第2話 バイトってのも苦手だった。
フライヤーから揚がってくるカツを店長の顔に見立てながら、包丁を振るう。俺は、バイト先が嫌いだった。毎日のように言葉の暴力を浴びれば、嫌いにもなる。少しでも心を癒すものが欲しく、別のことを考えようとした。すると、下野の顔が浮かび上がってくる。ひとつ、確かなことがあった。
俺は、下野の美しさを認めている。彼女の容姿や性格のことを言っているのだが、この言葉を内心思うだけでも、口の中が苦くなった。俺は、彼女に嫉妬に近い羨望を抱いているのかもしれない。それほど、彼女は美しい。下野薫は、俺が理想とする姿形をしていた。
それこそ、絵に描いたように。
身長はそれほど高くなく、しかし小柄というわけでもない。体の線はやや細いが、触れれば崩れそうなほど貧弱な身体をしているわけでもない。彼女の身体には、他人と比べて色のある特徴がない。全体的にはぼんやりと、道行く人々から平均をとっただけのような、平凡な体躯をしている。
しかし、平均こそが美しい。平凡こそが尊ばれる。
凡俗であることが、美しさに繋がる最も重い要素なのだ。
彼女の身体には、一本の筋が通っているように見える。平均の集合体とは、限りなく純粋なものを集めた中から、選び抜かれた食材を集めてつくった料理のようなものだ。どこか一つが崩れた時点で、ゲテモノの寄せ集めにすら劣るという特質を秘めているから、敬遠されることも多々ある。その上、全体として寄り集まることで初めて価値が生まれるわけだから、分解して並べた時点で価値がなくなってしまうのも扱いが難しいところだ。それでも、俺は。
整った目鼻立ち、朝露に濡れた薔薇に桃の香をつけたような唇。西洋人のように細い顔立ちは、笑うと、日本人らしい丸みを帯びた頬に変わる。感情によってはっきりとした違いの出る彼女の顔は、確かに魅力的なものなのだ。どれほど彼女のことを嫌っていても、季節の花々のように多彩で、次々に移り変わっていく表情には、どうしても魅入ってしまう。
それもこれも、考えれば考えるほど彼女のことが憎くなっていく原因になるのだが。
大学の帰り、普段ならコンビニで弁当を買っていくような奴らが、今日に限っては俺の勤務先の店で弁当を買っていく。店長に下野のことを聞かれたが、ただの知り合いだということにして誤魔化しておいた。恋人でなければ友人でもない、互いに切磋琢磨しあって高みを目指す好敵手でもなければ、完全に無関係な他人というわけでもない。俺と下野の関係を表すならば……そう、端的に表すならば、こうなる。
見世物小屋の奴隷と、好奇心旺盛な大富豪。物好きな奴が、見ないほうが幸せに過ごせるだろう矮小な世界を、勝手に覗き見しているだけ。泥と血に塗れた奴隷が、今を必死に走っているだけなのだ。
従業員価格で通常の半値以下になった弁当を手に店を出ると、いつも笑顔の下野が立っていた。興味と期待に、俺には分からない感情を僅かに含ませて、彼女が袋を指差す。
「その袋には、何が入っているの?」
「……今日の晩飯。お前の分はないよ」
「はいはい。君は、いつもここで食べているのかい」
「大抵は、そうだな」
彼女に袋の中身を尋ねられたとき、一瞬、ゴミと答えるかどうかで迷ってしまった。これ以上は秘密にしておいたほうがいいだろう。この店で働いている以上、まだ、迂闊なことを言いたくはない。
弁当は従業員価格で半額にしてもらえるし、学食で食べるよりも量が多いから、俺は大抵ここの弁当を食べている。しかし、たまには食べない日だってあるのだ。
曲がりなりにも、俺が所属しているのは美術部だ。絵を描くための画材は部費で賄えているが、鬼や阿修羅のように描き続けていると、どうしても足りなくなる。絵を入れるための額縁も安めのものを選ぶようにはしているが、どうしようもない出費というものが多いのだ。俺は筆が早く、相当な数の額縁を購入しているから、その分の出費も相当なものになっている。
そして金が減ってきたときは、取材費ではなく俺の食費から削られていくから、たまに飯が消えるのだ。それでも、俺は絵を描きたい。
そんなことより、下野に聞きたいことがあった。
「それで、下野。俺のバイトを見た感想は?」
「結構繁盛していたね。いつもあんな感じなのかい」
「いいや。いつもより多かったくらいだ。なにせ、厨房で目を回しそうになったからな」
「そうなんだ。ということは、キャンペーンの効果かな」
「キャンペーン?」
言われて振り返ると、店の看板のすぐ横に目立つ赤文字が書かれていた。電飾で照らされた文字列からは、惣菜が三割引だというのがすぐに分かる。なるほど、だから今日は忙しかったわけだ。
「その顔は、あれかな。私に集客効果を期待したりしていたのかな」
「……うるせぇ」
「ハハ、私にそんな魅力があるわけないだろう。それとも、君が見つけてくれるのかい」
「しないよ、そんなこと。しかし、フェアをやっていたとは知らなかったな」
黄色い光に照らされた、赤い文字を眺める。冷静に考えてみれば、確かにそうだ。彼女の容貌が優れていたとしても、今日明日で人が増えるわけではないだろう。俺はどうも、彼女を過大評価している気がした。色眼鏡とは、恐ろしい。
「君は私を過大評価していそうだ」
「はいはい、そうですね」
「でも、私だってそれなりには美人さんだろう?」
「……そうか?」
むぅ、と彼女が唇を尖らせる。小学生ですらしないような子供染みた行動に、思わず笑ってしまいそうになった。だが、内心穏やかではいられない。
心を読まれたのもそうだが、下野が自分の容姿にそれなりの自信を持っていることが嫌だ。謙虚さは日本人の美徳だというが、俺は反対している。自分に自信を持つことが何より自己を強化し正当化し、敗北のレッテルを貼られない為に重要なことであって、それを下野が自然と行っているのが、なぜか悔しい。まるで彼女が、俺の理解者のように思えてしまう。
「ところで君、唐揚げを食べたいと思ったりはしないか」
「どうしてそんなことを考えなくちゃならないんだ」
「だって君、お弁当しか持っていないじゃないか。 もう一品、おかずを追加してあげようという私なりの気遣いという奴だよ」
「お気遣いどうも。それより、サイドメニューの一品だけで何時間も粘らないで欲しい。なぜか俺が店長に睨まれた」
「でも、大抵の人はお弁当でお持ち帰りだったし。結果オーライってことに」
「ならないよ。諦めて、次からは来ないでくれ」
もう、店長に小言を言われたくはない。あまり、あの人とはそりが合わないのだ。保存期限の切れた食材を使うなんて、どうかしている。
俺のバイト先は地方に展開している弁当屋で、最近業績が右肩上がりになってきているらしい。仕事内容はメモして覚えるのが鉄則らしいが、そんなことをしないでも覚えられると主張したがために嫌がらせを受けている。まぁ、所詮は野次を飛ばされる程度だ。客の前で突然襟首を掴まれて、謂れのない暴力を受ける程度だ。作品を批判される未来の為に、心の皮を厚くする訓練だと思えばいい。
黒く染まる思考を振り払うように、俺は頭を振った。下野に軽口を叩く。
「それで、食べたいなら買って来いよ。俺は金が勿体ないから買えないけど」
「えー。お金は、使ってこそ価値があるものだろう?」
「その意見には賛同するが、俺は、俺が使いたいことに使うんだよ」
「むう。君は結構、依怙地なところがあるよね」
拗ねてしまった下野をみて、思わず頬が緩んでしまう。やはりこいつは、面白い。一緒にいて飽きることがないし、なにより、俺の荒んだ心に涼やかな風を吹き込んでくれる。太陽がすべての生命を焼き焦がす、荒涼とした大地。そこに降り注ぐ雨のように、彼女は俺を癒してくれる。心にあいた穴を、丁寧に埋めてくれる。
ただ、その恵みの雨となったものが唐揚げだなんて、そんな滑稽な話があってたまるか。小学生みたいな奴に癒されてしまったことが悔しくて、俺は言葉を継いだ。
「お前、自分が食べたいだけじゃないのか」
「まぁ、そういうのもあるんだけどね」
「それなら尚のこと、お前だけで食べればいい。俺はいらない。他人から施しを受けるのは、大嫌いなんだ」
「施しって、そんな。私は、一緒に食べようって言っただけだよ? 美術部の二年生同士、学部は違えども親睦を深めようとしただけじゃないか」
風が吹いて、下野がよろめく。つま先で器用に一回転すると、俺のもとに踏みこんできた。頭突きが届きそうな程に近づいて、電灯に照らされた彼女の顔を見る。口の中で言葉を転がして、俺の出方を待っているように見えた。
晩飯くらい、勝手に買って食べればいいじゃないか。俺と一緒に食べなければならないというルールなんて存在しない。俺が働いている間に食べたくなったというなら、普通に買いに来ればよかっただけの話で、俺を待つ必要なんてない。彼女の人生に、俺という人間は必要ないのだから。呆れて首を振ると、身体に染みこんでいた匂いが立ち上ってくる。胃に悪そうな、廃油と同じ臭い。
芸術の奴隷は血と泥と、そして油にも塗れているらしい。
少し口調が荒かっただろうかと反省し、鼻の頭をかく。黙っていると、下野が喋りかけてきた。その顔には、悪戯っ子のような笑みが浮かんでいる。
「本当に要らないの? 君の分も、からあげを買ってきてあげようか」
「お前な、その程度で俺がつられるとでも思っているのか」
「そんなわけないよ。コロッケもつけてあげよう」
冷めた視線を返すと、慌てた彼女が腕を振る。
「冗談だよ。冗談に決まっているじゃないか」
「そうだろうな。本気だったら驚きだぜ」
俺、舐められすぎだろ。本当のことを言えば貰えるものなら貰っておきたいのだが、彼女から何かを貰うということには抵抗がある。貸しを作るような気分になってしまうのは、俺だけなのだろうか。
もう話すこともないだろうと、彼女に背を向ける。忘れていたことを思い出したように、慌てた様子の彼女が前に回り込んできた。眉をひそめると、彼女はくるくると指を回し始めた。トンボを惑わすように、綺麗な円を描き続ける。
俺が習得するまでに半年もかかった綺麗な円を、意識する風でもなく空に描き続ける。そこにも彼女の才能が現れているような気がして、口の中が苦くなった。
「君は、どうしてここでのバイトを始めたんだい?」
「……それは、金が欲しかったから」
「それ以外の理由はないの?」
「ない、というのは違うか。ここの従業員になっておけば、弁当が半額になるからな」
「それもお金のことじゃないか。絵の題材を見つけることはないのかい」
下野の質問に、俺は首を傾げた。俺がバイトをする目的の主な部分は、すべて金に関わることで構成されている。一応、よくよく考えてみれば、それ以外のことも思いつく。最初に思いついたのは、やや黒い感情の取り扱い方だった。店長と喧嘩した日は、絵に嫌悪感が纏わりつく。態度の悪い客が来た日には、距離を取りたいと願う気持ちが絵具の塗りに現れる。しかし結局は、その程度のことだろう。
俺は、いろんな人が嫌いなのだ。だから、独りになっていく。
嫌味な店長と好きになれそうもない客ばかりが訪れる店から離れられないのは、時間給が他の店舗に比べて良いからであり、同じように自分の時間を切り売りするなら少しでも高い方がいいという、ある種の欲があるからだろう。その欲望が絵に滲んだときは、成金趣味の人が好みそうな絵が完成する。普段と違うタッチを生むという点でだけ、この弁当屋は俺に様々な影響を与えている。もっとも、そういうときに描いた絵は、ほとんどを破り捨てているが。
納得のいかない作品は、紙屑にした方がマシだ。よく、燃えるから。
思案の海を抜け出すと、下野が不思議そうな顔をしていた。まだ質問に答えていなかったことを思い出して、少々誤魔化すようにして告げる。
「題材を得たことはない、こともない」
「へぇー。やっぱり、一石二鳥ってことだね」
そうなのだろうか。そうなのだろう、少なくとも下野にとっては。
絵を描く時間が削られているのだから、俺にとっては最低となるマイナスが含まれていることを、下野は計算にいれていない。自由な時間を過ごせるのは、あくまで金がある奴だ。金がなければ、何も出来ない。理想や夢を語る資格を有するのは、あくまで現実と対等に渡りあうことが出来る奴だけなのだ。
落ち着きなく視線を彷徨わせる彼女は、次の言葉を夜空から見つけ出そうとしている。話がないなら帰りたいが、一歩踏み出そうとするたびに彼女の唇が小さく震えるのが見えた。言いたいことがあるなら、腹の中で腐らせる前に言ってしまえばいいのに。
彼女には、その資格があるのだから。
喋り出すきっかけが掴めないというのなら仕方がない。今回だけは手伝ってやろう。
「俺に、何か聞きたいことでもあるのか」
「と、当然じゃないか」
彼女は首を、何度も縦に振った。そのたび、結ばれたポニーテールが小さく跳ねる。
俺の好みを熟知されているようで、何とも言えない気分だ。下野には似合っていないのに。
「ここのお弁当は、信頼と実績があるわけだね」
「……まぁ、それなりに」
「君も、ここの弁当が気に入っているんだろう?」
「そうだな。嫌いなわけじゃない」 他の選択肢がなかっただけで。
「じゃぁ私も、今晩はここのお弁当にしよう」
暢気な顔で告げる下野に、俺はハイそうですかと頷きはしなかった。皮肉のひとつくらいは言ってやりたくなったのだ。
「お嬢様が庶民の食い物でいいのかよ」
「あのね、世の中貴族の子供ばかりじゃないのよ?」
「そうかい。でも、お前の家は裕福なんだろ? だったら、家でいいもの食わせて貰えよ」
「確かに、私の家は、お金持ちかもしれないね」
なぜか下野は、哀しそうな顔をした。
「でも、私の家はただの小金持ちですし。成金って言っても過言じゃないくらい、お金持ちの中では下位の方なんだよね。お爺ちゃんの代から急に成長しただけで、それまでは普通の家系だったわけだし。だから歴史も古くない。そんなわけで私、決して素晴らしい教育を受けてきたわけじゃないのさー」
下野はおどけて、くるりと回る。俺は、そんな下野を見つめていた。
確かに、彼女の言う通りかもしれない。本物のお嬢様なら、俺みたいな奴でも通える大学ではなくて、例え一浪してでも、由緒ある名門を目指すだろう。目指さなくてはならないだろうし、その為の教育を受けさせられるはずだ。俺には、考えられない世界だけど。
彼女から顔を逸らし、「私が出てくるまで待っていてくれる?」逃げ出そうとしたが無理だった。飼い犬や飼い猫は、今の俺と同じ気分を味わっていることだろう。早く解放されたい。自分ひとりの、自由な時間が欲しい。
精一杯の苦労を顔に浮かべて、彼女に嫌味を言うことにした。
「誰がそんなことするんだ。時間の無駄だろう」
「酷いなぁ。私は君が働いている間、ずっと待っていてあげたのに」
「嘘つけ。ずっと、何か描いていただろうが」
「見ていたのかい」
「当然だ。厨房が外から丸見えということは、厨房から外も完全に見えるってことだぜ」
「いやぁハハ、これは失敬。でもこれは見せたくない。ただの暇つぶしじゃないんだから」
予想していた答えが返ってきた。
大方、店に来る客のスケッチでもやっていたのだろう。そうでなければ、紙とペンを取り出す意味がない。神にペンを持たせるのは、必ず仕事をさせる為なのだから。彼女の描く絵は写真のように正確で、静謐な気品を持ち合わせている。
そして何より、不要な線がどこにもない。俺が理想とする高みに、彼女の絵はあった。
だから、俺は下野のことが嫌いだ。時として、悔しさで胸が張り裂けそうになるほどに。
「お前がそのスケッチを見せてくれるというなら、俺は待っていてやっても構わないが」
「でも、いや、だったらまた別の機会にでも」
「嫌ならいい。ただし俺は帰らせてもらう」
彼女に背を向けると、小さくうめく声が聞こえた。本当に、俺には見せられないものらしい。そのままの姿勢で、首だけを後ろへ向ける。蛇のように舌を出して、出来る限り俺が悪人として彼女の瞳に映るようにした。彼女の顔が少しの怒りと悲しみと、それを大きく膨らませるだけの何かによって変化していくのを楽しみながら、俺は静かに歩き出す。
またねと言った彼女の言葉を、俺は背中で受け流した。
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