第3話 商業的に成功しない作家と言うものが社会に与える影響とは(打切)

 地元じゃ負け知らずな恥知らず、ヤクザに殴られて目が覚める。

 暴言の嵐、外は雨。流れる言説は罵倒だらけ。

 画材で狭くなった部屋の中にいたせいか、そんなフレーズを思い出した。この場合はリリックか。あまり上手くもないその言葉をどこで耳にしたものか、それから十分以上をかけてようやく思い出した。

 昔、興味本位で入ったことのある講義室で、フリースタイルラップ、みたいなものをやっている男がいたのだ。誰もいない教室で韻を踏み続けていた男は、果たして今日まで活動を続けているのだろうか。芸術を形にしようとしただけで胡散臭がられる世の中だ。彼が人前でその腕前を披露するには、それなりの覚悟と労力が必要だろう。何より、存在に気付いてくれる奴がいるのだろうか。芸術家にとっては、自分の作品を作り続けることと同じくらい、市場に受け入れられることが重要だ。彼の押韻にはリズムが足りず、言葉の質も高くない。そんな彼は、市場に受け入れられたのだろうか。

 素晴らしい作品に感化されて活動を始める人間はごまんといるが、それを世の中全体に示そうとする人間となると途端に数は減ってしまう。出したところで、元から競争の激しい業界ばかりだ。同業者からもバッシングの嵐を受けて、身も心もズタズタに切り裂かれていくことが多い。そして、最後まで戦い続けようと抗ってみたところで、自分の作品が世の中に出ていかなければ意味がない。結局、独りよがりな自慰行為として片づけられてしまう。

 芸術なんて、そんなものだ。

 そんなものだからこそ、認めてくれる人間が必要なのだ。嫌悪の対象になるか、憧憬の的になるか、それとも暇つぶしのタネになるか。十人十色の受け入れ方が存在して、それを俺たちは求めていく。自分を認めてもらいたくて、俺たちは作品を作り続ける。俺は、身体の奥底で眠っているはずの才能を、まだ信じていたかった。

 下野と別れた後、俺は近所の店に寄って画材道具を購入してきた。今は下宿先のアパートへと帰ってきている。適当にシャワーを済ませると、半端な温もりを保ったままの弁当を食べることにした。自分で描いた絵に囲まれながら、嫌いな店の、嫌いになれない弁当を食べる。

 梅雨時の湿気に混ざって、画材の匂いがするのが頂けない。丁度良い加減で揚がっているはずのカツを口にする度、クレヨンを食べているような感覚になる。吐き出したくなるのは、俺の胃袋が縮んでいるからだろうか。それとも、カツを口にするたびに店長に罵倒されたことを思い出すからだろうか。どちらにせよまともではない、と自覚して頬が引きつった。

 弁当の使い捨て容器を軽く水洗いしてから、乾燥させるため流しに置く。変な虫がわかないようにしたかったし、一種の臭いとりも、この作業には含まれていた。

 明日の講義の用意を終わらせ、今日の講義で出された宿題を済ませてしまってから、ようやく絵を描く準備を始めた。不真面目な生徒ではありませんよ、ということを大学側にアピールしなくてはならないのが辛い。頼りにする友人もいない俺からすれば、それなりの苦痛になることが予想できるだろうか。奨学金の為にも、最低限の勉強をやっておかなくてはならないのが面倒なところだった。

 真っ白な紙を取り出し、黒いペンで絵を描いていく。一度目の線ですべてを決める。消して新たな線を描きこむようなことはしない。いつものように上塗りを重ねて複雑怪奇な色をくみ上げるようなこともせず、ただ黒一色のみで、絵を描いていく。

 手癖で思いつくままに描いていたはずなのに、どこかで見たような女の顔になった。

 非常に強い既視感は、俺が彼女に抱く感情の重さに比例しているのだろう。

「……下野、薫」

 画用紙の上から俺を見つめているのは、大学内で唯一、俺と関わりを持とうとする女性の顔だ。手癖で自然に描いていたはずなのに、気が付けば彼女の顔が完成している。先週もそうだった。この前、彼女が部室内で簡単なスケッチをしていた日もそうだった。気を抜くと俺は、下野のことばかりを考えるような人間になってしまったらしい。

 どう前向きに考えたって、気持ち悪いことこの上ない。

 白い画用紙に黒一色で描かれた、俺だけが知る彼女の絵。この広い大学内で唯一芸術家の才能がある人間は無表情のまま、画用紙の中から俺を睨み付けていた。今日はそれほどでもなかったが、彼女は俺の生活や態度を、面と向かって批判してくるときがある。大抵は絵を描くために他人との交流を疎かにするなど、生活を豊かにするはずのものを犠牲にしていることについてとやかく文句をつけられるのだ。だが、芸術家は必ずしも他人との関わりが必要なわけじゃない。それが必要なのは、音楽家と小説家くらいのものだ。音楽家はよりよい歌唱曲を作る為に人間の声に触れておく必要があるし、小説家は会話文をより鮮明なものにするために誰かと会話をする必要がある。どちらも、本物に触れる必要があるのだ。

 その点、俺は気楽でいい。俺が描くのは自然な風景か、そうでもなければ得体のしれない生物の絵だ。この世に魔物は存在しない。虚像としての魔物が俺の手によってこの世に現れ、誰かの心を侵食していくだけだ。だから俺は、人と関わる必要がない。むしろ孤独でいた方が、心の闇が深くなる。心の臓の奥深く、光が照らさない場所にまで浸透してくる得体のしれない恐怖は、俺そのものを蝕んでいく。心が犯されるほどに俺の描く魔物は怪物に近づき、世界に牙と爪を向ける。いつか絵画から飛び出して、人を食らう程に。

 無論、俺だって他の学生が俺のことを馬鹿にしていることくらい知っている。講義中にも関わらずスケッチをしているような馬鹿は、国内有数のマンモス校であっても数えられるほどしかいない。大抵は、暇つぶしが目的だろう。その中で、本気で芸術家を目指しているような男など俺くらいのものだ。前後五年間で、二人目の俺を見つけられるかどうかも怪しい。

 それでも俺は、自分の才能を信じるしかないのだ。俺に嘲笑を向けた人間を許せないなら、俺は絵を描き続けるしかない。俺を侮蔑した人間に向けた怒りのすべてを、作品に込めるしかない。俺は、芸術家になりたい。絵を描き続けることだけが、俺という人間を支えてくれるはずなのだ。

 下野を描いてしまった画用紙を、いつものように部屋の隅に置く。そして俺は、新しい紙を取り出した。乳白色の紙に、今度は鉛筆で下書きを描いていく。一番色の薄い鉛筆でやや間延びした楕円を描き、縦真っ二つにする線を描く。上下を均等に三分割する横線を描き、楕円を六つの部分に分けた。身体を描くためのアタリをひいた後は少し色の濃い鉛筆に持ちかえ、余計なことを考えないように、そして何も迷わない為に、俺は目を閉じる。閉じたまま、筆を緩やかに動かしていく。今度のテーマは死と身体だ。腐臭漂う陰鬱な世界観は、未だに一定数の人間を集め続けている。暗い感情を落とし込むことの多い俺には、もってこいの題材だ。

 画材そのものが部屋になったかのような、粘度の高い空気を吸う。

 死体を描くなら、人がいい。もしくは、雑種の犬がいい。見慣れたものの方が描きやすく、肉を崩すときも自分の痛みや苦しみをイメージとして表すことが容易になるからだ。直接的に内臓を描くわけではない。死を表現するためには、生きた人間を描いたほうが効果の高い場合もある。俺の死体は、生きているのだ。

 見たものを写す模写という点では、やはり燕だろうか。小学生の頃から、電柱にぶつかって死んだ燕を何羽も見てきた。そしてその後の過程も、当然のように目と記憶のフィルムに焼き付いている。黒く変色した肉や飛び散った羽の欠片を、黒い兵隊たちが自分たちの城へと運び込んでいくのだ。生死が裏表ではなく、連綿とした事実として繋がっていることを知らせてくれた燕たちに、俺は心からの哀悼を送ろう。そして、彼らをいつか、俺が持ちうるすべての技術を用いて描いてみたいと思う。まだ、俺は強くなれるし、まだ、俺には学ぶべきことがあった。

 死んだ燕は空を飛ぶ。死を拒絶し、生に執着する限り。

 それ以上は何も考えないように、心を落ち着かせながら筆を動かす。惰性ではなく、ただ無感情で描こうとすれば、また違う作品が出来るはずだ。

 衣擦れにも似た、鉛筆が紙の上を走る音が聞こえる。椅子に座ったままの姿勢でいると、映画館に行ったときのことを思い出した。俺の呼吸の音が消えて、世界には紙と鉛筆しかないような錯覚に襲われる。今日も俺は観客で、なぜか隣には下野がいた。不思議だと思う暇すらなく、スクリーンでは映画の上演が始まる。


 ――初めて美術室を訪れた日、本気で絵を描く人間がいないことを知って、男は落胆した。やる気の二割を削がれはしたものの、絵を描くことだけが息がいの男は部室の隅に画材を広げ始めた。ほどなくして作業を始めた男のもとに、一人の女が現れる。顔をあげた男は驚いた。女が、自分の理想とする容姿をしていたからだ。男が他人を見て綺麗だと、掛け値なしに思ったのは初めてのことだった。女は男と同じように絵を描く人間を探していたらしく、部室の中央で固まっていた数人のグループを無視するようにして男の元へと近寄ってくる。

 男は警戒した。自分の好きなテーマは退廃的なものだ。雨風に晒された燕の骸など、見る人が見れば嫌悪を抱く。抱かせることが出来ればそれで上出来なのだが、可愛らしいものを好む人間にわざわざ見せる必要もない。幸いにも、白い画用紙に鉛筆と万年筆のみで描かれた死骸だ。伏せてしまえば、隠すことも容易だった。完成していないからと、誤魔化すことも出来ただろう。しかし男は、そうしなかった。

 死んだ燕の絵を見ても、女の顔が歪むことはなかった。何か感想を貰えるだろうかと期待している男に、女は言った。

「私と一緒に、絵を描きませんか?」

 照れ屋で卑屈で偏屈な男は、怒ったような声で答えた。

「……別に、いいけど」

 講義では使われなくなった、カビの生えたように古臭い教室の隅。周囲の雑音から切り離されたように静かな空間で、二人は絵を描き始めた。題材は、目の前に座っている相手だ。男は女を、女は男を選択した。男にとってその選択はたいして重要なものではなかったし、女にとっても、それは同じことのはずであった。

 描く。相手の顔を見て、写真を撮るように線を描く。たったそれだけのことでありながら、二人の描き方には大きな違いがあった。男は、女の色を見る。描いた線を上書きするように、新たな線を描き加えて一人の人間を作り上げていく。女は、男の線を見る。迷うことも訂正することもなく、正しい線だけを取り出して絵を描く。時間が経ち、他の学生たちが帰り支度を始める頃になってようやく、二人の絵は完成した。

 にこやかに微笑む女が声をかけて、二人は互いの絵を見せる。

 彼女の描いた絵を目の当たりにして、男は息が止まりそうになった。

 鏡に映したように、自分と、うり二つの男が紙の上に描かれていたからである。

 自分を好青年だと思ったことはない。だが、彼女の技巧があまりに素晴らしいがゆえに、紙の上にいる自分が、何か特別なもののように感じてしまった。彼女の描く線のあまりの美しさゆえに、男は自分の絵を恥じた。

 男の描いた女の絵は、雑多な線が多いように見えた。女が描いた絵はどこか無機質で、描かれた男の顔から、何一つ感情を読み取ることが出来ない。しかし、男の描いた絵で微笑む女からは喜びと怯え、そして不安を読み取ることが出来た。相反するように思える二つの感情は、同時に存在することが出来る。矛盾という名の理不尽を許すのが、この世界の愛すべきところなのだから。だが、男は自分の絵を破り捨てたくなるほどの敗北感に塗れた。

 これまで自分が自分の絵を上手いと見ていたのは、脳内で保管されているからだと思い込んだ。思い込むようにしなければならないと思った。努力が不足している。鍛錬が、十分ではない。俺には、彼女ほどの才能がないのだ。

 自分の絵の底が見えたような気がして、男は悲しくなった。

 女が、心の底から楽しそうな声で笑う。

「私、こんなに綺麗じゃないですよ。でも、こうして描いてもらえるのは嬉しいです」

「そうか。……俺は、こんな顔をしているのか?」

「えぇ。無表情で、怖いですよ」

 正直でありながらもその言葉に嫌悪感や侮蔑の意志はなく、男は曖昧に微笑んだ。

「それで、俺の絵についてどう思う?」

「感想、ですか?」

「あぁ。言いにくいことでも、素直に言ってくれ。俺はすべてを受けとめよう」

「でも、ちょっと恥ずかしいかなって」

「気にするな、俺はお前を認めることにした。正直、すごい奴だと思う。だから、お前が俺の絵を見て得た感想を、教えて欲しいんだ。俺はもっと、上手くなりたいから」

 男は、技術的な感想を教えて貰えるものだと思っていた。憧憬にも近い感情を抱きながら、目の前の女に熱い視線を送る。女のアドバイス通りにすれば自分の作品が大きく変わり、更に強い色を持った作品が描けるのではと思ったのだろう。自分勝手で我儘な男は、ただ一つの作品を見ただけで女のことを尊敬するようになったのだ。珍しく自分から声を出した男は、女の返答を待った。

 秒針が半周するほどの時間をかけてから、女は、意外なことを言った。

「私は、あなたの絵が好きですよ」

 これが私の求めていたものかもしれないと、そう言ったような気さえして。

 憧れは、いつも空から降ってくる。

 男が理想として描いた女は、ただ静かに笑っているだけだった――


 スクリーンが端から燃えていくように、過去の上映は終わった。絵を描いている最中に眠っていたらしい。無理もない。ここ数日、まともな睡眠をとっていなかったのだから。

 それにしても、嫌な夢を見たものだ。下野と初めて出会った日のことを思い出して、これではまるで、俺が下野に好印象を抱いているようにも見える。あらかじめ、否定しておこう。

 俺は下野の絵が好きなのであって、奴そのものには、毛ほどの興味も抱きたくはない。そもそも、恥ずかしいのかなんだか知らないが、演技掛かった口調で喋る奴は嫌いだ。

 本音で喋れ、偽物になるな。これは、俺にも言えることだけど。

 鉛玉を飲み込んだように重い身体を引き起こして、俺は大きく伸びをした。古い木造建築の建物が軋むように、固まった体の節々が痛む。横になって眠らなかったせいだ。体を捩じる軽い運動をしてから、眠る直前の俺が何を描いていたのかを見る。

 思わず、声が漏れた。

「まだ夢を見ている、ということか」

 見間違えたのでは、と思って目をこする。時刻は午前四時、もう一眠りすることが許されている時間帯だ。大きく息を吸って、もう一度目を凝らす。薄い月明かりに照らされていたのは見紛うことなき彼女の顔。

 下野薫が、そこにいた。

 自分の中でも、相当に出来がいい作品だ。余分な線はほぼゼロに近い。近づいてみれば多少雑な線もあるし、眠気が強かったのだろう、画用紙の隅を不用意に汚してしまった痕跡が残っている。しかし、かなり俺の理想に近い作品として出来上がっている。あまりの眠さゆえに、不要な線を描くだけの力がなかったことも良い方向へ働いている、のだろうか。

 正直なところ、腹立たしい。

 なぜ、下野を描いてしまったのだろう。これでは本当に、俺が、下野に。

 彼女に固執していることは間違いないが、これだと、俺は。

 紙の中にいる彼女は、勝ち誇ったように微笑んでいる。俺が彼女を突き放せないことを知って、安堵しているようにも見える。それが、なぜか悔しかった。

「……くっ、次だ。次を描くぞ」

 日の出まで、まだ時間がある。二度と下野を描いてしまわないように、俺は昔描いた魔物の絵を引っ張り出してきた。ノートサイズの小さな紙に描かれた、肉のない貧弱な魔物だ。このときは、テーマを病弱か何かに設定していたのだろう。

 作品のテーマを曖昧にしか思い出せないということは、それだけ絵から受ける印象が弱いということであり、まだまだ俺の力が未熟であることを如実に示してくれる。だから俺は、過去を捨てられないのかもしれない。

「それで、この絵をどうするかだが」

 描いてしまった彼女の絵を見つめて頬をかく。曲りなりにも、俺が理想とする描き方に近づきつつあることを証明できる作品だ。破り捨てることは出来ず、また一枚、彼女の笑顔が増えていく。考えないようにと意識すればするほどに彼女は俺の中での存在感を増していき、俺の行動と関わりを持ってくる。

 いつしか、俺の感性にすら影響を与えるようになるのかもしれない。

「いや、もしかしたら」

 すでに、そうなっているのかもしれない。

 悔しくなったので、複雑な技巧や尖った表現には拘らず、ひたすら手癖を頼りに絵を描いていくことにした。色鉛筆によって徐々に生命力を増していく魔物が、我武者羅に筆を動かす俺を見つめている。

 筋張った顔をした屈強な魔物は、どこか困惑しているようにも見えた。

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