある。それこそ、人の感情のように。
「……で、何を言うためにここへ来たんですか」
「いや、別にたいしたことじゃないんだが」
「そう言う人は、大抵大きな秘密を抱えているものです」
俺が笑うと、部長は観念したように諸手をあげた。降参するように、天井を見上げて笑っている。
「くそぅ、分かったよ。僕は嘘を浮くのが苦手だし、誤魔化そうにもすぐ態度に出る。この性格を、今ほど深く後悔したことはないよ」
「要件は早く済ませてください。大事なものなら、特に」
「分かった。では、単刀直入に聞こう。君が部活に来ないのは、下野君のせいか」
部長が俺に話しかけているのだ。下野と言う名前には、下野薫しか浮かばない。
小さく首を傾げ、そのあと深く頷いた。部長相手に、隠し立てしても意味がないだろう。部長は言いふらすような性格ではないが、下野に尋ねられれば正直に答えてしまうはずだ。その時しどろもどろな返答をすることになれば、この準備室に乗り込んでくるかもしれない。
まだ、俺は下野を避けていたかった。
「下野君のことが嫌いなのか? まとわりつかれて鬱陶しいと、そう感じているのか?」
「いや、それは違います。下野のことは嫌いじゃないし、むしろ、その、敵というか」
永遠の好敵手。俺にとっての憧れ。そういった類の言葉をすべて飲み込んだ。俺にとっての下野は、それほど綺麗な対象でいいのだろうか。もっと泥臭い、例えば打倒さねばならぬ怨敵でなくとも良いのだろうか。
喉を詰まらせていると、部長が意地の悪い顔になって笑う。この人は、笑っていないときの方が珍しいかもしれない。
「嫌いじゃないのに敵と来たか。切磋琢磨する間柄、みたいなものかな?」
何を根拠にそんなことを言うのか、と口から言葉があふれそうになった。だが、考えるまでもなく、部長の思考は至極当たり前のような気がする。俺は美術部に、絵を描くために訪れている。下野はそんな俺にちょっかいを出しながらも、定期的に絵を描いている。二十人以上が在籍する美術部で、本当に芸術的な活動をしているのは俺たち二人だけだ。部長でなくとも、そう考えるのは妥当だろう。
俺は自ら、情報をバラまいている。なんて、アホらしい。
「まぁとにかく、嫌いじゃないってことを聞いて安心したよ。悪くはない報せとして、部室に持って帰ることが出来る。下野君、相当に心配していたからね」
溜息をついて首を振る部長を見て、俺は理解に苦しんだ。どうして下野が、俺のことを気にするのだろう。その理由に対する混乱が、俺の心を波立たせる。俺よりも遥かに優れた才能を持っているはずの下野が、どうして俺のことを気にかけるのだろうか。勝者ゆえの余裕か、自分より劣っている人間をみて優越感に浸っているのか、などと考えてみるが馬鹿らしい。下野は、そんなことをするような人間ではない。
なぜか、そう信じたくなった。
幸いにも、部長は嘘を吐けない。誤魔化すことも苦手だから、聞けば素直に答えが返ってくるだろう。善良さを悪用するようで心苦しいが、ここは聞かねばならない時だ。俺は、部屋の中を覗いている部長に声をかけた。
「下野の奴、何を心配することがあるんですか」
「お? どうやら君は理解していないようだが、彼女には、どうしても嫌われたくない人というのがいるのだよ」
「それが、俺なんですか」
「うん。理由はきっと、絵具の神様が知っているんじゃないかな?」
下野のような口調でよく分からないことを言う男部長は、目じりを下げて猫のように笑う。態度が微塵も変化していないことから考えて、彼は嘘を吐いているわけでもなく、何かを隠しているわけでもなく、本当に思ったことだけを口から発したようだった。
下野は、こんな男に助けを求めたのだろうか。口調が似ているのはただの偶然なのか、それとも下野が意識して部長と同じにしているのか。
俺が下野だったなら、俺なんぞよりは、この部長の方に懐くだろうと思う。
性格は社交的で、顔立ちも整っている。俺も比較的上背はある方だが、部長は更に高い。勉学には少々の難があるようだが、社会に出れば学業での功績は過去のものになる。部長に足りないものがあるとすればそれは夢だけで、しかし夢を持っていたところで、叶わないなら意味はない。
俺は部長に、何一つとして、勝ってはいないのだと思う。
俺は、部長に嫉妬しているのかもしれない。僅か一年と少しの、それも美術室で絵を描いている時間しか関わっていないような男に、羨望を抱いていることだけは間違いない。しかしそれは、下野に対しても同じだ。俺が唯一嫉妬したことのある女性が、下野薫だ。その上で、俺は下野が部長に抱く感情が気になっている。
俺は下野が、下野のことが。
首を振って、思考を切り替える。部長は普段、背を丸めていた。だが一度背を伸ばせば、頭一つは背が高くなる。今もそうして、俺の上から部屋の中を覗いていた。
芸術に対する興味も、俺ほどではないにせよ、あるということだろう。 下野も、部長と関わりを持てばいいのに。俺に作品を見せるより部長に作品を見せたほうが、もっと素直に喜ぶだろうに。そうしてしまえばいいと思う俺と、それを望まない俺が心の中に同居しているのが嫌な気分だ。
「まだ、あれは完成していない奴だよね」
「……まぁ、そうですね」
「早く完成させてくれよ。僕も君の絵、好きなんだ」
「これ以上はやく作ろうと思ったら、誰にも邪魔されない個室とかが必要ですね」
「おいおい、この準備室も、神成君専用の個室みたいなものだろう?」
「それとこれとは、わけが違いますよ」
二人でへらへらと笑いながら、のんびりと言葉を繰って遊ぶ。
俺と部長は、小さな秘密を共有していた。
部長は、己の趣味の為に。俺は、己の芸術の為に。
きっと俺たち二人は、絵を通してのみ関わりを持つことが出来るのだろう。浅く、緩い関係こそが、俺たちには似合っているのだった。
「部長、絵の描き方を教えてあげましょうか」
「いや、いい。僕は完成品を見るのが好きなんだよ。作者も、制作過程も、その作品に込められた意図も僕には関係ない。僕はただ、君の作品が好きだから見ているだけなんだ」
「そうやって、俺を口説かないでください」
「はいはい。まぁ、気が向いたらでいいから、部室の方へ来てくれよ」
「当たり前じゃないですか」
行きたくなったら、俺は素直に行くと思う。
今はまだ、下野が怖い。
俺が背伸びをしたことを合図にして、部長が別れを告げてきた。厚めの壁に遮られた、美術室の中へと消えていくつもりだろう。俺もあとを追いかけるつもりがないし、準備室にいる限りは、そもそもここが使用できるスペースだというのを知らない奴らばかりだから、自由に絵を描くことが出来る。
ふと、思い出した。準備室を去ろうとした部長の肩を叩いて、言い忘れていたことを伝えておこう。下野の奴が、もしも傷心していたらという話ではあるのだが、伝えておいてもらうにこしたことはない。
「部長から下野に伝えてくれませんか? 俺は、下野が絵を描き続ける限りは、下野のことを嫌いにならないって」
「何それ。告白?」
「似たようなものですよ。よろしく頼みます」
まぁ、程よい塩加減の嘘だから、このくらいなら大丈夫だろう。実際、下野に伝えるという仕事は部長が引き受けたということになっているから、罪は二分されるということでどうだろうか。部長にとっては迷惑極まりない話であるということも重々承知したうえで、しかし俺は、ここで嘘を吐かなくてはならない。
伝えた言葉とは裏腹に、俺は、下野を嫌いにならなくてはならないのだ。
そうでなければ、俺は下野の才能に、永遠に追いつけないような気がする。
俺は、絶対に。
「……下野を、超えるんだ」
つぶやきが聞こえなかったようで、部長の視線はすでに美術室の方へと移っている。自分で言えばいいのに、と少し非難めいた言葉を残してから、困ったような顔をして扉から離れる。美術室の中へ部長が吸い込まれていくのを見て、俺は溜息を吐いた。
下野が、俺のことを気にかけている。そんなことを考えるだけで、俺は少しだけ嬉しくなった。
嬉しくなってしまった。
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