第4話 それでも気になるアノ娘

 下野がバイト先に現れてから一週間ほどが経過した日、ちょっとした事件が起こった。その日から数えて一週間になるのだから、下野があの弁当屋に訪れてから、おおよそ半月が経っているのだろう。不思議なもので、時間の流れが速く感じる。それが創作物と向き合っているときの特徴だということに、今の俺は気が付いていた。

 今日は一週間のうちで、最も大学の敷地内が五月蠅くなる金曜日だ。試験期間前最後の金曜日ということもあってか、学内は非常に多くの学生で満たされていた。正直なところ、鬱陶しいだけでメリットがない。俺も今日は午前中の講義がないから、ある程度自由に過ごせるはずだったのだが、あまりに学内に人が多いから、積極的に大学へ行く気にはなれない。そうした理由をつけることでバイトからの逃げ道をなくしてみたりもしたのだが、今日の俺は、家にいる。

 腹の中は粘着質な嫌悪で燃え上がり、強く歯を噛み合わせているせいで顔の表情も硬い。だが、力を抜くことはできない。抜けばきっと、叫び出す。俺の筆先へと注がれるべき現実への怒りが、必ず虚空へ逃げていく。それは、今の俺にとって許せない事柄だった。

 丁度一週間前に何が起きたのかを、詳しく思い出して他人に説明する気にはなれない。勤務日程を教えてしまったせいで毎日のごとく俺に会いに来た下野にも、先週のことを話したいとは思えない。だが、金曜という日は、ただ大学が騒がしくなるだけの日ではない。先週の金曜日、俺はバイトを辞めた。

 創作に使うための時間をこれ以上削られたくはなかったし、殊更に、俺という存在が虐げられる環境というものに嫌悪感しか抱けなかったからだろう。そのこと自体は、不思議でもなんでもない。どこでも誰でも似たようなもので、俺と同じことを考えている奴がいたとしても不思議ではない。バイト先で店長に殴られても、理不尽な罵声を湯水のごとく浴びせかけられても、それはきっと、どこかで誰かが受けた仕打ちと変わらないのだから。

 しかし、忘れることはできない。

 忘れてはならないこともある。

 俺には、俺なりの誇りというものがあり、蔑まれてはならないだけの人格がある。俺を罵倒するしか能のない店長のもとで、これ以上の苦痛を飲み、金を貰い、頭痛に悩む日々は必要ないと判断した。ただ、それだけのことだ。

 絵具を直接手で掴み、そのまま画用紙に叩きつけた。

 白黒でぼやけていた世界が、鮮烈な赤に歪む。

 一週間バイトに顔を出さなければ容赦なくクビにすると宣告され、それ以来顔を出していない。当然だ。顔を出したところで、俺に執拗な侮蔑を向けていた店長が改心しているとは思わないし、俺自身が心を砕く必要もこれっぽっちだって存在しない。だから俺は、バイトを辞めた。客としても、二度とあの店にはいかないだろう。

 実際にはバイトを辞めたことで、様々な問題が発生することになる。従業員でなくなった以上は半額の飯も食えなくなるし、あの店で受けた屈辱こそが原動力になって生まれる作品も、皆無というわけではなかったのだ。更なる問題は、あの店くらいしか俺を雇ってくれるところがなかったというものだろう。この周辺の店のほとんどでバイトを経験したが、俺はほぼ全ての店で派手な喧嘩と口論を展開した。言葉にせよ拳にせよ、一方的に攻撃されるのが性に合わないのだ。だから、というのは協調性のなさを誤魔化していると言われそうで、腹が痛い。だが、それが事実だ。それが、俺にとっての現実なのだ。……怒りで腸が煮えそうだ。

 正直な話、バイトで金を稼げなくなったというのが、俺にとっては一番痛い。これからは取材費を、月々送られてくる最低限度の仕送りから捻出しなくてはならなくなった。だが仕送りの金というのは家賃と学費にすべて消えていくのであって、それ以上削れるはずもない。だから、現金収入を得たいならば、好きモノが集まるバザーに出るか、地元の美術商に頭を下げるくらいしか方法が浮かばない。

 バザーに出品したところでまともに売れるかどうかも分からないし、地元の人間だけを相手に芸術を語るのは、家族に夢を語るのと同義だ。ただの、自己満足にしかならない。俺の作品を取り扱ってくれるような、つまりはプロアマ関係なしに作品を取り扱っているようなスキモノの店を、俺は一ヵ所しか知らない。だから、あまりアテには出来ないだろう。他にも、バイトをせずに金を得る方法がないわけでもないが、年に一度や二度しかない展覧会で入賞して生活費を得ようなどというのは、夢見がちな奴にしか思い浮かばない方法だろう。

 もっとも、俺はそれを望んでいるのだけど。

 餓死する未来を選択するほど俺は愚かではない。だから今月の取材は見送るつもりだが、そのこと自体は苦ではない。

 生み出せないなら、削るしかないのだ。

 そう考えると、自然と笑みが浮かんだ。

 筆をおいて、徐々に沈んでいく思考を引き上げる。先週、大学からも見える大きな共同墓地へと足を運んできた。その風景を思い出し、余分なものを取り除き、再び景色として構築し直す。灰色の墓地に刻まれた名前は既に掠れ、空を覆う太陽だけが燦々と輝いている。叩きつけた赤い絵の具が世界の割れ目となり、驕った過去を持つ者共を滅ぼしていく。地に足をつけた生き物がすべて滅び、空に浮かぶ雲たちは白々しい笑みを浮かべている。この世界で求められているのは、他者を食い殺すことで進化してきた下賤な存在を滅ぼし、全てを無に帰すことの出来る自由。

 せめて、俺の絵の中でなら、こんな自由を掲げてもいいのではないだろうか。

 他者が滅びることで救われる。そんな奴がいたって、おかしくはないはずだ。

 そんなことを考えながら指を拭い、俺は再び絵筆をとった。

 バイトに顔を出さなくなった俺は、家と大学の講義室を往復する日々を続けている。展覧会に出す作品を制作するため、美術室には出向かず、家で作業をやっていた。と言っても、作品を作ることそのものが、今の俺にとっては言い訳のようなものになっている。

 展覧会に出そうとしている作品のうち、いくつかの下書きは美術室と美術準備室に放置したままになっている。それに、美術室でも、作品を作ることは出来るのだ。むしろ、家で作ろうとするよりも快適な面があるかもしれない。俺の部屋なんかよりもずっと広く、どれだけ絵具を広げても、空間は有り余っているのだから。

 それでも俺が足を運べないのは、きっと下野のせいだった。

 美術室へ行くと下野と鉢合わせるかもしれない。奴は、俺がバイトに結構な時間を割いていることを知っている。もしも奴が俺の元バイト先へ足繁く通うようになっていた場合、この一週間もの長きにわたって、俺が姿を見せていないことを疑問に思っている可能性がある。俺と下野は、妙なところでお互いを意識している節がある。俺が隠れようものなら、下野の方から探しに来ることだろう。そして下野のことだ、俺を見つけ次第、遠慮などせずに質問を重ねてくるだろう。俺はきっと、彼女の問いかけに答えを返してしまう。嘘を吐くことが出来ずに、全てをさらけ出してしまう。それが怖くて、俺は美術室へと出向くことが出来ないでいた。

 俺の心が脆いと、奴には知られたくない。何せ、下野は俺が羨むほどの才能の持ち主だ。俺は、下野に理解してもらいたいから、絵を描いているわけじゃない。それ以上の、もっと強い感情をもって、絵を描いている。他の誰にも理解されないような、暗く、熱い感情が、俺の腹の中で煮えたぎっていた。

 そういう理由があって、俺はこれまでの生活サイクルを崩し始めている。それもこれも、下野のせいだ。バイトを辞めたのは俺の都合だが、それ以外の変化は、全て下野によるものだ。いい変化も悪い変化も、奴はすべてを持ってくる。だから俺は、下野が嫌いなんだ。もっと、嫌いにならなくてはいけない。

 呪詛にも似た独り言を漏らしながら、時計を見上げる。午後からの授業開始まで、まだ十分な余裕があった。バイトを辞めてからの俺は、以前より少し健康になった気がする。バイトに充てていた時間を睡眠に使い、代わりに朝早く目覚めるようにしたから、かもしれない。今の生活サイクルになってから気が付いたことだが、誰も活動を開始していないような時間から絵筆を動かし始めると、非常に筆が進む。煤けていたガラスを拭ったように、世界の色が鮮明に別れていく。白黒灰の三色しか使わないような作品を描いていても、それは同じだ。明確に、俺が描くべきものが分かる。俺の描きたかったものが、俺の指先ひとつで生まれていく。

 これ以上ない快感だ。そして、恐怖も感じている。

 何かが欠けていることさえ、明確に分かってしまうこと。

 きっと、それが怖かった。

 ずぶ濡れになった犬のように首を振り、余計な思考をはぎ落す。俺はこの、すぐに考え込む癖をやめなくてはならない。こんなことを考えたところで作品に何かの影響があるとは考えにくいが、雑多な思念を抱いていたせいで余分な線が増えてしまったというのでは、俺はやりきれない。

 雑多な線を描いているときが一番楽しいなんてことを認めれば、俺は楽になれるのだろうか。それも下野に負けたような気がして、なぜか嫌だった。

 黙々と筆を動かし、講義開始十五分前になったところで、俺は筆をおいた。丁度一区切りがついたから、このまま大学の講義に出席することにしよう。奨学金を継続させる為にも、不用意に講義を休みたくはない。遅刻ですら、怖かった。

 最低限の片づけを済ませてから、部屋の隅にある鞄を掴む。必要なものはすべて詰めておいたつもりだったが、忘れ物があることに気付いて勉強机に向かう。小学生の頃から使い続けている、古い机だ。大学への入学を決めたときに、この机と美術に使う道具だけは持ち込んできた。勿論、美術に使う道具を持ち込んだことは、両親には秘密だが。

 古い机に刻まれているのは、俺が過ごしてきた時間と、俺の悪戯心から生まれた傷だけではない。俺の涙も、血も汗も、こいつには染みこんでいる。俺が初めて絵を描いたのは、この机に座っているときだった。

 多分、最後は嘘だけど。

 家を出るだけで、突き刺さるような空気を感じた。生まれて初めてのバイトを経験した、大学一年生の六月ごろからずっと感じ続けている雰囲気だ。世界の全てが敵になったような、そんな錯覚にも似た現実だ。感じたものはすべて、それを知る人間にとっての真実となる。俺は、世界に押しつぶされていく。今日という一日を生きた分だけ、俺の人生は短くなる。徐々に後がなくなっていく。燃え盛る蝋燭は一瞬で燃え尽き、世界に焦げ跡すら残すことなく消えるかもしれない。俺にはそれが怖かった。

 あまりにも怖くて、吐きそうになる。

 鍵を閉めてから、大袈裟に深呼吸をした。どこかで誰かが吸っている、煙草の匂いが心地いい。自分で吸ってみたいとは思わないが、煙草を吸う男を描くのは好きだ。どこか前時代を生きているような、そんな感覚をもたらしてくれるのが好きなのかもしれない。そして、渋く苦く鼻の奥を焦がすような、煙草の匂いそのものが好きなのかもしれない。

 少しだけ頬を緩めて、俺は歩き出した。一歩、また一歩と道を歩いていく。大学に近づくにつれて、学生の数が多くなってきた。道の向かい側では、地下鉄から吐き出された学生と飲み込まれていくサラリーマンとが、混ざり合うように歩いている。しかし、誰もぶつからない。きっと、それが世界の本質なのだろう。

 密なようで、希薄。

 本物であろうと、偽物であろうと、ただ流されていく。

 背中を走り抜ける、怖気より濃い嫌悪に身震いした。

 信号が青に変わるのを待ってから、俺は大学の正門を上り始めた。俺が通う大学は、やたらと坂が多いことで有名らしい。校門から学内へ至るまでの道だけではなく、講義棟へ向かう際にも、つまりは学内にも数多くの坂がある。丘陵地に作られたのだから当然と言えないこともないのだが、通う学生からすれば難儀なことこの上ない。この大学出身の小説家も、似たようなことを作品の上でぼやいていた気もする。不思議なものだ。ジャンルが違えども、創作家は共鳴するのだろうか。

 呼吸を乱しながら、額の汗を拭う。拭おうとしたはずが、汗などかいていなかった。体を左右に振るようにして、少しでも負担を減らして歩く。今の俺には、大学の坂を上ることが異様に辛い。ここ数日は吐き気を抑えるようにして上っていたのが、今日は更に酷くなっている。右手で腹を押さえながら、坂の左手を上った。こちらの方が、人が少なくて歩きやすい。少し首を捻れば、楽しそうに歓談する学生や、一人黙々と、素早く坂を上っていく学生たちが見える。

 誰も、俺を見ていない。誰も、俺など見ていない。

 だから気を遣う必要もないのだと知っているのだが、俺は自然と胃が痛くなる。大学そのものが、俺は嫌いなのかもしれない。絵筆とペンが、俺の武器だ。落書きの出来る画用紙と壁が、俺の防具だ。大学生活で学ぶことの多くは、俺を芸術から引きはがして、社会に連れ込もうとする。何も生み出せなくなった俺は、自分の身を守ることも、自分を表現することも出来ない。裸であるということは、弱いということだ。己をさらけ出すためには用意周到な準備と、心を殴られても立ち続けるだけの体力、最低限の覚悟が必要になる。欠けたものしか持ち合わせていない俺には、真っ当な社会人生活というものが送れそうにない。

 下野が思考にチラつくようになってから、俺は弱くなった。

 息を荒げながら坂を上り切り、学内の中央に位置するタワーへと足を運ぶ。

 歩く人の波に飲み込まれないようにしながら、俺の所属する学科の掲示板へと歩を進めた。見ると、珍しく紙が貼ってある。読み上げて、目をこすった。

「……休講」

 読み返してみたが、見間違いではないようだ。

 今日、俺が受けるはずだった講義が休講になっている。今日受けるべき講義はこの一つだけだったから、何もせずに帰ることも可能なわけだ。胃を痛めながら坂を上って、何をするでもなく、部屋にとんぼ帰りする。

「流石に、それは嫌だな」

 余分なものを削ぎ落とすほどに輝きを増すものがあると考えていても、損得勘定が出来ないわけではない。ここまで来たからには、美術室に顔を出しておくのもいいだろう。制作の途中で止まっている作品もいくつか置いてあることだし、一つでも多く完成品を作っておくに越したことはない。下手な鉄砲を数撃つつもりはないが、撃たなければ目標に当たることなど有り得ない。せいぜいが、手元で暴発して人生を狂わせるくらいだ。

 だからこそ。

「……よし、いくか?」

 行くぞ、と自分に言い聞かせるように呟いた。立っていることすら困難になりそうな不快感の中で、俺は美術室へと足を向ける。

 学内中央にあるタワーを出て、いつもの棟へと歩を進めた。緑化された広場の横を通り、階段を転げ落ちないように手すりを掴む。一段ずつ、確実に上った。誰とも、すれ違いはしなかった。

 バイトを辞めた日から食生活を変えたせいで、眩暈のする頻度が高まったような気がする。流石に学内で倒れるわけには行かないから、気を抜くわけにもいかない。家族に連絡がいくようなことがあれば、俺は二度と絵を描けなくなるかもしれない。俺は弱いのだ。隠せるものは隠さないと、戦えない。だから、本物に近づけない。

 美術室の前に来たところで、俺は踏みとどまってしまった。このまま部室に入れば、下野と出くわすかもしれない。そんなことを考えた瞬間、喉の奥で蛇が暴れまわるような、言い表せぬ吐き気が襲ってきた。名前も知らない部員たちには一生向けることのない、焦がれるような熱い感情。

 飲み込まれて動けなくなる前に、俺は無理矢理手を動かした。今朝、鞄に放り込んだ秘密の鍵を取り出して、美術室のすぐ横にある、準備室の扉を開く。倒れこむようにして部屋に入ると、俺は内側から鍵をかけた。

 息を荒げながら、腹を押さえる。お世辞にも綺麗とは言えない部屋だが、床を俺の吐瀉物で汚してしまわないように喉を絞めた。激しい動悸は生命の証、さりとて望めば命を削る。独りきりになっても、俺の身体を蝕む恐怖や寂しさは消えてくれない。むしろ色濃く、俺の心を食い殺そうとしてくる。目を瞑り、耳を塞ぎ、何も感じないように心を閉ざす。自分の吐息と鼓動が、どうしても消せないでいた。

 原因は分かっている。

 俺はまた、バイトを辞めた。芸術の為に、自分を犠牲にすることが出来なかった。詰られることに耐えられず、格下の存在として扱われることに我慢が出来ず、他人の罪や責任を被れるほどに大人でもなく。

「俺は、どうしようもなく協調性のない人間なんだ」

 嫌ったものに嫌われるような、どうしようもない人間なんだ。

 他人を気にすることなく一人で生きて行けたなら、それはきっと素晴らしい。しかし芸術家として食っていくためには、ある程度以上、人に認められなくてはならない。独りになることで人間としての俺は気が楽になり、芸術家としての俺ものびのびとした表現をすることが出来るようになる。だが、食っていくことは出来ないだろう。しかし、その逆が起こるとは考えられない。

 複数人で寄り集まることが出来るようになったとしても、人間としての俺が苦しみ、芸術家としての俺は表現の幅を狭め、例えそれで食っていけたとしても満足を得ることはない。望まれぬ芸術には価値がない。だからと言って、望まれたからこそ価値があるとも言えないのが芸術なのだ。二つの願いに挟まれ、人生の岐路に立たされ、俺は吐き気に身じろぎをする。俺はここから逃げ出せない。誰も、俺を助けない。

 身体を強く抱きしめたまま、俺は床に転がっていた。誰も、この部屋を訪れることはないだろう。美術準備室は、使われなくなってから長い年月が経っている。一人の友人を除いて、この部屋に他の誰かが訪れるのは、この部屋を取り潰すときになるだろう。この大学は、敷地が広い分だけ、施設の入れ替えが遅い。例えその時がくるとしても、俺の在学中でないような気がした。少なくとも今だけは、そう思う。

 狭い部屋だ。身体を少し捻るたび、濃いインクの臭いが鼻をつく。

 身体を震わせながら息を吸うと、インクが俺の身体に染みこんでいく錯覚に襲われる。深く長く、息を吸った。俺そのものが筆になり、ペンになり、絵画を描く道具になったような感覚を楽しむ。俺は、絵を描くしかない。絵を描くことでしか、自分というものを表現できない。だから、俺は筆をとる。腕を使い、指を使い、時には直接、紙の上に絵具を塗りたくる。

 俺には、絵画しか残されていない。古いストーブに火をつけたように、身体の芯がじわりと温まる。

 身体を起こすと、二つしかない椅子の一つに腰かけ、先の丸くなった鉛筆を手に取った。家から持ち出した鞄を扉の前に放置したまま、胸像を見つめて筆を走らせる。

 幸運な人生を送りながらも、脛に傷のある男。片目を失い、それでも綺麗に笑う女。陰鬱な顔をして、人を愛する少年。底抜けに明るい笑顔でありながら、その背後に狂気を感じさせる少女。我武者羅に働き、夢を追いかける男。才能ゆえに、夢を失った女。傷つき傷つけ、全てを信じられなくなった男。愛ゆえに、信じた男を殺した少女。

 俺に小説を書く才能はないが、見たこともない誰かの人生を想像することはできる。背景を持った人間を描くとき、俺の生み出す線は意味を持つ。一見無駄でしかないような線が、その人間の深みになる。

 人生に無駄はない。そう言い切る為の自信を生み、俺の線が絵の中の人間を強くする。過去を持った人間は、過去に固執する人間は、未来を生き抜くための力を欲していた。

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