第9話


 駅から家に向かって歩いていたおれは、ふいに声をかけられた。

「お兄ちゃん!」

 聞き覚えのある声に足を止めて振り向く。そこにいたのは妹の綾と、母さんだった。

 母さんがいることに気づいたおれは、二人に声をかけることもなく、止めていた足を動かして二人から遠ざかる。

「ちょっと待ってよ!」

 綾が三つ編みを揺らしながら、おれの前まで駆けてきた。

「なんだよ」

 思わず苛立ちを滲ませた声が出る。

「無視しなくてもいいじゃない。わたしお母さんと一緒に買い物してたんだ」

 綾が話している間に、母さんまでおれの前にやってくる。二人は手に買い物袋を提げていた。

「お兄ちゃんは? 今日はどこかに出かけてたの?」

「お前らには関係ねえだろ」

 おれは別に綾のことは嫌いじゃない。だけど嫌いな母さんがいることと、母さんと仲良くしている綾のことも癪で、どうしても綾にまできつい態度を取ってしまう。

「悠人、元気にしてるの?」

 母さんは、黒髪を首のところで真横に一直線に切り揃えた髪型になっていた。暫く見ない間に髪型を変えたらしい。

 おれは母さんを無視して歩き出し、二人の横を通り過ぎようとした。

「やっとお金が貯まったから、今度ようやく結婚式を挙げることになったの。だから悠人にも来て欲しいの」

 おれの頭に一瞬で血が上る。

「どの口が言ってんだよ! おれたちのこと引き取りたくないって言って、父さんと押し付けあってたくせによ!」

 道行く人たちが驚いて、一斉にこっちに顔を向けるのがわかった。

「お兄ちゃん、まだ言ってるの? あの時はお母さんも感情的になってたからで、お母さんは別にわたしたちのことを嫌ってるわけじゃないよ」

「シュウ君が経済力のない人だったから、わたしについて来るよりも、あなたたちはお父さんと一緒に暮らした方が、あなたたちが幸せになると思ったのよ。わたしについてきたら、あなたたちの学費だって払えるかどうかわからなかったから」

「嘘吐け! 浮気相手と一緒に暮らす愛の巣に、おれたちがいたら邪魔だったんだろ!」

「違う。わたしはあなたたちの将来のことを考えて――」

「浮気しといて、綺麗事並べたてて言い訳するな! 浮気して、父さんを捨てて浮気相手のとこに行くような自分のことしか頭にない奴が、子供の将来のことなんて考えるわけないだろ!」

「いい加減にしなよ! お兄ちゃんは酷いように考えすぎなんだって。結婚した後に好きな人が出来ちゃったんだからしょうがないじゃん。同じ理由で離婚してる人なんて、世の中にいっぱいいるんだからさ。お母さんはわたしたちに愛情注いで育ててくれてたってこと、お兄ちゃんだってわかってるはずだよ? そこまで否定するのはおかしいよ」

「どうせ父さんに飽きたみたいに、おれたちを育てることにも飽きたんだろ」

「わたしは、今でもあなたたちのことを大事に思ってるわ」

「うるさい! そんな戯言聞きたくねえよ!」

 おれは肩を怒らせて足早に歩きながら、その場を立ち去った。


 依然むしゃくしゃした気持ちのまま大股で歩いていると、どこか遠くの方から声が聞こえてきた。

「ん? なんだ?」

 周囲を見渡すが、誰の姿も見当たらない。それなのに声は段々と大きくなってくる。その声は、女の人の叫び声のようだ。

 どうやら上から聞こえてきているということに気づき、空を見上げる。

「へ?」

 なにかが降ってくるのが視界に入った瞬間、避ける間もなく衝突し、おれは背中と後頭部を地面に強打した。

 いってえ! と言おうとしたおれの口が、なにかによって塞がれてるせいで、おれは声を出せなかった。

 強烈な痛みに顔を顰めながら、うっすらと目を開けると、おれの顔に誰かの顔がくっついていた。おれの唇はその誰かの唇によって塞がれていた。

 おれの目の前にある二つの瞳が開く。

 超至近距離で目が合うおれたち。見開かれたその瞳は青緑色をしていた。

 おれに顔をくっつけていた謎の人物がバッと顔を離した。

 おれに馬乗りになって、おれの両肩に両手を置いて、おれを見つめるその人物は、今までテレビや雑誌で見てきた、どのアイドルや女優よりも綺麗な女の子だった。さっき初めて生で見れてめちゃめちゃ可愛いと孝太と二人して言ってたユウカリンよりももっと可愛い。

 信じられないくらいに整っている清楚な顔立ち。真っ赤なバラのような色をした髪。着ている服は、学園異能バトル物のライトノベルでよく見るような、学校の制服と軍人が着る軍服を合わせて二で割ったようなデザインをしている。

 この子は多分コスプレイヤーで、なにかのキャラクターのコスプレをしているんだろう。赤い髪はウィッグに違いない。

 そんなことより、おれ今この子とキスしちゃったんだけど!

 謎のコスプレ美少女の顔が、瞬時に彼女のウィッグと同じ色に染まる。

「なっ……、なっ……、なっ……」

 口をわなわなさせながら、なにかを言おうとしているコスプレ美少女。

「わた、わ、わたし、今、キスしちゃった…………?」

 コスプレ美少女の宝石のように美しい瞳に涙が盛り上がる。

「こんなブサイクと、ファーストキスしちゃった……。ヴァニアス様とするつもりだったのに……!」

 ブサイクなのは自覚してるけど、初対面の美少女に言われ、しかもおれとキスしたことで泣かれ、おれは精神的に大ダメージを受けた。

 むかついたおれは思わず言い返す。

「おれだってファーストキスだったっつうの!」

「なによ! あんたはいいじゃない! 超絶に可愛い絶世の美少女のわたしとファーストキスできたんだから!」

 超絶に可愛い絶世の美少女って自分で言いやがった! その通りだけど、自分で言うか普通!

 あん? なんかさっきから両手が殺人的に魅惑的な柔らかいなにかに触れている気がするんだが。

 両手をわしわし動かしてみる。

 おお! やっぱり柔らかい! なんだこれ、今まで触ったことがない感触だ。触っているとなんだか癒される。

 視線を手に向ける。するとおれの手はコスプレ美少女の大きなおっぱいを揉んでいた。

「なっ、なにしてんのよバカァ!」

 バチンッとビンタされて顔が横を向いた。

「いってえ! 悪い。でもわざとじゃないんだ」

 コスプレ美少女が素早く立ち上がって、おれの上からどいた。

 顔が耳まで真っ赤になったコスプレ美少女の、拳がわなわなと震えている。

「わたしのファーストキスを奪っただけに飽き足らず、わたしのファースト胸タッチまで奪うなんて、万死に値するわ! 死ね! 死ね! 死ね!」

 コスプレ美少女が黒い革靴を履いた足で、未だ地面に仰向けに倒れているおれの体を踏みつけてきた。長くて美しく伸びるその足には、致死の威力が込められていた。

「ごはっ! ぶげっ! ぺほあっ! やめろ、危ないだろ!」

 体を横に転がせて逃げるおれを、コスプレ美少女の足が追いかけてきて、おれの体に爪先を何度もめり込ませる。

「ブ男のくせに! 死んじゃえ! この! この! この!」

「ごめんってば! もう許してくれよ!」

「ふざけんじゃないわよ! あんたが一万回死ぬまでやめないんだからあ!」

「――ぁぁぁぁぁあああああああ! ぐべっ!」

 新たな悲鳴が聞こえてくると共に、なにかが地面に激突した振動が、寝転がってるおれの体ごしに伝わってきた。

 おれを蹴り転がしていたコスプレ美少女と同時に、顔を振り向ける。

 膨らました風船みたいな体をした少年が、地面に突っ伏していた。

「いててててて………!」

 打ち付けたお腹をさすりながら立ち上がった少年は、コスプレ美少女とよく似た服装をしていた。緑色の髪をしているから、彼もウィッグなのだろう。ていうかなんでコスプレイヤーが二人も空から降ってくるんだ?

 二人はさっきおれが孝太と一緒に行っていたコスプレイベントの参加者なのか? 二人共この町に住んでいて、イベントが終わったから、おれと孝太と同じように帰って来たということなのかなあ? この二人をイベント会場で見た記憶がないんだけど。それともイベントの参加者ではなくて、単にコスプレして街を歩いているだけなのかもしれないけれど。

 コスプレ美少女がコスプレ少年に向かって口を開く。

「あんたはさっきの! 一体これはどういうことなのよ!」

「君に恨みはないけど、ここで死んでもらうよ」

 コスプレ少年が腕時計に触った瞬間、その丸く出っ張ったお腹の前に、突然アニメやゲームでよく見るバトルアックスが出現した。

 おお、すげえ! なんだ今の、手品か?

「わたしを殺すですって? 今わたし超機嫌悪いんだけど。笑えない冗談なんてやめてよね」

 なんだなんだこの展開は。二人の中二病的なセリフの応酬は、まるでコスプレイベントの余興みたいじゃないか。でもこの辺りで今日、コスプレイベントが開催されるなんて情報、聞いてないし、この二人は中二病で、コスプレして自分たちの好きな作品の名シーンを、街中の適当な場所で演じてるってとこだろう。それにおれが巻き込まれたってわけか。

 中空に現れたバトルアックスを掴み取ったコスプレ少年が、バトルアックスを持ち上げて構えを取る。

「冗談なんて言ってないよ。おれっちは本気だ、ぞ!」

 なにもない中空に向かってバトルアックスを振り下ろす。

「え、なんだよあれ」

 バトルアックスから斬撃らしきものが、こちらに向かって飛んできた。

「おわあ!」

 おれは咄嗟に立ち上がり、少女と共に斬撃を回避する。

 斬撃が通ったところに目をやる。地面や塀に、彫刻刀で削ったような溝ができていた。

 なんだよこれ。CGの映像を地面や塀に投射して、削れてるように見せているのか? ここまでする余興なんて聞いたことないぞ。

 驚愕に目を瞠って削れた地面を見つめていると、地面に映っていた細長い影が動いていることに気がついた。影をなぞるように目で追い、影を作り出している物体に視線を移す。

 真っ二つに斬られた電信柱がこっちに向かって倒れてきてんじゃねえか!

「おああ!」

 再びダッシュで回避する。

 おれがさっきまでいたところに、倒れた電信柱が直撃する。轟音が鳴り響き、またしても地面が揺れる。

 こんなの絶対余興じゃねえ!

 学園異能バトル物のライトノベルやバトルマンガでよくあるシーンが、現実に起こってるっていうのか! 一体なにがどうなってるんだ!?

「あんた、その力をどうやって……!」

 少女にとっても、少年の力は予想外だったのか、その翡翠色の瞳を見開く。

「ふっふっふ。君を殺すために、おれっち今までの人生で一番恥ずかしいことをして、ブレイブエナジーを溜めてきたんだよ。今度は外さないよ!」

 少年がバトルアックスを中空に向かって連続で振り回す。複数の斬撃がおれたちに迫り来る。

「こんなの逃げ場ねえじゃねえかよ!」

 右往左往するおれとは対照的に、少女はその場から動かずに、腕時計に指を触れさせた。

 少女の大きな胸の前に、大きな杖が出現する。

 茶色い木製の杖は一メートルほどの長さで、先端に赤い水晶が付いている。そしてその赤い水晶を包むように、天使の背中についているような、純白の片翼の意匠が凝らされている。

 少女が杖を手に取る。そして少年を睨みつけた。

「あんたのせいで、わたしの大事な大事なファーストキスとファースト胸タッチが台無しになっちゃったじゃないのよ」

 少女が少年に向かって杖の先端、赤い水晶を突き出す。

「わたしのファーストキスとファースト胸タッチを返せー!」 

 杖の先端から、大玉転がしに使う大玉サイズのドデかい火球がまろび出る。そして少年に向かって炎のマントをたなびかせながら突っ込んでいく。

 斬撃と火の玉が激突する。全ての斬撃があっけなく霧散する。

「な、なんだとお!」

 驚愕に目と口を大きく開けた少年が避ける間もなく、特大の火球は少年に直撃した。そしてそのまま空の彼方へ飛んでいった。

「そんなバカなああぁぁぁ――!」

 おれは呆気にとられて身動きできずにいた。

 赤髪の少女が腕時計に触れると、杖は瞬時に掻き消えた。

 少女がおれを振り返る。まだ怒っているのか、ギロリと睨まれる。

「ここはどこ?」

「……へ?」

「ここはどこなのかって訊いてるの」

 この少女は自分が居る場所がわかってないってのか?

「おれの家の近所の道だ」

「そういうことじゃなくて、国の名前は?」

「日本だけど」

「ニホン? クオンにはない聞いたことのない国だわ。ということは、ここは異世界なのね。あの白く光る壁は、やっぱりビッキーだったんだわ。あっ、そうだ。あの時ヴァニアス様の声がしたから、きっとヴァニアス様がわたしのことを探しに追いかけてきてくれてるはずだわ。ヴァニアス様! ヴァニアス様!」

 少女が大声を出しながら辺りを見回す。

「この近くにはいらっしゃらないみたいね」

 少女が腕時計を確認する。

「今の魔法でブレイブエナジーがほとんどなくなっちゃったわね。ヴァニアス様は戦士タイプだから、合流して一緒に帰らなくちゃいけないわね。ビッキーを使える量のブレイブエナジーが溜まるまでの間に合流できなかったら、とりあえずわたし一人でクオンに帰って、人を呼んできて一緒にヴァニアス様を探してもらうしかないわね。ビッキーを使える量のブレイブエナジーを溜めるまでには、それなりの時間がかかるから、それまでの間どうしよう……」

 一人でぶつぶつ言っていた少女の瞳が、おれへと向く。

 なんか嫌な予感がして、おれはそそくさと退散することにする。

「さあて、そろそろ帰るかな」

 家に向かって歩き出そうとしたおれに前に、少女が立ち塞がる。

「待ちなさい」

「……なんだよ」

「わたし、クオンていう世界からこっちの異世界に飛ばされちゃったみたいなの。それで、帰れるようになるまで、泊まる宿がないのよ」

「ふうん。おれには関係ない話だな。じゃ、そゆことで」

 少女の横を通り過ぎようとしたおれの前に、少女が再び立ち塞がった。

「あんたの家ってここの近くなんでしょ。あんたの家に泊めなさいよ」

「はあ!? なんでそうなるんだよ! お前のことなんか知らねえよ! 大体別の世界から来ただって? そんな話信じられるわけねえだろ! 中二病の寸劇はもういいから、とっとと自分に家に帰れよ!」

 と言いながらも、さっきのバトルを自分の目で見ちまってるから、おれは少女の話を半分くらいは信じていた。今だって倒れた電信柱や削られた地面が視界に入ってるし。でもこの少女とはこれ以上関わりたくない。ろくなことになりそうにないからな。おれは今見たことを全部忘れることに決める。だからそこをどいてくれよ。

 少女が眉を吊り上げ、おれの顔を睨み上げる。

「あんた、わたしのファーストキスとファースト胸タッチを奪ったわよね」

「ま、まあそういうことになるな」

「だったらつべこべ言ってないで泊めなさいよ」

「だからなんでそうなるんだよ! それとこれとは関係ねえだろ!」

「あんたは、この完璧超絶美少女であるセルフィ様の大事な大事なファーストキスとファースト胸タッチを奪ったのよ!? しかもあんたみたいなブサイクがよ! これは重罪だわ!」

「それが人に物を頼む時の態度かよ! なにが重罪だ! そんなもん知るか! どけよ!」

 おれは少女を押してどかし、道を開ける。そして少女を置いて帰ろうと歩き出す。

「きゃあ! 痴漢よ痴漢!」

 少女が自分の体を抱きしめながら騒ぎ出す。

 電信柱が倒れたりした音で異変に気づいた人たちが、いつの間にか集まってきていた。少女の大声に野次馬たちがおれたちに注目する。

「おいやめろよてめえ! 汚ねえぞ!」

「泊めてくれるって言うまで続けるわよ。この人痴漢です! 誰か助けてください!」

 野次馬たちがざわつきだす。

「わ、わかったからやめろよ!」

「ふんっ! わかればいいのよ。さあ、そうと決まれば、さっさとあんたの家に案内しなさい。わたし疲れちゃった。早く休みたいわ」

 なんなんだこの女! 清純そうな顔しといて、性格はちっとも清純じゃねえ!

「わたしはセルフィ。あんたは?」

「悠人だよ」

「ユウト? 変な名前ね」

 お前に言われたくねえよ! お前なんかゲームのキャラみたいな名前じゃねえか! 

「それにしてもここ暑いわね」

 セルフィが上着とマントを脱いで、片腕に掛ける。

「さあ、行きましょ」

 はあ……。なんだか妙なことに巻き込まれちまったな。

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