第10話 テスト前にも休息はない。2
一息ついたところで、大きく伸びをする。何をするかを考える前に筆へ手が伸びてしまった。疲れてきた身体はともかくとして、心の方は満足が行くほど絵を掛けていないらしい。
もう少しだけ、描いてみようか。
木材が焦げたような匂いのする部室には、蝉の声が響き渡っていた。夕暮れ時には、作業を切り上げて家に帰ろう。部室にいると、いつまでも絵を描いてしまいそうだ。最後の一枚、と画用紙を取り出したとき、乾いた咳が出た。同時に、喉の奥が少し痛む。
風邪だろうか。
しかし身体に痛みはなく、倦怠感も普段より強いわけではない。理由のない痛みというわけではないだろうに、少し不安になる。だが、こうして自分を客観的に見つめることが出来るのだから、身体が特別おかしなことになっているわけでもないだろう。さっきまで、窓を閉めて作業をしていたのが原因かもしれない。
唾を飲むたびに痛む喉を押さえながら、俺は筆を動かした。
地元の風景を描いていると、セミの鳴き声が一際大きくなった。不自然なまでに声が小さくなるのと同時に、美術室の扉の閉まる音がした。下野が来てくれたのかという期待は、一瞬で消える。
部長が、複雑な顔をして立っていた。
「やぁ。また、ここに来ていたのか」
「……何か、ご用ですか?」
「いや、勉強から逃げたくてここに来ただけだから。僕は知り合いが、美術部にしかいないからさ」
テスト期間中は、図書館や食堂に生徒があふれかえり、知人友人のいない学生にとっては苦行の日々が続く。俺の場合は近くで一人暮らしをしているから、どうしても居場所が見つからなければ帰ることも出来るのだが。
俺が部長だったなら、同じことをしていただろう。まぁ、テスト期間中には部室を開けないというのが基本だから、他の学生がいるとは思わなかっただろうが。部長は俺の近くの椅子に座り、俺の下書きに軽く目をやる。
「僕は七限まであるんだけど、君はどのくらい残っていくつもりなんだい」
「一応、夕暮れ時には帰るつもりです」
「そうか、じゃぁ鍵は僕が預かっておこう。ちゃんと返しておくから、ね?」
「また失くさないでくださいよ、俺まで疑われるんだから」
バツが悪そうな顔をした部長に、俺は美術室の鍵を渡す。部室を開けられるのは、肩書や在籍歴に関係なく、二年生からと決まっている。俺が美術室の扉を自由にあけられるようになったのは、今年からのことだった。もっとも、美術準備室に関しては、去年から入り浸っていたのだけれど。
「あ、そうそう。下野君には会った?」
「……いや、まだ会っていませんが」
部長の言葉に、身体を硬くする。やはり、爺さんのところに来たのは下野だったのだろうかと思う。思い込みたい自分がいるのかもしれない。だが、部長は小さく首を横に振ると、突然変なことを言いだした。
「神成君。君にとって、芸術とは?」
「……すべて、です」
「はは、君ならそういうと思っていたよ。でも、昔よりも答えるのに時間がかかっているね。何かあったんだろ? 僕だってそのくらいは分かるようになったんだ」
「部長こそ、テスト期間中に部室に来てもいいんですか? またテストで単位を落とすなんてことになったら、今度こそ俺は笑いますからね」
「いつだって僕のことは笑ってくれても構わないよ、で、どうなんだい? 下野君とは何か進展があったのかい」
「ないです」
「でも、させる気はあるんだ?」
余計なことを言って、揚げ足をとられてしまった。ふつふつと、後悔の念が湧き上がる。これ以上墓穴を掘りたくはないから、俺は絵を描くことに集中しようとした。次の一枚を、と考え始めたところで、下野の顔が浮かんだ。彼女がどんな人間だろうと、俺にとって最も美しい存在であることに変わらない。ならば、彼女の美しさが最も際立つ瞬間とは何だろう。描き始めようとして、腕が止まる。今ここで、下野の絵を描くのはまずいような気がした。
俺は下野のことを、『嫌いにならなくてはならない』という事実は、確かにあるのだから。
空に筆を止めたままでいると、部長が心配そうな顔をして覗き込んできた。
この人は、一切の隠し事が出来ない。
「なぁ、君は、ひとりで抱え込みすぎじゃないか」
「どうして、そんなことを思うんですか」
「だって、筆が止まっているし。君が絵を描くのは、絵を描きたいからだろう。出ないものを絞り出すようにして描かれた作品は、とても醜いものだからね。最近の君には、昔ほどの魅力を感じないよ」
筆をおいて、部長を正面から睨み付ける。
部長はあの、脳を抱いた下野の絵をつまみ上げた。
「例えば、この作品だ。数日前の君なら、下書きといえども、もっと残酷で美しいものを描いていたに違いない。だが、君は気付かないのか? この作品に込められた感情が、どこまでも隠されてしまっているのを。今の君は、明らかに迷っている。なぁ、雄鹿。もしかして」
「いい加減にしてください。俺は、天才じゃないんだ。まだ、プロにすら成れていないんだ。下野に影響されて、部長まで俺を崇めるつもりですか」
「そんなことはしないよ、ただ、僕は君の、いい作品を見たいというだけで」
「だったら、どうして下野をけしかけたりしたんですか。俺の作品が、売れないようなつまらない奴だと思っていることの裏返しじゃないんですか」
俺の言葉に、部長が目を見開いた。
その唇が、固く結ばれる。重々しく、口を開いた。
「本気で、そんなことを思っているのか」
部長が示した予想外の反応に、今度は俺が口籠ってしまう。言い出せないのはどちらも同じことで、ならば、原因を作ってしまった側が口を開くのが正しいことだと俺は思う。
「下野は、お金持ちという噂がありました」
「うん、それは僕も知っている。事実らしいけれど」
俺も本人から聞いたことがある。下野は自分の家のことを成金だと言っていたが。
「そして、下野は芸術大好きウーマンだ。ことあるごとに俺へと突っかかって来るのも、何かしらの意図はあるのだと思う」
「うん、それはすごく良い気付きだと思うよ」
「それに下野は、俺の描いた絵をそれなりに好んでくれているのだと思う。つまり下野は、豊富な資金を持ち、趣味として俺の絵を買おうとするだけの行動力を持った人間というわけだ。だから部長は下野をけしかけて、間接的に俺に金が入るようにした。そうすれば、散々バイトをクビになり続けた俺にも金が入るからな。以上が、俺の考察だ」
語り終えて、おかしなことに気付く。最初の方こそ身を固くして話を聞いていた部長が、なぜか悶えている。何が原因なのかは分からないが、下野の行動原理が芸術であることに、言い知れぬ何かを感じているのかもしれない。もしかしたらそれは、気持ち悪さなのかもしれないけれど……などと誤魔化すのは、やはり無理そうだ。
部長が悶えている原因は、どう考えてみたって俺の考察に違いない。
「……もしかして、違うのか?」
「全然違うよ。なんだか君たち、途方もなく壮大でどうしようもないすれ違いを起こしているみたいだね」
まるで失恋映画を見ているかのように、部長は悲しそうな顔をしている。自分で自分の腸を引き絞るように、今にも泣きだしそうにも見えた。だが同時に、部長からは別の感情も透けて見える。むしろ、こちらの方が本心だろう。
部長は何かを、楽しんでいる。俺と下野が気付いていない何かに気付いていて、一人でそれを楽しんでいる。やはり下野をけしかけたのは部長ではないのだろうか。
「本当に、違うんですか?」
「当たり前じゃないか。僕は下野君をけしかけて、君の絵をすべて買わせるようなことはしないよ。僕だって欲しいのに」
「だったら買ってくれてもいいじゃないですか」
「君が高校生くらいの頃にも言ったような気がするけど、一応言っとくね? 君以外の、放っておいたら餓死しそうな作家に貢いでいるから、今はムリなんだよ」
餓死をするなんてバカみたいだと思ったが、話だけは聞いたことがある。
「……思い出した。部長の彼女だ」
「あっ、違うんだよ? 僕は別に、そういう間柄だから作品を好きになったわけじゃ……」
部長の口元がひくつき、手足の動きが大胆になり始めた。本当に、分かりやすい人だ。
だが、部長の美徳は一切の嘘を吐けないところだ。部長が彼女を好きになった理由などは割とどうでもいいことだったりするのだが、その部長が下野をけしかけていないというのだ。俺が信じないわけにもいなかった。
ひとしきり彼女へ貢ぐ言い訳を並べ立ててから、部長は俺に向き直った。
「そもそも、下野君が買っていったという保証はないじゃないか」
「もういいです。納得はできないけど、信じるしかないみたいですから」
「あれ、いつの間に」
「だって、兄さんは下野を煽ってないんでしょう?」
俺の問いかけに、部長が素直に頷いた。部長の身体に、変調は見られない。やはり、部長の言葉を信じるほかないようだ。これ以上、スケッチをしていてもしょうがない。俺の絵を買ったのが下野ではない、ということがほぼ確定的になっただけで、心の靄が少しは晴れたような気がする。
広げた道具を片付けて、最後まで部長が手にしていた絵を奪い取る。全ての片づけを終えた後、俺は小さく会釈をして、部室を後にした。
部長のことを兄さんと呼んだのは久しぶりのような気がして、少し胸の内側が痒い。ただ一つ分かった確かなことがあるとすれば、彼は俺の芸術を、少しは理解してくれているということであり。
やはり、俺の憧れた男だったということだ。
大学からの帰り道、普段とは違う道を通ってみた。斜度の大きい坂道を、意味もなく駆け上がる。いつも通る道と比べれば随分と遠回りになる道で、景色もあまり、よくはない。それでも俺がこの道を上りたくなったのは、ただ純粋に身体を動かしたくなったからだと思う。絵を描くことだけでは発散することの出来ない何かが、俺の心の中に溜まっている。
俺は、下野のことを嫌いにならなければならない。しかし、俺は下野に慕われたいと、少しずつ思い始めている。どうしてだろう、と問いかける声には、心の闇も答えてくれない。むしろ気付かせまいとばかりに、沈黙を深めるばかりだ。
俺にとっての下野、それは本当に、嫌いになるべき対象なのだろうか。
俺は既に、その答えを持っているのではなかろうか。
俺の絵を買っていったのが、下野ではない。
その事実に僅かでも落胆する俺がいるのであれば、俺は、下野のことを嫌いになるべきではなかったのかもしれない。気付くのが遅すぎたと悟ることには、俺は下野ことを嫌いになれているだろうか。
蝉の声が、やけにうるさく聞こえた。
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